大日本恵登呂府ウィキペディア フリーな encyclopedia 大日本恵登呂府(だいにほんえとろふ、大日本恵土呂府とも表記される)は、寛政10年(1798年)と同12年(1800年)の2度にわたり、幕臣で探検家の近藤重蔵らによって択捉島内の2か所(南端に近いタンネモイ、北端のカモイワッカ岬(「カモイワッカ」は「カムイワッカ」とも記す)に建てられた標柱。 1930年、御影石でつくられた「大日本恵登呂府」昭和の記念碑 北海道蘂取郡蘂取村カモイワッカ岬、1930年。撮影者:中田直次(当時、択捉島在住)
大日本恵登呂府(だいにほんえとろふ、大日本恵土呂府とも表記される)は、寛政10年(1798年)と同12年(1800年)の2度にわたり、幕臣で探検家の近藤重蔵らによって択捉島内の2か所(南端に近いタンネモイ、北端のカモイワッカ岬(「カモイワッカ」は「カムイワッカ」とも記す)に建てられた標柱。 1930年、御影石でつくられた「大日本恵登呂府」昭和の記念碑 北海道蘂取郡蘂取村カモイワッカ岬、1930年。撮影者:中田直次(当時、択捉島在住)