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早稲田 盤上の勝負師 加藤一二三×中村太地 1180敗、ひふみんはなぜスゴいのか

2017年6月20日、将棋の棋士として62年10カ月の現役生活に終止符を打った、「ひふみん」の愛称で親しまれる加藤一二三九段(早稲田大学第二文学部出身)。1954年に14歳7カ月で将棋史上最年少のプロ棋士(四段昇段)となって以降、2504局の史上最多対局数、1180敗という史上最多敗戦、史上最年長勝利という数々の金字塔を打ち立ててきました。通算成績は1324勝(歴代3位)、1180敗(歴代1位)。長い棋士人生の中で加藤九段が残したものとは何だったのでしょうか。自身の史上最年少プロ棋士記録を14歳2カ月という年齢で62年ぶりに更新した藤井聡太四段が現れ、コンピューター将棋が一流プロに勝つようになるなど、大きな変化が起きている将棋界。今回のSpecial Issueでは、若手棋士の中村太地六段(2011年、同大政治経済学部卒業)と、どんなことがあってもぶれることがなかった加藤九段の心意気とこれからの人生について、大学の先輩後輩の間柄で自由に対談していただきました。

※対談は2017年5月12日に将棋会館(渋谷区)で行われました。

左から、中村太地六段、加藤一二三九段。
中村太地
(以下、中村)
加藤先生は第二文学部で学ばれていたそうですね。

加藤一二三
(以下、加藤)
ええ、私が選択したのは哲学概論とか文学の講義でしたね。当時受けた講義のことは、今でも鮮明に覚えています。私は中退してしまったんですけれど、中退した後も、年に1回、早稲田祭のときに、早稲田大学将棋部(※公認サークル)の催しに参加して、将棋を教えたりしていました。早稲田の将棋部は伝統的に強くて、学生将棋の活動としてはトップクラスだったんじゃないでしょうか。楽しい思い出です。

1957年12月、17歳の加藤九段(共同通信)

中村
加藤先生は、18歳で既に「A級」というプロ棋士の中でも上位10人の中に入るという確固たる地位を築かれていたにも関わらず、早稲田大学に進学されているんですよね。どんな思いから、大学で学ぶことを選ばれたのですか?
加藤
名人戦を主催している朝日新聞社の幹部が、私に向かって勧めてくれたんです。できたら大学に進学して、視野の広い考え方を身に付けた方がいいんではないか、と。それがきっかけですね。当時ね、歌舞伎の九代目松本幸四郎さん(※当時は六代目市川染五郎)とか、オリンピックの有力な候補だった競泳の山中毅選手とかね、そういったいわゆる若くしてトップの活躍をしていた人が早稲田の学生だったんです。なかなか多彩な人が大学にいて、それはやっぱり刺激になりましたよね。

将棋を指す、早大生時代の加藤九段(左)

中村
その多彩さは早稲田らしいですね。僕が早稲田大学に進学したのも、加藤先生と同じ理由からなんです。高校生のときにプロ棋士にはなりましたけど、やっぱり大学に行くことで、より幅広い視野で物事を見られるようになるのではないかと思いまして。早稲田では、スポーツに打ち込んでいる人や、資格の勉強に一生懸命な人、音楽活動を頑張っている人、本当に幅広い人と知り合い、友達になりました。卒業した今でも、そういった友達との交流は続いていますし、そういう友達を得られたというだけでも、大学に行ってよかったな、と。

もう一つの理由としては、両親との約束ですね。僕が将棋のプロを目指したのが小学校6年生のときだったんですが、目指すにあたって両親に必ず大学に行くと約束させられたんです。やはりプロ棋士は目指せば必ずなれるものではないですから、なれなかったときにつぶしがきくという意味でも、両親は進学してほしかったんだと思います。
加藤
中村さんはどんなことを勉強されていたんですか?
中村
田中愛治教授(政治経済学術院)のゼミで政治学、主に投票行動などを学びました。投票行動って原因と結果があって、それをデータで結び付ける学問なんですよ。論理的に筋道立てて、解釈していく。そういう論理的に突き詰めて考えていくところは、将棋と少し似ていると思いますね。

加藤九段は1982年7月31日、中原誠十六世名人(左)から名人位を奪取(共同通信)

加藤
中村さんにぜひお聞きしたいことがあったんです。われわれの世界では、タイトル戦に登場することが一流の証しですが、中村さんはこれまで、2度、羽生三冠と戦っていらっしゃる。羽生三冠の手応えはどうでしたか?
中村
1回目の挑戦となる棋聖戦(五番勝負)では、3連敗であっさり負けてしまったんです。羽生先生は、僕が棋士を目指すきっかけとなった方ですので、盤を挟んでタイトル戦を戦えるということはすごく幸せなことでした。でも、1勝もできず、思い切りはね返されてしまったことは、悔しく、恥ずかしいとも思いましたし、あらためて厳しい世界だなとも実感しました。

そして、その1年後、王座戦(五番勝負)というタイトル戦で、2回目の挑戦権を得ることができました。そのときは一時期、2勝1敗まで追い詰めたのですが、そこから2連敗してしまって。結局タイトルを獲得できませんでした。それが、もう4年ぐらい前の話なんですけども、今でも本当に悔しいですね、夢に出てくることもあるくらい(笑)。

加藤先生はすごく輝かしい棋歴の持ち主で、いろんなタイトルも獲得されていますけど、初めてタイトルを獲得されたときのことは今でも覚えていらっしゃいますか?

2012年7月、挑戦者の中村太地六段(右)に3連勝して棋聖を防衛、通算タイトル獲得81期の新記録を樹立した羽生善治棋聖・王位(当時)=共同通信

加藤
初タイトル獲得はですね、昭和43(1968)年から44(1969)年にかけての、読売新聞社主催の十段戦です。今の竜王戦の前身ですね。相手は当時、タイトルをいっぱい持っていた大山康晴十五世名人でした。その第4局でね、私は休憩時間を含めまして、7時間考えて素晴らしい手を見つけてね、勝ったんです。

今まで一手に2時間ぐらい掛けることはありましたけど、7時間考えたことはなかった。7時間掛けて、素晴らしい一手にたどり着いたことで、私は「将棋というのは深い」ということを、実際に経験したんです。そして、当時30歳前後でしたが、生涯現役として戦っていけるという自信を持ちました。私の将棋人生のバックボーンはそこで一応できましたね。

初タイトル「十段」を獲得したころの加藤九段=1969年8月4日(共同通信)

中村
加藤先生の歴史で外せないのは名人獲得のときの対局ですよね。
加藤
昭和57(1982)年、3度目の挑戦で名人になりました。そのときは大接戦で勝ったと思っていましたけれども、その後、その将棋を自分が何回も何回も研究するうちにですね、95%は失敗だったということに気付いたんです。

それで私、思ったんです、われわれはみんな一生懸命、将棋を指しています。それで、通常はきちんとしたプロセスで勝負が付きます。だけれども、やっぱりね、大きな勝負になってくるとね、運とかツキが勝敗を分けることがある。私はクリスチャンで信仰を持っていますから、これは神様の助けがあって名人を獲得できたんだという風に思いました。

第41期将棋名人戦第6局で、挑戦者の谷川浩司八段(当時)が当時名人の加藤九段を破って史上最年少で名人位を獲得、タイトル戦初登場での栄冠だった=1983年6月15日(共同通信)

中村
加藤先生は大きな勝負をたくさん経験されていますが、やはりタイトルが懸かった一番などはプレッシャーを感じたりされていたんですか?
加藤
私は若くして四段になって、公式戦を2500戦ほど戦っていますけど、前日に、明日の対局ちょっと自信がないなあと思ったことは1回もないですね。負ける気はしない。実際には負けたりもするんですよ。1000回ぐらい負けているんだけれども、戦う前からきついと思ったことは1回もないんですよ。よく言えば楽観派ですよ。そういうところはね、結構、勝負師として向いているんじゃないかと思っています。
中村
僕は、楽観派と悲観派のちょうど中間ぐらいですね。当然ですけど、みんな勝とうと思ってやっているわけなんで、そういう気持ちは大事にはしていますけど、対局中でも、形勢が悪くなって、気持ちが沈みそうになってしまうことは多々あるので、楽観派とは言えないかな、と。

やっぱり加藤先生のお話を聞いていると楽観派の方がいいなあと思いますね。最後まで諦めずにできますし、次へのモチベーションも保(たも)てますし。先生が60年以上、第一線での活躍を続けられたのも、そういったことも関係しているんだろうなあ、と。先ほど1000回ぐらい負けているとおっしゃいましたけど、先生は最多敗記録もお持ちなんですよね。
加藤
そうなんですよ(笑)。
中村
これもまた偉大な記録だと思います。一般的に負けというのはネガティブに受け取られますが、負けが多いということは、そもそも対局数が多いということ。つまり、タイトル戦に絡む活躍を長年続けていないと達成できない記録ですから。
加藤
中原誠先生が本の中でこんなことを言っているんです。「加藤さんが勝った将棋は95点、加藤さんが負けた将棋は80点」。つまり、勝っても負けても将棋の内容については落差が非常に少ないと中原さんは言っているんですね。

2009年4月、将棋大賞表彰式で長年の功績をたたえられ、中村六段の師匠でもある日本将棋連盟の米長邦雄会長(左)から特別賞を授与される中原誠十六世名人(共同通信)

 
勝ち負けだけが勝負じゃないんですよ。私がね、いつもイメージしていたのは理系の研究者です。中には才能と幸運に恵まれて、素晴らしい発見をして賞を受ける方もいますけど、大きな成果がなくても、生涯を懸けて研究生活を送っている方が世の中にいっぱいいらっしゃる。でも、大きな賞を取らなかったからといって、別に失敗じゃないですよね。

その研究は後進に受け継がれて、きっと意味を持つ。そういう感情を、私は将棋の勝負にも持っていたわけです。一言で言うと、負けることはゼロになるわけではないと、確信しているんです。
中村
そうですね。やはり将棋は奥が深くて、負けたときにもやっぱり学びがある。次に生かそうと思える。負けるのはとても悔しいことで、特に公式戦に負けると本当に悔しいんですけど、でも、負けることは別に恥ではないんですよね。
加藤
全くそうなんですよね。
中村
加藤先生は楽観派ということですが、長い将棋人生の中で、勝負に対する気持ちが揺らぐようなことはなかったのでしょうか?
加藤
実を言うとね、私も、是が非でもタイトルを取ってやるというような気持ちがちょっと希薄な時期があったんです。今でもはっきり覚えているんだけど、妻がこう言ったんです。「あんまり勝てないまま終わっちゃうと、それは単なる負け犬だから、どんなときでもいい将棋を指さなきゃいけない」って。それを聞いてね、私ははっとしました。
中村
確かに、はっとさせられますよね、身近な奥さまにそういう風に言われたら。

加藤一二三夫妻とご子息=1966年11月2日(共同通信)

加藤
そう、自分を支えてくれている妻から「このままでは負け犬になる」と言われたら、さすがに負け犬のままではよくないな、と。いっちょ、やってやろうと思ってね、そこからエンジン全開です(笑)。
中村
僕はまだ、独身ですけど、やっぱり応援してくれる家族や友人の存在はすごく励みになっていますね。それこそ大学時代の友人から叱咤(しった)激励されることもあります。彼らが頑張っている話を聞くと、自分も頑張ろうという気持ちになるんです。
加藤
われわれは勝負師です。勝負に対する熱がないと。とにかく熱っぽくいければ、何があっても前には進みますからね。
プロフィール
加藤一二三(かとう・ひふみ)
1940年
福岡県嘉麻市にて生まれる
1952年
初段
1954年
史上最年少14歳で四段に。最年少公式戦勝利
1958年
早稲田大学入学。八段。最年少でA組へ昇格
1960年
史上最年少20歳で名人戦初挑戦
1968年
十段戦で初タイトル奪取
1973年
九段
1976年
棋王位奪取
1977年
中原五冠相手に棋王位を防衛し、六冠阻止
最多勝利賞・連勝賞・技能賞
将棋栄誉賞(通算600勝達成)
1978年
王将位を奪取して二冠
殊勲賞
1979年
殊勲賞
1980年
十段戦タイトル奪還
1981年
十段戦タイトル防衛
殊勲賞
1982年
初名人
最優秀棋士賞・連勝賞(12連勝)
将棋栄誉敢闘賞(通算八百勝)
1984年
王位戦で王位奪取
1985年
最多勝利賞・最多対局賞
1986年
ヨハネ・パウロ2世から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受賞。
1989年
特別将棋栄誉賞(通算1000勝)
1993年
現役勤続40年
1999年
21連敗
2000年
紫綬褒章受章
2001年
史上3人目の通算1200勝達成
東京将棋記者会賞
2003年
現役勤続50年
2007年
史上初の通算1000敗を記録
2011年
通算1300勝達成
2013年
通算勝数歴代単独2位の1309勝を達成
史上初の通算1100敗
2015年
23連敗が始まる
2016年
藤井聡太四段のデビュー戦で対局し敗戦
2017年
6月20日、現役引退。62年10カ月の通算成績は1324勝(歴代3位)、1180敗(歴代1位)
中村太地(なかむら・たいち)
東京都出身。2011年早稲田大学政治経済学部卒業。2006年、早稲田実業学校高等部在学中にプロ棋士となる。師匠は米長邦雄永世棋聖。2011年度、勝率1位賞。2012年度、敢闘賞・連勝賞。
文・構成:小山田桐子(おやまだ・きりこ)
神奈川県出身。1999年早稲田大学第一文学部卒業。編集者を経て現在、フリーライター。著書に『将棋ボーイズ』 (幻冬舎文庫)、『わたしのハワイの歩き方』 (幻冬舎文庫)など。
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