児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件 事件の概要

児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/08 23:39 UTC 版)

事件の概要

突入に使われたJA3551の同型機(PA-28-140型機)
画像外部リンク
カメラマンの阿施光南によるJA3551の画像
事故の数日前に整備関係者によって撮影されたJA3551の画像

3月23日午前9時50分頃、児玉(当時65歳)の私邸(東京都世田谷区等々力)に、前野霜一郎(当時29歳)が操縦するPA-28-140型機(機体記号:JA3551)が突入し爆発炎上。前野は機内から黒焦げの死体で見つかった[1]。事件発生当時、児玉は2階奥の8畳間にいたが、棟違いで突入現場から20メートル離れており、太刀川恒夫秘書(東京スポーツ新聞社会長)に背負われて1階仏間に避難、無事だった[1]。しかし、家政婦一人が火傷を負っている。

JA3551機は、セスナ172M型機(機体記号:JA3732)とともに調布飛行場から午前8時50分に離陸していた。JA3732機には機長とカメラマンら3人が搭乗しており、両機は直前まで編隊飛行をしつつ新宿上空でJA3551機の写真撮影を行っていた[2]。小型機は、児玉邸南側から飛んできて、上空で約10回旋回し、庭の白樺の木の頭を断ち切って、児玉邸の玄関の屋根と2階の一部に激突した[1]。このため1階の玄関、踊り場や2階部分の茶室を全焼。居間と応接間などを半焼し、約80平方メートルを焼いて午前10時20分頃消えた[1]。児玉が経営する企業の役員を務めていた日吉修二は、「私が行ったときはまだ飛行機が庭先に突っ込んでいて、操縦士というか何とかさん特攻隊の真似をして、そのままうつ伏すように死んでる奴を見た」と話した。


  1. ^ a b c d e f 本所 2007, p. 103.
  2. ^ 大洋航空株式会社所属パイパー式PA-28-140型JA3551に関する航空事故報告書”. 航空事故調査委員会 (1976年7月22日). 2023年11月30日閲覧。
  3. ^ a b 近藤正高 (2017年3月23日). “ご存知ですか? 3月23日は「児玉誉士夫邸にセスナ機墜落事故」の日です 操縦していた俳優と、菅原文太の回想”. 文春オンライン. 2023年11月30日閲覧。
  4. ^ JAPAN: Kamikaze Over TokyoTIME Monday, Apr. 05, 1976
  5. ^ 「児玉に支払われた保険金 家の修理につかわす」『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月29日朝刊、13版、23面






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