2020年度入学記念号
作戦を立てつつ、まずはやってみる。
アカンかったら次を目指せばいい
気象予報士・防災士 蓬莱 大介(ほうらい・だいすけ)
「好きなお天気キャスターランキング」においてトップ10の常連である気象予報士、蓬莱大介さん。レギュラー出演する『情報ライブ ミヤネ屋』(読売テレビ・日本テレビ系)では、番組MC・宮根誠司さんにいじられる姿でもおなじみだ。そんな蓬莱さん、早稲田大学政治経済学部在学中は気象とは無縁の役者志望だった。では、どのような決断と過程を経て、気象予報士へと至ったのか? そこには学生時代から長年続けてきたある習慣があった。
音楽でも俳優でも、挫折続きだった学生時代
子どものころから「表現者になりたい」という漠然とした夢を描いていた蓬莱さん。自分には何ができて何が向いているのかを見定めるため、選んだ進路が早稲田大学だった。
「早稲田の出身者は、総理大臣もいれば俳優やミュージシャン、会社経営者になる人もいる。卒業後の選択肢が千差万別な早稲田なら、自分の可能性が探れるかなと思ったんです」
入学後、まずはバンドサークルに籍を置いたが、ここで周囲とのレベルの差を知り、最初の挫折を経験した。
「大学生ってこんなにレベルが高いの!? と。これじゃ音楽を仕事にするのは無理だと諦めて、家で映画ばかり見ていました。でも、おかげで次の目標が見つかったんです。バンドは人数も楽器も必要だけど、俳優なら身一つでできるなって」
こうして俳優の道を模索し始めると、大学4年になった2005年、ビッグチャンスを手にした。東京グローブ座を舞台に、早稲田大学演劇博物館とジャニーズ事務所が共同で演劇作品を制作・上演する「@ザ・グローブ・プロジェクト」のオーディションに合格。キャストに名を連ねたのだ。だが、ここでもまた挫折を味わうことになった。
「周りは演劇サークルで経験を積んできた人ばかりなのに、自分は独学だったこともあって地力の差は明らか。稽古に行くたび、僕のセリフが削られていくのはつらかったですね。周りの冷たい目もあるし、本当にへこみました」
それでも今度は諦めず、卒業後も俳優を目指した蓬莱さん。そこで支えとなったのが「人生の作戦ノート」の存在。人生の節目節目で、蓬莱さんの生き方を支えてきた大事なツールだった。
「僕はもともと不器用で、何でもモノになるまでに3年以上掛かるタイプ。そこで、中学生のときにノートの付け方を編み出したんです。数年後にかなえたい目標を設定して、そのために今月、そして今日すべきことを書き込んでいく。そして、実際にできたかどうかの反省点もメモしていく方法です。本格的に俳優を目指そうと思ったときに、『30歳になるまでに一人前の仕事をしていたい』と考え、逆算して、その時々にすべきことをノートに書き出していきました。1年ごとに目標を決めて、それがクリアできたら次の年も目標を追い掛ける。親にもこの年次計画をもとに『20代は冒険させてほしい』と説明したら納得してくれました」
(左)「@ザ・グローブ・プロジェクト」に参加した大学4年生の頃
(右)「人生の作戦ノート」ではカレンダーも自作。グラフ分析などいろいろ書き込まれている
もちろん全てが作戦通りにいくわけではない。むしろ、うまくいかなかったときに軌道修正するためのノートでもあった。
「卒業してから数年後、25歳くらいかな。初めてその年の目標達成が難しくなったんです。このままのペースじゃ、どうもアカンと。そんなときに、映画『20世紀少年』(東宝)のオーディションに合格しました。と言っても“地球防衛軍ごっこ”をしているエキストラで、メインキャストの常盤貴子さんから『あなたたち、こんなバカなことしないでもうやめにしなさい』と言われて正気に戻り、泣き崩れるという演技でした。そのとき本当に泣けてきて、完全に心が折れました。別な道を探さなきゃアカン、と」
学生時代は短い。だからこそ、やるべきことの整理を
俳優以外の道へ。そう決断した蓬莱さんは、「自分のアンテナに一番引っ掛かったものを目指そう」と、本屋に通って次なる道を模索した。そこでふと目に留まったのが「気象予報士」の資格本だった。その本を手に、各局・各番組の気象コーナーを見比べて特徴や違いを研究した。
「同じデータを使っているはずなのに、『あれ? この人分かりやすいな』とか『この人は豆知識が売りなんだ』『よく分からんなぁ』と、伝え方・伝わり方が全然違うことに気付いたんです。それが『空のことを伝えるのって面白そう』と思えた原点です。俳優や音楽、時には絵を描いたりといろんな表現を模索してきましたが、これって空のことを伝えるのに応用できるかも、と思ったんです」
気象予報士といえば、合格率5%未満の狭き門。だが、ここでも「人生の作戦ノート」が役立った。合格までの必要勉強時間を調べて、不器用な自分はその2倍3倍は必要と、ノートに試験までの勉強計画を立案。ストレスで歯が抜けるほどの勉強漬けの日々を送り、1年半後、見事に気象予報士試験に合格したのだ。
もっとも、「資格」を手にしたからといって、すぐに仕事につながるわけではない。気象予報士の資格を持つ人は全国で約1万人。気象関係の仕事に就けるのがそのうち約3,000人。気象キャスターとなれば全国で約200人の狭すぎる門。俳優のオーディション同様、選ばれなければいけない。
「これはマズイと思って、またノートで作戦を考えました。選ばれるためには、他の人がやってないことをやろうと。そこで思い付いたのが、当時(2009年)発売されたばかりのiPhoneの活用。誰でも手軽に動画が撮れる時代になったことを意識して、自分だけの気象コーナーを毎日毎日撮り続けました」
もちろん、ただ撮るだけで終わりではない。その動画を、テレビ関係者や先輩気象予報士に見てもらい、ダメ出しを浴び続けていった。
「『こんな動画を作っているのですがどうですか?』とか、『お天気キャスターも携帯動画の時代ですよ』と売り込みました。有名な気象予報士の講演会に押し掛けてその方に見てもらい、ボロカスに言われたこともありました(笑)。でも、俳優を経験したおかげで、自分自身がコンテンツメーカーにならなきゃダメだ、という思いがあったんです。俳優って、どんなに売れっ子でも作品があって成り立つ“待つ仕事”。でも、これからは自分からどんどん発信していかなければ表現者として生き残れない、と思ったんです」
結果的にこの“売り込み”が功を奏して気象ニュースの原稿作成というアルバイトを得ることに成功。さらにそこから、読売テレビの気象キャスターに師事するチャンスにつなげたのだ。こうして関西に拠点を移してから1年後、テレビ番組の気象コーナーに立つ蓬莱さんの姿があった。
さまざまな挫折を経験し、何度もダメ出しを浴び続けながら、最終的には「表現者」となった蓬莱さん。その原動力には、自分の中の「早稲田らしさ」があったと語ってくれた。
「ダメ出しされるのは嫌ですよ。でも、そんなときにこそ、自分の中の『アホスイッチ』を押すんです。作戦はノートを使って綿密に。でも、ここぞというときには、勇気を絞り出す『アホスイッチ』を押してみる。そんな姿勢は、早稲田で過ごしたからこそ培ったんですよね」
新入生にも、「まずはやってみる」という積極性を意識して学生生活を過ごしてほしい、とアドバイスを贈ってくれた。
「興味のあることは、取りあえずやってみる。やってみて、アカンかったら次を目指せばいい。でも、学生時代は意外と短い。できることなんて限られます。だからこそ、目先1年でもいいので、何をやるべきか整理してみるといいと思います。『人生の作戦ノート』、オススメですよ!」
取材・文=オグマナオト(2002年、第二文学部卒)
撮影=小野奈那子
1982年兵庫県生まれ。2006年早稲田大学政治経済学部卒業。2009年に気象予報士試験に合格。2010年に東京から大阪へと拠点を移し、読売テレビ前気象キャスター小谷純久氏に1年間師事。2011年3月からキャスターに就任した。現在、『情報ライブ ミヤネ屋』『ウェークアップ! ぷらす』(ともに読売テレビ・日本テレビ系)などの気象コーナーに出演するほか、防災士としても活動中。自著『空がおしえてくれること』(幻冬舎)、『気象予報士・蓬莱さんのへぇ~がいっぱい! クレヨン天気ずかん』(主婦と生活社)ではイラストも手掛けている。気象予報士の仕事は、「災害時には人の生死にもつながるためプレッシャーを感じることもあるが、感謝の言葉がうれしいし、追求できるものに出合えたことが何より。まだまだ勉強したいし、やりたいことやアイデアが山ほどある」と語る。