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「黒柳徹子さん、30代、40代をどのように過ごしていましたか?」

TVの世界に生きて、約60年。常にその第一線で活躍を続ける黒柳徹子さん。一昨年から始めたインスタグラムで発信される飾らない人柄に、今また注目が集まっている。そんな徹子さんはこの度、VOGUE Videosの人気シリーズ「In The Bag」にも登場! 84歳の今もなお、ポジティブに、アグレッシブに進み続ける”徹子道”ともいえる生き方。そんな彼女が過ごした30代とは? 仕事のこと、結婚のこと、家族のこと。徹子さんから今を生きる女性へ贈る、温かなメッセージ。

「30歳過ぎたときは、『あー過ぎた過ぎた!』って嬉しくて」

NHK入社当時の徹子さん。Photo by Instagram/@tetsukokuroyanagi/黒柳徹子

—TVというメディアが始まった頃、徹子さんが働き始めて30代、40代と活躍されていた時期は、女性の社会進出が始まり、女性の生き方もちょうど変化している時代なんじゃないかと思うんです。その時と今の時代の状況がどことなく似ているような気がするのですが、徹子さんは30代、40代をどのように過ごされていたんですか?

22、3歳で仕事を始めたんですね。だから30歳のときはTVっていうものが始まってからまだ10年も経ってないから、みんなも何だか手探り状態。私も手探り状態。そういう感じで30歳に入っていったっていう感じがしますよね。

でも、25、6歳の頃が一番嫌で。なんか中途半端な感じがしてね。もうちょっと若いと若いでいいんですけど。ただちょっと生意気なこと言うと、生意気とか擦れっ枯らしのように思われたり、本当にわかんないと言うと、カマトトと言われたり。「早く30過ぎたいな」って思ってたんです。だから30歳過ぎたときは、「あー過ぎた過ぎた!」ってすごく嬉しかったですよね。

—実際、30歳になってみて変わられましたか?

あんまり変わんなかったように思います。ただね、結婚なんか申し込まれたりしたわね、その頃割と。

「IN THE BAG」シリーズにも登場! 髪の毛の中に物を入れ始めた理由も語っています。

ーそれは30代ですか?
ええ。24歳から33歳くらいまでかな。その後もありましたけどね。一応まあ、その頃に結婚というお話もありました。

ーそれでも結局、結婚しなかった理由とは?
うーん。1つは、本当に結婚しようかなって思った時、その相手の人が「良いけど、結婚ってそんなにね、面白いもんじゃないよ」って、ね。「親戚の葬式行ったりとかね、税金のことやったりとか。そういうことも一緒にやんなきゃいけないんだよ」って。それでね、「だいたい自分がどういう性格で、どういう才能があるのかとか、どういう感覚を持っているとかって、もうちょっと知った方がいいんじゃないの」って。「今結婚しちゃったらそういうものって、もう自分で確かめる暇もなく家事に追われることになるよ」って言われて。それもそうだな、と思って。それでね、スッてその時に結婚しなかったんで。

それ以降もほかの結婚を申し込まれたりもしたんだけど、なんか結婚しないで……。そうそう、だいたい30過ぎると結婚申し込んでくれた人なんかいて、「君が結婚するって言ってくれれば、30過ぎてもいくつでもいいんだけど、今のうちにそう決めといてほしい」って言ったの。

「忙しくてもいいんだけど、このままずっと櫓の中にいるうちに、この波に押し流されちゃうって感じがしたの」

NYに住んでいた当時、38歳の徹子さん。Photo by Instagram/@tetsukokuroyanagi/黒柳徹子

ー同じお相手の方ですか?

また違う方の人よ。その人もいい人だったんだけど。要するに「今、仕事しても何してもいいんだけど、30過ぎて結婚してもいいなって思うときが来たら、あなたと結婚するっていう風に約束してくれたらいいんだけど」って言ったの。でも私は「ちょっとなぁ。30過ぎたときにその人と結婚したいかどうかわかんない」って思ってね。その考えには賛成しないって言っちゃったの、私。で結局その目論見は外れて、結局その彼は違う人と結婚しましたね。
—徹子さんは38歳の頃、一旦お仕事をお休みになってNYに行かれていますよね。その決断というのは今考えても、自分自身に置き換えてみても結構勇気が必要。しかもお仕事も順調でご活躍なさっていて、その時に38歳という年齢で、とても大きな決断をなさった理由は何だったのですか?

やっぱりそれはね、まあ忙しくても何でもいいんだけど、このまんまずっと櫓の中にいるうちに、自分が何だかわかんないうちに、この波に押し流されちゃうって感じがしたの。だから1回自分で止まってみて、これから先も行けるかどうか考えてみた方がいいなと思って。疲れてるとか、そういうことじゃなくて。1回とにかく止まってみる必要があるんじゃないかなって思ったの。

その時私は、いわゆる面倒見なきゃならない人がいるっていうわけでもなく、1人だったから自由だったんで。「じゃあこの際、どこか外国でも行ってみるかな」と思って。それで沢村貞子さんに相談したらね、「1年くらいは良いけど2年は長いよ」って言ったの。「芸能界もね、待ってはくれてるだろうけど、2年行っちゃうとちょっと長いかもしれないから、1年くらいがちょうどいいよ」っておっしゃって。

でも私、そこは決めないで行ったんです。「それでまぁ、2年なら2年でもいいや」って思って。コマーシャルも何もかも全部止めて行ったんですけど、向こうに行ってちょうど1年くらいの時に、テレビ朝日でニュースショーをやるんで、女のアンカーの人になってほしいって言われたんです。

—それは向こうにいらっしゃるときに?

ええ。今は女のアンカーの人っていっぱいいるけどれも、当時女の人っていうのはアシスタントみたいで、白いブラウスに紺のタイトスカートをはいて、司会の男の人の隣でにっこり笑ってるみたいな、そういうのが多かったんです。そういう人はね、主婦に反感を持たれるといけないから必ず主婦の経験がある人、または主婦の人がアシスタントになるっていうような時代だったんです。司会者なんか特に、全然女性はいなかったです。

そしたら私を中心にそのニュースショーをやりたいって。それで聞いてみたら、「そんな白いブラウスに紺のスカートじゃなくても、好きなものを着ていいです」って話しだったんで。じゃあやってみようかなって思って。それでNYから帰ってきたら、ちょうど1年とちょっとでしたね。だからあの時、お仕事のきっかけなければもう少しNYにいたかもしれないわね。

NY5番街に振袖を着て立つ徹子さん。「海外のパーティには絶対に着物!」がおすすめだそう。Photo by Instagram/@tetsukokuroyanagi/黒柳徹子

—ニューヨークではどんな生活をなさってたんですか?

面白かったですよね、もう朝から晩までね。お仕事は全くしないで、紹介していただいたブロードウェイにある演劇学校に行ってました。プロフェッショナルな俳優に教えるという先生で、20人くらいの生徒がいて、そこで勉強してたんだけど、とってもよかったですね。ほかの時は大体ね、ブロードウェイの中でものすごく有名なとても良い作曲家と作家の奥さんの夫婦で、ハロルド・ロームっていう夫妻がいてね、娘みたいに可愛がってくれた。

その人たちの友達たちと知り合いになって、ネズミ算的に友達が増えて、みんなアーティストでした。すごいアーティストばっかりで。そしたらもう、やっぱりすっごく面白くてね、毎日そういう方たちとお会いして、振袖なんかを着て行ったの。当時、振袖を着ていたらみんな「可愛いね!」って。毎晩、毎晩ディナーは誰かのお家にお邪魔して、自分で食べたことってなかったですね。

どれだけ英語ができたかわからないけど、皆さんとってもよく私のことわかってくださってね。で、「何か面白いよ」って話になって。みんなね、私をすごく若いと思ったみたい。38歳くらいなんだけど皆22、3歳だと思ったのね。それで「あんなに若くてあんなに面白いのってどういうことなんだろ」って。本当の歳を教えてあげたらね、皆さん持ってるもの取り落とすぐらい驚きましたよ。

日本からお友達が来てね、私のカレンダーを見て驚いてましたね。どこも素敵な方々ばかりに、私がいっぱいお誘いをいただいているので。面白かった。で、そんなとこでディナーいただいて、ランチもいただいて。で、あとはセントラルパークでブラブラしたりね。あと学校行ったり、そりゃあね。本当にね、夢のような生活でしたよ、1年間。

「どんなに慣れても、その人に慣れすぎちゃいけないのよね」

—今もインタビュアーとしても、たくさんの方とお話なさっていますよね。人とのコミュニケーションの作り方がお得意なのかなと思うのですが、そういう時に気を付けていること、人と繋がったり対人関係を築く上でのコツはありますか?

やっぱり、とってもデリケートなものですよね。その方の神経に障るようなことは絶対言わないとかね。それから乱暴なことは言わない。ちょっとユーモアのあることとかはいいんですけど、やっぱりそうね……。グサッてなるようなことは絶対に言わない。当たり前ですけどね。どんなに慣れても、その人に慣れすぎちゃいけないのよね。その辺のけじめは大切だと思います。

お母様の朝さん(右)も徹子さん同様、著書もありTVドラマ化もされたという経歴の持ち主。Photo by Instagram/@tetsukokuroyanagi/黒柳徹子

—お母様の黒柳朝さんも著名な方ですが、お母様の朝さんと徹子さんの関係はどのようなものだったのですか?

本当にね、友達。いい友達。私が子供の時から1年で小学校を退学になったりして、その時から母には迷惑掛けてるなって。初めのうちはやっぱり親子関係だったのかもしれないけども、20歳過ぎたらなんか友達のような関係になって。

でも尊敬してましたよ、母のことはとっても。変わってるとは思いましたけどね、いろんなとこでね。母ね、96歳くらいで亡くなったんですけど、そのちょっと前の93くらいの時のある日、「私ね、本当は三度三度の食事はお菓子がよかったの」って言ったの。私が「え?」って言ったら「私はね、本当はお菓子がよかったんだけど、子供たちがいるし、そんなこと言ってられないからご飯やなんかを作ったりとかしたんだけど」って。本当はお菓子がよかったんだって。それでね、「もう三度三度の食事にお菓子を食べてもいいかしら?」っていうから、「いいんじゃない? そりゃあもう別々に食べてるんですから」って言ったの。「そうしようか」って言ってましたからね。その時変わってるなと。うふふふ。

「書いてあることに自分を当てはめようと思ったりしても、そんな風にいかないわけだから。世の中はね」

30代半ばの頃に、一度だけ試したというロングのセンターパーツ。このヘアスタイルを止めることになったユニークな理由はぜひ徹子さんのインスタで。Photo by Instagram/@tetsukokuroyanagi/黒柳徹子

—最後に、徹子さんが過ごしてきた経験から、今の30代、40代の女性へ向けてお伝えいただけることはありますか?

やっぱりまず人と自分を比べたりとかはしなかったわね、絶対。

往々にして、人ってね、人と自分を比べたがるのよね。「私はあんな風にできない」とか。「私はあの人よりはできる」とか。そんな風に思ったりなんかするんだけど、人ってもう本当に複雑で、1人1人全部違うじゃない。だから私は一切、人と自分とを比べるようなことはしなかった。だってそんなこと言ったら「何であの人はあんなに出演料高くもらって、私はもらってないのはどうして」とか。もう、世の中は不思議なことだらけじゃない? だから、そういうことは一切考えても無駄だなって思ったんで。23、4歳くらいの時のある日を境にね。

特に芸能界なんていうのは、やっぱり顔がきれいとか、スタイルが良いとか、もうそういう勝ち負けみたいなことがいっぱいあるじゃない。だから、そういうのに引きずられちゃ損だなって思ったのね。自分は自分らしくいくしかないなって思って。そういう風にしたんで、とっても楽でしたよね。そうじゃないと人と自分を比べたりなんかしたり、世の中と自分を比べたり、また書いてあることに自分を当てはめようと思ったりなんかしても、そんな風にいかないわけだから。世の中はね。

「“できる”っていうのはどういうのかっていう基準は、みんな違う」

—そういう風に決めて、それを突き通されていく感じですか?

そうですね、今だにね。だから「こういう風にしたら人からよく思われるだろう」とか、「こういう風にしたら利口そうに見えるだろう」とか、「よくできる人間に思われるだろう」とか、そういうこと考えたことはないの、私。“できる”っていうのはどういうのかっていうのは、その基準はみんな違うじゃない。私は自分の範囲内でできることができればいいなと思ってたんで。割と気楽に来ましたよね、ここまで。競争なんかしないんだから。

まぁでも、しなきゃならない時があったら競争でも何でもしますけど。あんまりそういうことしないで来られたのは、よかったのかなと。そういう道を選ばないできたんだわね、きっと私。何となく、そういう風にいろいろ人と競ったりなんかするのは嫌だと思って。自分のやりたいこと、自分でできることをやるっていう感じで。それでここまで来れたんで、何とかなったかなぁとは思いますけどね。

でもね、30代、40代なんて一番いい時だと思いますよ、女の人にとってはね。私も、その頃が一番モテたような気もしますしね。楽しかったですね、毎日が。楽しみにしていらしてください。そう、前に何があるかわからないですからね。

Editor: Eri Imamura