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地中海世界/地中海商業圏/地中海貿易

地中海を内海として、交易や文化交流が活発に行われた世界。ギリシア・ローマの古典古代文明が展開し、前2~後4世紀にはローマ帝国が支配、8世紀以降はイスラーム勢力が進出、イスラーム文化圏・東方貿易の接点となった。

地中海
古代の地中海(ギリシア人とフェニキア人の植民活動)
 地中海 the Mediterranean Sea はラテン語の medi =中(middle)、tera =地(land)が組み合わさって出来たことば。まさに陸地に囲まれた内海を意味するが、内海としては世界最大である。北をヨーロッパ、東をアジア、南をアフリカに囲まれ、西のジブラルタル海峡で大西洋と、北東のダーダネルス=ボスフォラス海峡で黒海とつながる。またイタリア半島の西側のティレニア海、東側のアドリア海、ギリシアと小アジアにはさまれた海域であるエーゲ海を含んでいる。またクレタ島をはじめ、シチリア島サルデーニャ島コルシカ島マルタ島ロードス島キプロス島、バレアレス諸島(ミノルカ島、マジョルカ島など)など多くの島が点在する。
 地中海の風土と貿易について、次のような説明がわかりやすい。
(引用)春から夏にかけて連日晴天で秋から冬が雨季であり、夏は雑草がすべて枯れてしまうが冬には牧場の緑が美しい。夏には乾燥が甚だしく、一年を通じて雨量は非常に少ない。日本では夏から秋にかけて台風の恐れがあるのに対し、地中海は夏季にはほとんど湖のようで小さな船でも安全に航海が出来るが、冬は甚だ危険で、古代、中世には軍船も商船も航海停止のシーズンとされていたほどある。しかし夏季に限れば地中海の航海は、(1)黒海の北岸やナイルのデルタへの南北の航海も含めて極めて容易であった。内海に突出したイタリア半島、バルカン半島、それに大小の島々の配置、それに連日の晴天による空気の澄明、帆の使い方で自由に航行の出来る適度の風、これらによって地中海は早くから(2)「液体の道」となり、そこにさかんな交通、貿易が発展した。・・・<村川堅太郎『古典古代遊記』1993 岩波書店>

エーゲ文明

 紀元前3000年頃、エーゲ海には、クレタ島を中心として、オリエント文明の影響を受けた青銅器文明が生まれる。この文明は総称してエーゲ文明と言われているが、その前半はクレタ島の海洋王国を中心としたクレタ文明であった。後にギリシア本土のミケーネを中心としたミケーネ文明に移行するが、この文明は巨大な石造宮殿、青銅器や金の金属製品、そして線文字Bの使用など、高度なものがあった。いずれも地中海に高度な海洋文明が存在したことで重要である。このミケーネ文明は前1200年ごろに消滅し、地中海世界は鉄器時代に移行していく。最近ではその変化をもたらしたのが海の民といわれる人々であったとする説が有力になっている。

ギリシアとフェニキア

 地中海貿易は早くから行われ、ぶどう酒・オリーブ油などの農作物と、エジプト・黒海沿岸の穀物、さらにオリエントからの様々な宝物などがさかんに交易され、交易で結ばれた都市の間に地中海文明が形成された。古典古代の地中海世界の舞台で活躍したのは、最初がギリシア人であり、東地中海から黒海にかけて多くのギリシア系植民市を建設した。次いでフェニキア人が前8世紀頃から海上に進出し、彼らはカルタゴを初め、西地中海各地に植民市を建設した。東地中海のギリシアに成立した都市国家文明は、ペルシア戦争に勝利して民主政を発展させ、前5世紀に全盛期を迎えた。ペルシアはフェニキア人の貿易活動を保護していたので、この戦争は地中海におけるギリシア人とフェニキア人の対立という側面をもっていたが、ギリシアの勝利となったことによってその中心のポリスであったアテネの海上支配権が成立した。しかしついでアテネとスパルタの間で戦われたペロポネソス戦争は、シチリア島も戦場となる地中海全域での戦争であったが、アテネが敗北することでギリシアの海上支配は後退し、東方でアレクサンドロスが大帝国を建設していたころ、地中海世界ではイタリア半島の都市国家ローマが台頭することとなった。

ローマの地中海支配

 古代の最後に地中海世界を支配したのはローマであった。ローマは前3世紀にイタリア半島を統一、3次にわたるポエニ戦争でカルタゴを破り、並行してマケドニア戦争でギリシアを征服、前2世紀までに地中海全域を支配し、属州として統治するに至った。最終的には前31年のアクティウムの海戦でローマ海軍がエジプト海軍を破り、地中海は完全にローマの「われらの海」となった。地中海世界を支配したローマ帝国はイベリア半島、シチリア島、アフリカ、マケドニア、小アジア、エジプトなどを属州として支配した。
(引用) こうして地中海諸地方は、拡大しつつあるローマ市民共同体による数多の従属共同体(ローマ法的に言えば外人共同体であり、その成員は外人〔ペレグリーニ〕)の支配という構造にまとめ上げられることによって、地中海世界という単一の世界へと生まれ変わったのである。この構造の形成過程を支配共同体に即していえば、共同体の分解の阻止と復元のための征服と支配、支配の果実を利用しての支配共同体の拡大(外延的拡散)、支配の貫徹のための支配共同体の拡大(ローマ市民権付与による増大)、といった運動であったが、拡大が再び支配共同体の内部に分解を呼び起こすのである。同じ支配共同体所属者といっても、上は元老院議員身分クラスの巨大土地所有者から、下は手の職によってその日の糊口の資をうる下層民にいたるまでを含み、かつてのローマ市民の特権であった地租免除やローマへの上訴権などを享受する者は、今や支配共同体内部のほんのひと握りの人たちにすぎなくなっているのである。<弓削達『地中海世界』新書西洋史② 1973 講談社現代新書 p.128>
 ローマ帝国はこのような矛盾の解消のため、212年、カラカラ帝との時、アントニヌス勅令によって、帝国内、つまり地中海世界全域の全自由人に市民権を付与することとなった。

ゲルマン人の進出

 ローマ帝国は395年に東西に分裂、ゲルマン人の侵入などによって大きく変貌し、476年には西ローマ帝国が滅亡、その間、イベリア半島から北アフリカに入ったゲルマン人のヴァンダル王国がシチリア島やイタリア半島南部に進出した。その後6世紀には一時東ローマ帝国(ユスティニアヌス大帝)がほぼ全地中海の支配を回復するが、7~8世紀には西ヨーロッパにフランク王国が成長し、ビザンツ帝国としてギリシアを支配するのみになっていく。

イスラームと地中海貿易

 8世紀にはイスラーム勢力が北アフリカからイベリア半島まで進出、小アジアやイタリア半島南部もその脅威にさらされ、地中海は大半がその勢力下にはいる。9世紀にはチュニジアのアグラブ朝が対岸のシチリア島を征服、パレルモを中心に、シチリア、イタリア半島南部、チュニジア(北アフリカ)をむすぶ地中海貿易を展開した。
 シチリアからは特産のやスカーフ、衣服、絨毯などが東方に輸出され、東方から亜麻、染料、胡椒、陶器などが輸入された。イスラーム教徒がシチリアを支配していた11世紀にはパレルモが中継地となってイスラーム商人がスペイン、チュニジア、モロッコ、エジプトなどと交易を行っていたが、12世紀にノルマン人の南イタリア進出が進むと、イスラーム教徒は地中海の独占的な支配権を失い、スペイン、フランス、北イタリア諸都市の船がエジプトや地中海東岸に直接航行するようになり、シチリアとイタリア半島南部の地中海貿易における役割は次第に少なくなっていった。<高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書 p.155-156>

ノルマン人の進出

 12世紀には北方から海路ノルマン人が侵入し、シチリアと南イタリアを支配する両シチリア王国が成立し、ビザンツ帝国と抗争を続け、イベリア半島ではキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)が展開され、地中海は壮大な争乱の時代となり、海賊も横行するようになる。シチリア島やイベリア半島にはローマ文明を基層としてキリスト教文化とイスラーム教文化が融合した独自な文化が展開した。

地中海商業圏の復活

 11世紀末に始まる十字軍運動によって、その出港地となった北イタリアのヴェネツィアジェノヴァの繁栄が始まり、彼らイタリア商人による東方貿易(レヴァント貿易)(東地中海岸をレヴァント地方と言った)でのイスラーム商人との取引が活発となり地中海世界の商業活動が急速に繁栄し、ヨーロッパ内陸との遠隔地貿易も盛んになり、商業ルネサンスとも言われる貨幣経済の復興をもたらすこととなる。

近世以降

 15世紀のオスマン帝国の東ヨーロッパでの拡張のため、レヴァント貿易は衰退し、あらたな東方へのルートを目指すヨーロッパ商人の動きを背景に、大航海時代に大西洋の新航路が開発されるようになると、世界経済の中心は大西洋岸に移っていく(商業革命)が、その後も地中海世界は世界史の舞台として続いている。