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第69回:日本人F1ドライバー熱風録
いまだ果たされぬ頂点への夢

2020.02.27 自動車ヒストリー 鈴木 真人 ホンダがF1で初勝利を挙げてから22年、日本で初めてF1が開催されてから11年、ついに、日本からF1世界選手権に挑むドライバーが誕生する。中嶋 悟、鈴木亜久里、片山右京、佐藤琢磨、小林可夢偉ら、日本人F1ドライバーの挑戦の歴史を振り返る。

初の日本人F1ドライバーとなった鮒子田寛

ホンダがF1で初優勝を果たしたのは、1965年のメキシコGPだった。日本では1963年に第1回日本グランプリが開かれたばかりで、モータースポーツへの興味が生まれ始めていた時期である。F1に関する情報はほとんど知られていなかったが、快挙は自動車メディアだけでなく一般マスコミにも取り上げられた。日本の新興自動車メーカーが世界最高峰のレースを制したことは、マイカー時代を迎えようとしていた人々を喜ばせた。

しかし、「日本がF1で勝利を収めた」というには、欠けているものがあった。マシンに乗っていたのは、アメリカ人ドライバーのリッチー・ギンサーだったからだ。日本人による勝利を求める声が上がったのは自然だが、まだ日本には実績のあるレーシングドライバーがいなかった。期待の星となったのは、1966年からイギリスF3に参戦した生沢徹である。1967年に3勝を挙げるなどの活躍を見せるが、ホンダの第1期F1活動は1968年に終了してしまう。

ホンダに次いで2番目のF1コンストラクターとなったのがマキである。自動車メーカーとは関係を持たないプライベートチームで、独自開発したマシンの「F101」で1974年から参戦した。当時は汎用(はんよう)エンジンのコスワースDFV全盛時代で、小規模な体制でもF1に挑戦することができた。全戦にフル出場する義務はなく、マキもスポット参戦である。

1975年には、オランダGPとイギリスGPで鮒子田寛をドライバーに起用する。ただ、残念ながらマシンの完成度は低く、本戦を走ることはできなかった。これより前、1974年に高原敬武がF1ノンタイトル戦のインターナショナル・トロフィーに出場しているが、チャンピオンシップがかかったレースということでは、日本初のF1ドライバーは鮒子田ということになる。

こうしたドライバーやコンストラクターの活動とは別の動きも始まっていた。自動車産業が大きく発展していた日本での、F1開催が模索されていたのである。

1965年のF1メキシコGPにて、1位でチェッカードフラッグを受けるリッチー・ギンサーと「ホンダRA272」。これはホンダにとってもギンサーにとっても、後にF1で黄金期を迎えるグッドイヤーにとっても初の勝利だった。
1965年のF1メキシコGPにて、1位でチェッカードフラッグを受けるリッチー・ギンサーと「ホンダRA272」。これはホンダにとってもギンサーにとっても、後にF1で黄金期を迎えるグッドイヤーにとっても初の勝利だった。拡大
日本グランプリや富士グランチャンピオンレースなどで活躍した生沢 徹。海外でのフォーミュラカーレースでも活躍しており、一時は「日本人初のF1ドライバーになるのでは」と目されていた。
日本グランプリや富士グランチャンピオンレースなどで活躍した生沢 徹。海外でのフォーミュラカーレースでも活躍しており、一時は「日本人初のF1ドライバーになるのでは」と目されていた。拡大
「マキF101」は、レーシングスポーツカーやフォーミュラカーの製作を手がけていた三村健治や小野昌雄らの手になるF1マシンで、独自開発のシャシーにコスワースDFVを搭載していた。1974年のイギリスGP、ドイツGPに参戦するが、予選突破はならなかった。
「マキF101」は、レーシングスポーツカーやフォーミュラカーの製作を手がけていた三村健治や小野昌雄らの手になるF1マシンで、独自開発のシャシーにコスワースDFVを搭載していた。1974年のイギリスGP、ドイツGPに参戦するが、予選突破はならなかった。拡大
2018年に鈴鹿サーキットで行われたヒストリックイベント「RICHARD MILLE SUZUKA Sound of ENGINE」において、往年のモータースポーツで活躍した他の“レジェンドドライバー”と談笑する鮒子田寛(左から2番目)。
2018年に鈴鹿サーキットで行われたヒストリックイベント「RICHARD MILLE SUZUKA Sound of ENGINE」において、往年のモータースポーツで活躍した他の“レジェンドドライバー”と談笑する鮒子田寛(左から2番目)。拡大

日本初のF1で3人のドライバーが奮戦

1976年、富士スピードウェイで「F1世界選手権イン・ジャパン」が開催される。この年の最終戦で、年間タイトルのかかったニキ・ラウダとジェームズ・ハントの対決が話題となった。このレースには、日本から4人のドライバーがスポット参戦した。本戦を走ったのは、長谷見昌弘、星野一義、高原敬武の3人である。

コジマエンジニアリングの「KE007」に乗る長谷見は予選1回目で4番手のタイムをたたき出すが、サスペンションが折れてクラッシュしてしまう。突貫作業で新たなマシンをつくり上げたが、セッティング不足で本番では11位完走が精いっぱいだった。

星野は21番手からのスタートだったが、10周目には3位にジャンプアップ。“雨の星野”という異名を持つ男にとって、豪雨の中のレースは実力を見せつけるのに格好の舞台だった。しかし、雨が上がってピットインすると、スリックタイヤの用意がないことがわかって涙のリタイアを喫する。高原は堅実な走りで9位完走を果たした。

1977年にも富士スピードウェイでF1が開催されるが、観客を巻き込む不幸な死亡事故が発生し、翌年からの契約は解除された。再びF1が遠い存在となった日本では、富士グランチャンピオンレース(グラチャン)が人気となる。F1イン・ジャパンで活躍した星野は1978年にシリーズ優勝を果たし、“日本一速い男”であることを証明する。翌年優勝したのは、1年後輩にあたる中嶋 悟だった。ふたりは好敵手として数々の名勝負を繰り広げた。

日本では、1976年に富士スピードウェイで初めてF1が行われる。当時、他のイベントで「日本グランプリ」という名が使われていたため、こちらは「F1世界選手権イン・ジャパン」というイベント名で開催された。
日本では、1976年に富士スピードウェイで初めてF1が行われる。当時、他のイベントで「日本グランプリ」という名が使われていたため、こちらは「F1世界選手権イン・ジャパン」というイベント名で開催された。拡大
長谷見昌弘がドライブするコジマエンジニアリングの「KE007」。予選では一時4番手のタイムを出すなど速さを見せたが、その後クラッシュ。決勝では11位で完走を果たした。
長谷見昌弘がドライブするコジマエンジニアリングの「KE007」。予選では一時4番手のタイムを出すなど速さを見せたが、その後クラッシュ。決勝では11位で完走を果たした。拡大
1978年の初タイトル獲得以来、5度にわたり富士グランチャンピオンレースでシリーズ優勝を重ねた星野一義(中央)。1年後輩の中嶋 悟(左)とは、グラチャン、全日本F2と、当時の日本最高峰に位置する2つのレースでしのぎを削り合った。
1978年の初タイトル獲得以来、5度にわたり富士グランチャンピオンレースでシリーズ優勝を重ねた星野一義(中央)。1年後輩の中嶋 悟(左)とは、グラチャン、全日本F2と、当時の日本最高峰に位置する2つのレースでしのぎを削り合った。拡大

初のフルタイムF1ドライバーとなった中嶋 悟

日本人トップドライバーはF1で活躍できる実力を十分に備えていたが、なかなかチャンスは訪れなかった。F1はターボ全盛の時代を迎え、DFVさえ購入すればプライベートチームでも参戦できる状況は失われていた。大規模な開発体制を持つチームでなければ、競争力のあるエンジンを提供することはできない。ヨーロッパから見れば辺境の地でしかない日本に、ドライバーのオファーは届かなかった。

事情が変わったのは1983年。ホンダが第2期のF1活動をスタートさせたのだ。国内でのエンジン開発テストを任されたのが、中嶋 悟である。彼は全日本F2で3連覇を果たし、国際F3000でも4位入賞を経験するなどの活躍を見せていた。F2でホンダエンジンを使っていた縁があり、中嶋に声がかかったのだ。1987年、ホンダはウィリアムズに加えてロータスにもエンジンを提供する。中嶋はロータス・ホンダと契約してアイルトン・セナのパートナーとなり、日本人初のフルタイムF1ドライバーが誕生した。

中嶋は、開幕戦のブラジルGPでは、すでに34歳だった。F1ドライバーとしては、遅すぎるデビューである。ちなみに、2015年に史上最年少でF1ドライバーとなったマックス・フェルスタッペンは、中嶋のちょうど半分の17歳だ。中嶋は初戦ブラジルGPで7位となり、次戦で6位、3戦目で5位と順位を上げていく。第7戦のイギリスGPでは、F1史に残る結果を残した。中嶋が4位に入り、ホンダエンジン勢が1位から4位までを独占したのである。

日本GPでも6位に入賞し順調な滑り出しとなったが、翌1988年は入賞1回に終わる。1989年は雨のオーストラリアGPで4位に入る奮闘を見せただけで、低調なシーズンとなった。1990年にはティレルに移籍し、2年間の敢闘の末に引退を決意する。中嶋は、38歳になっていた。

ホンダは1983年よりエンジンサプライヤーとしてF1に復帰。同年末からウィリアムズにエンジンの提供をはじめ、同チームの1986年、1987年のコンストラクターズタイトル獲得に貢献した。
ホンダは1983年よりエンジンサプライヤーとしてF1に復帰。同年末からウィリアムズにエンジンの提供をはじめ、同チームの1986年、1987年のコンストラクターズタイトル獲得に貢献した。拡大
日本人として初めてF1世界選手権への本格参戦を果たした中嶋 悟。ロータスではアイルトン・セナ、次いでネルソン・ピケとコンビを組んだ。
日本人として初めてF1世界選手権への本格参戦を果たした中嶋 悟。ロータスではアイルトン・セナ、次いでネルソン・ピケとコンビを組んだ。拡大
中嶋 悟は1987年から1989年まで、3年にわたりロータスに所属。34歳という“遅咲き”のF1デビューとなったが、時に上位に食い込んでみせた。
中嶋 悟は1987年から1989年まで、3年にわたりロータスに所属。34歳という“遅咲き”のF1デビューとなったが、時に上位に食い込んでみせた。拡大
1991年の日本GPにて、「ティレル020」をドライブする中嶋 悟。中嶋は同年をもってF1を引退した。
1991年の日本GPにて、「ティレル020」をドライブする中嶋 悟。中嶋は同年をもってF1を引退した。拡大

日本GPで鈴木亜久里が表彰台に

中嶋に続いたのは、鈴木亜久里である。1988年の日本GPにラルースからスポット参戦し、翌年はザクスピードのレギュラードライバーになった。しかし、このマシンがまったく使い物にならず、当時行われていた予備予選を通過することができない。16戦すべてで予選落ちという不名誉な結果となり、一度も本戦を走ることができなかった。

1990年はラルースに移籍し、ようやく戦闘力のあるマシンを手に入れる。パーソナルスポンサーだった日本企業が資金を提供し、開発に力を入れることができたのだ。ランボルギーニのV12エンジンも手に入れ、予備予選は余裕でクリアできるようになった。日本GPで、ついに歓喜の時を迎える。波乱の展開となったレースを耐え抜き、3位でフィニッシュしたのだ。日本人として初の表彰台である。

この時が、鈴木亜久里のF1でのピークだった。スポンサーの日本企業の業績が悪化し、資金提供が滞ると開発も進まなくなった。他チームとの性能差は日を追うごとに明白となり、予選落ちを繰り返すようになる。1992年にはアロウズを買収したフットワークに移籍するが、こちらも経営不振でチームを手放してしまう。1993年シーズンが終わるとシートを失い、翌シーズンを棒に振ることになった。1995年にリジェに加入するものの、フルシーズンのシートは用意されていなかった。バブル崩壊後の日本経済の低迷は、F1にも暗雲を漂わせていた。

鈴木亜久里が抜けたラルースに1992年から加入したのが片山右京である。前年に全日本F3000のタイトルを取っており、引退した中嶋 悟に代わる日本人ドライバーとして期待が集まった。ラルースは経営体制が一変しており、コンストラクター名としてはヴェンチュリが使われた。ただ、チームの経営状態は回復していたとはいえず、成績も最高位が9位と満足のいくものではなかった。翌年ティレルに移籍するが、ここでもヤマハV10エンジンとシャシーのマッチングが悪く、リタイアを繰り返す。

1988年にF1デビューを果たした鈴木亜久里。1995年に引退するまで、ザクスピード、ラルース、フットワーク、リジェとさまざまなチームを渡り歩いた。
1988年にF1デビューを果たした鈴木亜久里。1995年に引退するまで、ザクスピード、ラルース、フットワーク、リジェとさまざまなチームを渡り歩いた。拡大
ランボルギーニのV12エンジンを搭載した「ラルースLC90」。鈴木亜久里は同車を駆り、1990年の日本GPで3位入賞を果たした。
ランボルギーニのV12エンジンを搭載した「ラルースLC90」。鈴木亜久里は同車を駆り、1990年の日本GPで3位入賞を果たした。拡大
1992年にラルースからF1にデビューした片山右京。1993年にティレルに移籍すると、1994年には競争力の高い「ティレル022」をドライブし、時に上位争いに食い込む走りを披露した。
1992年にラルースからF1にデビューした片山右京。1993年にティレルに移籍すると、1994年には競争力の高い「ティレル022」をドライブし、時に上位争いに食い込む走りを披露した。拡大

登場が望まれる佐藤琢磨、小林可夢偉の後進

1994年シーズンには健闘を見せ、ブラジルおよびイタリアGPで5位入賞を果たしたが、それが右京の最高成績となった。最後はミナルディに移り、1997年にF1から退いた。入れ替わる形で、1997年に中野信治が、1998年に高木虎之介がF1に参戦。中野は最高位6位、高木は同7位という成績を残すが、ともに表彰台には届かず、2年でF1を去っている。2000年は、日本人ドライバー不在の年となってしまった。

2001年、佐藤琢磨がジョーダンからF1に参戦することが決まり、期待が高まった。彼は同年のイギリスF3王座を獲得していて、実力は折り紙付きだった。ただしマシンは万全とはいえず、初参戦となる2002年シーズンはリタイアが重なる。それでも日本GPでは5位に入り、意地を見せた。翌2003年、リザーブドライバーとしてB・A・Rに移籍。出場の機会を得た最終戦の日本GPで6位に入賞すると、そこから快進撃が始まった。

スペインGPで予選3位に入り、日本人ドライバーとして初めて予選後のトップ3インタビューを受ける。ヨーロッパGPでは予選2位となり、グリッド最前列からのスタートを実現させた。そしてアメリカGPでは、予選3位から決勝も3位でフィニッシュ。1990年の鈴木亜久里以来、14年ぶりに日本人がF1の表彰台に立った。2006年からはその鈴木がオーナーとなったスーパーアグリに移り、2008年に資金不足からチームが撤退するまでドライバーを務めた。

2007年には、中嶋 悟の息子である中嶋一貴がF1に挑んだ。海外で腕を磨いた小林可夢偉は、2009年にトヨタからデビューを果たす。翌年ザウバーに移籍した小林は、2012年の日本GPで3位を勝ち取り、鈴鹿のスタンドを熱狂させた。しかし契約延長はかなわず、2014年にケータハムから参戦したものの、今度はチームが経営破綻。F1のグリッドからは再び日本人ドライバーが姿を消してしまった。

2015年、ホンダがエンジンサプライヤーとして復帰し、2019年にはレッドブルとともに3勝を挙げた。日本のコンストラクター、日本のエンジン、日本人ドライバーによってF1優勝を勝ち取る夢は、これからも紡がれていく。

(文=webCG/イラスト=日野浦剛)

佐藤琢磨は2002年にジョーダンからデビュー。同年の日本GPでは5位入賞を果たしている。
佐藤琢磨は2002年にジョーダンからデビュー。同年の日本GPでは5位入賞を果たしている。拡大
ホンダコレクションホールに収蔵される「B・A・R006」。2004年シーズンのB・A・Rは非常に好調で、コンストラクターズランキング2位を獲得。佐藤琢磨も同車を駆り、アメリカGPでは3位で表彰台に登った。
ホンダコレクションホールに収蔵される「B・A・R006」。2004年シーズンのB・A・Rは非常に好調で、コンストラクターズランキング2位を獲得。佐藤琢磨も同車を駆り、アメリカGPでは3位で表彰台に登った。拡大
2005年のホンダ モータースポーツ体制発表会にて、チームメイトのジェンソン・バトン(左)と写真に写る佐藤琢磨(右)。佐藤はF1引退後も、アメリカのインディカーシリーズなどで活躍を続けている。
2005年のホンダ モータースポーツ体制発表会にて、チームメイトのジェンソン・バトン(左)と写真に写る佐藤琢磨(右)。佐藤はF1引退後も、アメリカのインディカーシリーズなどで活躍を続けている。拡大
2009年にトヨタからデビューし、ザウバー移籍後の2012年に日本GPで3位入賞を果たした小林可夢偉。今のところ、2014年に引退した彼が“最後の日本人F1ドライバー”となっている。
2009年にトヨタからデビューし、ザウバー移籍後の2012年に日本GPで3位入賞を果たした小林可夢偉。今のところ、2014年に引退した彼が“最後の日本人F1ドライバー”となっている。拡大
鈴木 真人

鈴木 真人

名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。

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