川辺川ダム計画はなぜ消えて、なぜ復活したか〈上〉

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POINT
■2020年7月の豪雨による球磨川氾濫の甚大な被害を受けて、熊本県の蒲島郁夫知事が、川辺川ダム容認へと方針を転換した。知事の看板政策だった「ダムによらない治水」は九州豪雨の前から行き詰まり、球磨川の治水対策は遅れが目立っていた。知事の決断は遅すぎた。

■流域住民の多くが川辺川ダム計画に反対した一因には、1965年の球磨川大水害時に既存のダムが役に立たず、ダムへの不信を募らせたという経緯がある。治水対策の遅れは、住民のダムへの不信を解くことができなかった国にも責任がある。

■蒲島知事はダム反対の「民意」を追い風にしたが、結果的には「ダムか、非ダムか」の対立を激化させてしまった。今度こそ、この二項対立に終止符を打たなくてはならない。

調査研究本部総務 丸山淳一

県議会で方針転換を表明する蒲島知事(11月19日)
県議会で方針転換を表明する蒲島知事(11月19日)

 2020年7月の九州豪雨で氾濫した球磨川の治水対策で、熊本県の蒲島郁夫知事がこれまでの「ダムによらない治水」方針を転換し、球磨川最大の支流・川辺川への流水型(穴あき)ダム建設容認を表明した。蒲島知事から要請を受けた赤羽一嘉国土交通相も「スピード感を持って検討に入る」と方針転換を歓迎した。2008年から凍結されていた川辺川ダム計画が、再び動き出す。

 球磨川の氾濫で死者・行方不明者は67人に達し、人吉市など熊本県南部に大きな被害をもたらした。筆者は2015年から2年間、熊本のテレビ局に赴任して16年4月の熊本地震に遭遇し、九州の豪雨のすさまじさも体験した。東京に戻ってからも熊本での災害はひとごととは思えない。まず、7月の豪雨被害の犠牲になられた方々、被害を受けられた方々にお悔やみとお見舞いを申し上げたい。

 今回の球磨川の水害については、県民の中からも、3期12年の任期中に「ダムによらない治水」の具体策を打ち出せなかった蒲島知事の責任を問う声が上がっている。確かに知事の責任は大きいが、議論が進まなかった理由はそれだけではない。流域住民の多くがダムによる治水を拒んできたのは事実で、その背景には半世紀以上にわたる流域住民の国の河川行政に対する不信がある。

 考察の〈上〉では、蒲島知事が2020年11月19日の熊本県議会全員協議会で行った演説の内容を紹介し、12年に及んだ「ダムによらない治水」迷走の経緯を振り返ってみたい。

対立の打開策だった「ダムなし治水」

 「私が、2008年4月に熊本県知事に就任し、直ちに取り組んだ重要課題が川辺川ダム問題です。1966年の建設計画の発表から40年以上が経過し、それでも解決の糸口が見出せず、ダムの是非を巡る地域の対立は、深刻な状況にありました」
(11月19日、蒲島知事が県議会で行った意見表明「球磨川流域の治水の方向性について」から、枠内以下同じ)

 球磨川は日本三大急流のひとつで、水害が起きやすい「暴れ川」」だ。上流の人吉・球磨盆地は、周囲を山に囲まれ、山間部に降った雨がすり鉢状の盆地に集まりやすい。中流は急峻(きゅうしゅん)な山を縫って流れ、川幅が狭まる山間狭窄(きょうさく)部、つまり「ボトルネック」になっており、急に水位が上昇しやすい。下流は八代平野の扇状地を蛇行し、河口付近は干拓でできた海抜が低い土地で、広範囲にわたる浸水に見舞われやすい。

 上流、中流、下流の災害リスクの要因が異なり、どこで水害が起きてもおかしくない。古くは平安時代の869年(貞観11年)から大洪水の記録があり、国土交通省河川局の「球磨川水系の流域及び河川の概要」によると、過去400年に100回以上も水害があったと記録されている。

 川辺川には1950年代から治水ダム建設構想があり、1965年(昭和40年)7月の「七・三水害」を受けて建設計画が具体化したが、流域では直後から反対運動が起き、蒲島氏が知事に就任した2008年(平成20年)になっても賛否が拮抗していた。

 「12年前、流域住民の声に耳を傾けたとき、『当時の民意』は『ダムによらない治水』を望んでいると判断しました。そこで、川辺川ダム計画を『白紙撤回』し、ダムによらない治水を極限まで追求すべきとの考えを表明しました」

 蒲島知事の白紙撤回を受けて、その翌年、当時の民主党政権は川辺川ダム建設計画を凍結した。2000年代の初めにはダムによる水質悪化などが社会問題となり、長野県の田中康夫知事による「脱ダム宣言」を筆頭に、ダム無用論を主張する首長が相次いでいた。民主党政権は「コンクリートから人へ」をスローガンに掲げ、東の八ッ場ダム、西の川辺川ダム計画の凍結は、その象徴とされた。

 だが、演説で蒲島知事は、「ダムによらない治水」は当時の流域住民の「民意」だったと強調し、「脱ダム」が自らの信念だったとは言っていない。賛否をめぐって対立していた川辺川ダム計画について、当時強かった「脱ダム」の流れに沿った方向性を示すことで、止まっていた球磨川の治水対策を一気に打開しようとしたのだろう。

全国で唯一整備計画がない球磨川

 「白紙撤回を表明したのち、直ちに国・県・流域市町村で『ダムによらない治水を検討する場』を立ち上げました。検討を進める中にあっても、地域の理解が得られた対策については、順次、事業を進め、県の基金を活用した防災・減災対策も進めてまいりました」

 だが、「ダムによらない治水」は、知事が期待したようなカンフル剤にはならなかった。蒲島知事は「検討を進めてきた」というが、「協議の場」での具体策の検討は遅々として進まず、球磨川水系は全国109の1級水系の中でいまだに唯一、治水対策を進めるための河川整備計画ができていない。知事が「順次進めてきた」という防災・減災対策も、堤防の補強や宅地のかさ上げ工事などが一部で実施されただけだった。

 川辺川ダムに反対する市民団体は、「協議の遅れは、『ダムによらない治水』を検討する場でも国交省がダムありきで協議を進めようとしたからだ」と批判する。確かに国交省は知事の白紙撤回表明後も、「川辺川ダム計画は凍結中で、廃止されたわけではない」という姿勢を崩さなかった。

 国交省は2007年、河川整備計画の前提となる基本方針を策定した。80年に1度の豪雨が降ると、人吉市街地を流れる球磨川に流れ込む水の最大流量(基本高水流量)は毎秒7000トン(立方メートル)に達するが、同地点では流量(計画高水流量)が毎秒4000トンを超えると氾濫が起きるという内容だ。河川整備計画は、毎秒3000トンの流量を減らす内容にしなければならなくなったわけだが、上流にダムを造らず3000トンも減らすのは至難の業だ。人吉地点の川底(河床)を掘削して計画高流水量を4000トンより増やせば、3000トンも減らさずに氾濫は防げるが、国交省は「岩盤が露出して浸食され、川の生態系に重大な影響を与える。河床の掘削は不可能だ」として、計画高水流量の見直しを拒み続けた。

 河床の掘削が本当に不可能なら、現実的な選択肢は川辺川ダムしかないが、この時点で、蒲島知事は「ダムによらない治水」に見切りをつけなかった。国交省もダム反対派と向き合い、「やはり、ダムしかない」と説得を尽くしたとは言えないだろう。

 2012年と17年の九州北部豪雨、16年の熊本地震と、立て続けに起きた大きな自然災害への対応に追われた事情は、熊本で災害を目の当たりにした筆者には理解できる。しかし、災害が相次いだからこそ、国も「ダムによらない治水」による球磨川の治水対策の遅れを放置してはならなかった。出先機関が手いっぱいなら、東京・霞が関の本省が動くべきだった。これでは河川整備の基本方針ができても、具体的な整備計画がまとまらないのは当然だ。ダムのない治水対策はさらに袋小路にはまっていく。

極限まで検討した結果?非現実的な10の案

 「ダムによらない治水を極限まで追求するために、新設のダム以外の方法で、 引堤(ひきてい) 、堤防のかさ上げ、遊水地、放水路、市房ダムの再開発などを組み合わせた10案についても検討を進めてきました」
 「しかし、この10案については、事業費が莫大であること、工事期間も長期に及ぶことなどから、実施に向けた治水対策として、流域の皆様と共通の認識を得るまでには至りませんでした」

西部本社版10月4日朝刊より
西部本社版10月4日朝刊より

 知事は「検討を進めてきた」と言うが、国と県が10の案を示したのは、1年半ぶりに開かれた2019年6月の球磨川治水対策協議会でのことだ。川岸から離れたところに堤防を造り直して川幅を広げる「引堤」や、堤防のかさ上げ、遊水地の設置や放水路の建設、市房ダムの再開発など、川辺川ダム以外のさまざまな選択肢が組み合わされたが、10案のうち費用が最低の2800億円ですむ案は工期が95年、工期が最短の45年ですむ案は費用が5700億~8200億円もかかるという非現実的な内容だった。

 前述した通り、球磨川は上流、中流、下流で流域の様相が大きく異なる。例えば川幅が急に狭まる中流では、川と山肌の間に国道219号線やJR肥薩線が走り、集落も散在しており、引堤は事実上不可能だ。ダムの有無にかかわらず、球磨川の治水対策は流域の特性にあわせて総合的に進めなければならず、莫大な費用と長い期間がかかることは検討を始める前から分かっていた。10案を並べて改めてそれを確認した意義は、「できることから少しでも早く進めるしかない」ということに尽きる。

 川辺川ダムの総事業費は3300億~3400億円で、すでに2000億円以上が投じられている。工期は未定だが、10年はかかるとみられていた。ダムがあっても他の治水対策が不要になるわけではないが、試算で除外された川辺川ダムの建設を加えれば、他の対策の費用や工期の制約は少なくなり、すぐにできることは確実に増える。試算結果は、球磨川の治水対策を「ダムか、非ダムか」から「ダムも、非ダムも」に転換するチャンスだった。だが、この機会も方針転換にはつながらなかった。そしてその約1年後、2020年7月に九州豪雨が流域を襲った。

 「惨状を目の当たりにし、改めて、自然の脅威を痛感しました。ダムによらない治水の検討を進める中で、この度の被害が発生し、65名の尊い命が失われ、2名の方が行方不明になっておられることに、知事として重大な責任を感じております」

西部本社版11月20日朝刊より
西部本社版11月20日朝刊より

 12年間の時間の空費は、水害直後の記者会見での蒲島知事の言葉が象徴している。蒲島知事は熊本県政で初となる4選を果たし、4期目の任期に入ったばかりだったが、この時点ではまだ「ダムによらない治水は県民の声。私が知事である限り、極限まで考えていく」と述べていた。しかし、記者団から具体策を問われると、「早く逃げるためのソフト面(の充実)と、既存のダムの利用」しか挙げることができなかった。

 大きな被害を出しても、なお「極限までダムによらない治水を追求する」と言い続ける知事に対し、流域市町村の首長らから反発の声が上がった。知事は、ようやく看板政策の見直しへとかじを切った。

ダム不信を生んだ国のダム計画

 「(水害の後)私は、流域すべての市町村を対象に、30回にわたり、市町村長、関係団体、事業者、住民の皆様、さらには、川辺川ダム建設に反対する団体の皆様とお会いし、直接、治水の方向性や復興に向けた課題、思いを伺ってまいりました」
 「50年以上に及ぶ議論を踏まえた上で、『現在の民意』をくみ取り、治水の方向性を決断することが、知事としての私の使命です。今回の決断に当たっても、12年前と同様に、あるいは、より丁寧に、私自身が見渡せる限りの『民意』をくみ取り、知事の責任と覚悟で、決断いたします」

 蒲島知事は演説で、12年前の川辺川ダムの白紙撤回も、今回の方針転換も、「民意」を反映した結果だと強調した。これは責任逃れとは言い切れない。そもそも川辺川ダムは1965年7月の「七・三水害」の惨禍をきっかけに建設が具体化したが、流域住民はただちに反対の声をあげている。蒲島知事が就任するずっと前から、被災してもなお「ダムはいらない」という「民意」が示されていたのは事実なのだ。

球磨川治水の決め手として建設された市房ダム
球磨川治水の決め手として建設された市房ダム

 この背景には、ダムに対する強い不信があった。「七・三水害」の記録をまとめた「球磨川大水害体験録集」には、「わずか2、3時間の間に3メートル以上の水位が上がったのは初めて」「これまで経験したことのない津波のような増水だった」という多くの証言が残されている。球磨川の上流には、七・三水害の5年前、国の直轄事業で利水・治水機能を持つ市房ダムが作られた(完成後に管理は熊本県に移行)。建設時には球磨川上流部の「洪水対策の決め手」とされ、「これさえあれば人吉より下流の洪水は心配ない」という触れ込みだった。

 だが、ダムができても水害は一向に収まらなかった。それどころか、「七・三水害」では、昔から「暴れ川」に慣れていたはずの流域住民の多くが「初めて生命の危険を感じる急激な増水」に強い恐怖を感じていた。住民が、急激な増水は市房ダムの緊急放流が原因ではないかと疑ったのは無理もない。ところが国と県は、この疑問に十分答えないまま、市房ダムよりさらに巨大な川辺川ダム計画をぶちあげた。

西部本社版11月12日朝刊より
西部本社版11月12日朝刊より

 この時の国と住民のダムをめぐる温度差は、大水害の1か月後に瀬戸山三男建設相が初めて川辺川ダム計画を表明した1965年8月2日の衆議院災害対策特別委員会のやりとりからも読み取れる。会議録によると、熊本県出身の瀬戸山建設相は、やはり熊本県出身の川村継義議員(日本社会党)の質問に答える形で川辺川ダム建設を表明しているのだが、そのやりとりは、国会審議にありがちな地元PRのための出来レースとは言えないものだった。

 川村氏は、市房ダムの緊急放流が「七・三水害」の被害を大きくしたのではないか、と追及し、政府側は「市房ダムの防災効果は十分にあったが、計画流量を上回る大雨で水害が起きてしまった」という答弁を繰り返した。瀬戸山建設相は市房ダムをめぐるやりとりを引き取る形で川辺川ダム計画を表明している。川村氏は瀬戸山建設相のダム計画自体は歓迎したが、水をため込む多目的ダムは危険だと指摘し、新たなダムは目的を治水一本に絞るべきだと注文をつけている。

 しかし、翌年に建設省がまとめた川辺川ダム計画は、ダムからパイプラインを引いて広域に農業用水を供給し、かつ発電にも使う九州最大の多目的ダムを造るというものだった。計画はその後、農業用水の利水をめぐる行政訴訟や電力会社の発電事業からの撤退などの紆余(うよ)曲折を重ねていく。

 一部がダムに水没する五木村ではダムへの賛否をめぐって村民が対立し、村の地域振興策はダムに振り回された。ダムへの不信を払拭しないまま新たな巨大ダム建設を急いだことが「民意」をこじらせ、歴代の知事もそれを修復できなかった。政治学者として世論調査の分析などを手掛けてきた蒲島氏が、こじれた「民意」の修復を知事に転じた直後から試みたのは、当然の成り行きだったといえる。

今度こそ二項対立に終止符を

 「治水対策や復興に向けての考え方は様々であり、すべての方を満足させることは難しいのかもしれません。しかし、私自身が持ちうる最大限の力で、皆様の声を受け止め、一人でも多くの方にご理解いただける方向性を見いだすことが、知事としての務めだと考えています」
 「『命』と『環境』を守り、両立すること、この願いを極限まで突き詰めたとき、これまでの『ダムか、非ダムか』という二項対立を超えた決断が必要です」

川辺川ダム建設予定地となった五木村は、国や県のダム政策に翻弄され続けた
川辺川ダム建設予定地となった五木村は、国や県のダム政策に翻弄され続けた

 かつての「民意」に従って、蒲島知事が治水対策の打開策とした「ダムによらない治水」は結果的には失敗だった。知事の方針転換は遅きに失したが、12年間掲げてきた看板政策を自ら否定し、自分の代で「ダムか、非ダムか」の二項対立に終止符を打つ決断をしたことは評価できる。苦渋の方針転換は他県の知事にとってもひとごとではない。地球環境の激変は、日本全国の自治体に「ダムか、非ダムか」の対立を超えた治水対策を迫っている。

〈下〉( こちら )に続く

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