「チャンスは滅多にめぐってこない。だから、いざめぐってきた時にはしっかりつかまなければならない」
1929年5月4日、ベルギーのブリュッセルでオーストリア系イギリス人の父とバロネスの称号を持つオランダ貴族の母の間に生まれたオードリー・ヘプバーン。幼い頃から英語、オランダ語、フランス語に馴染んで育つが、幼くして両親が離婚。母に引き取られた少女時代はちょうど第二次世界大戦の最中だった。
10歳からバレエを始め、将来を嘱望されたが、10代になった彼女の身長は170センチに。これは当時のバレリーナとしては高すぎたため、プリマになることを断念し、家計を助ける目的もあって、より出演料が高額な舞台女優に転身した。同時に映画出演もするようになった彼女が1951年、『モンテカルロへ行こう』(1952)のロケでフランスのリヴィエラを訪れたところ、偶然居合わせたフランスの女流作家コレットがオードリーに魅了され、自作の戯曲「ジジ」のブロードウェイ公演の主役に大抜擢。ここから次々とチャンスをつかみ、スターへの道を歩み始めた。
公演は大成功を収め、オードリーは続いて『ローマの休日』(1953)に主演。ローマを訪問中の某国王女アンが滞在先を抜け出し、出会ったアメリカ人新聞記者の男性と街を探訪する物語で、オードリーは王女の気品と少女のような愛らしさを魅力たっぷりに演じ、大ブレイク。アカデミー賞主演女優賞に輝いた。
「不可能なことなど何もありません。不可能(Impossible)という言葉自体が『私は可能(I’m possible)」と言っているのです」
ユーモアのセンスがあり、ウイットに富んだコメントを数多く残したオードリーらしい名言だ。「不可能」を意味する単語を分解したばかりか、正反対のポジティブな宣言に転じさせる発想力が見事。自らをシャイだと評したオードリーだが、新しいことに挑戦することや努力について常に前向きだった。
「私はジバンシィに頼りきりなの。アメリカ女性が精神分析医に依存しているのと同じようにね」
オードリーといえば、出演作の数々で見せたアイコニックな装いが忘れられない。なかでも『麗しのサブリナ』(1954)、『シャレード』(1963)、『おしゃれ泥棒』(1966)、そして『ティファニーで朝食を』(1961)など、ジバンシィ(GIVENCHY)のユベール・ド・ジバンシィとのコラボレーションは格別だ。
「私はピンクを信じています。笑うことが最良のカロリー消費だと信じています。キスすること、たくさんキスすることを信じています。全てがうまくいかないようなときに強くいることを信じています。ハッピーな女の子が最もかわいい女の子だと信じています。私は明日がまた新しい日だと信じているし、奇跡も信じています」
オードリーによる幸せに生きるヒントの数々はどれもシンプルで、誰にでも実現可能なものばかりだ。華やかにも清楚にもなるピンクは彼女によく似合う。『ティファニーで朝食を』の鮮やかな発色のカクテルドレスはもちろん、『パリの恋人』(1957)や『マイ・フェア・レディ』(1964)でも美しく着こなし、そして2度目の結婚の時に着たのもジバンシィが手がけたベビーピンクのミニドレス。
愛らしい笑顔、愛する人々への惜しみない愛情表現、困難や苦悩と向き合う強さは彼女の生き方そのもの。「奇跡を信じない人は現実主義者ではありません」という言葉も残しているオードリー。そのドラマティックな一生を省みれば、彼女が奇跡を信じるのは当然だ。かといって、誇大な夢やエゴを持つことなく素朴な幸せを愛したことが、彼女の美しさだ。
「エレガンスは色褪せない唯一の美です」
『ローマの休日』のアン王女役で、それまでのハリウッドにはなかった女性像を確立したオードリー。隣の女の子のように庶民的でもなく、過剰にセクシーでもなく、高貴で優雅。そして地に足がついている。エレガンスとは、その人の内面が美しい物腰となって現れるもの。オードリーのようにあらゆる経験を糧に生きるならば、歳を重ねて色褪せるどころか美はますます深みを増していく。
「愛とは行動。口先だけのものではないの。言葉だけで済んだことなんて一度もなかった」
1952年、ロンドンの舞台に出演していた彼女を見初めたのはジェイムズ・ハンソン男爵だった。オードリー自身も「一目惚れだった」という。2人は婚約し、ウエディングドレスも用意したにもかかわらず、オードリーが売れっ子になってしまったことから破談に。両親の離婚でつらい思いをしたことから、結婚というものに対する思いが強すぎたのも一因だったようだ。
実は恋多き女性だった彼女は、共演相手とのロマンスも少なくない。『ローマの休日』(1953)のグレゴリー・ペックとは両者ともに噂を一蹴したが、『麗しのサブリナ』(1954)では既婚のウィリアム・ホールデンと恋に落ちた。オードリーは結婚を望んでいたが、やがて破局。グレゴリー・ペックが開いたパーティーで出会ったアメリカ人俳優のメル・ファーラーと知り合い、舞台「オンディーヌ」での共演をきっかけに交際。
1年も経たない1954年9月25日、スイスで結婚した。12歳上のメルとは結婚後も『戦争と平和』(1956)や『マイヤーリング』(1957)で共演、メルが監督を務めた『緑の館』(1959)に主演し、1960年には待望の第1子となる息子ショーンが誕生した。2度の流産を経て出産したショーンをオードリーは溺愛。夢だった温かい家庭を築こうとしたが、メルの派手な女性関係などから1968年に離婚した。
翌1969年、イタリア人の精神科医で10歳下のアンドレア・マリオ・ドッティと結婚し、1970年に第2子の息子ルカを出産。だが、この結婚も彼の女性関係やオードリー自身の1979年の不倫(『華麗なる相続人』で共演したベン・ギャザラと)が原因となって1982年に離婚した。
「私たちは生まれながらにして愛する能力を持っていますが、他の筋肉と同じように鍛えて発達させなければなりません」
長男のショーン・ヘプバーン・フェラーが1999年に発表した著書「Audrey Hepburn:母、オードリーのこと」(竹書房)によると、2度の結婚で失望を味わい、その後に生涯の伴侶となったオランダ人俳優のロビー・ウォルダーズと出会った後の言葉だという。
オードリーの最後のパートナーとなったロバート・ウォルダーズとは、前夫アンドレアとの離婚前の1980年から交際し、離婚成立後から亡くなる1993年まで結婚はしないまま一緒に暮らした。オードリーは1989年、ジャーナリストのバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ロビーと結婚しないのは「その方が少しだけロマンティックだから」と説明し、彼との関係について「人生で最高の時。時間はかかったけれど、たどり着きました」と語った。
「私はとても早い時期に、人生を無条件に受け入れると決めました。人生がなにか特別なことをしてくれると期待したことはないけれど、私が願ったよりもはるかに多くを達成したみたい成し遂げているようです。大抵の場合、私が求めずとも偶然そうなっただけなのです」
オードリーは20世紀の偉大なピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインの言葉も心に留めていた。若い頃に多大な苦難に見舞われたルービンシュタインは人生を拒むか愛するかの瀬戸際で、人生を「無条件に愛することを選んだ」という。オードリーは「私もそうありたい」と語っている。
少女時代に戦争に巻き込まれてバレリーナになる夢を断たれても、挫折を受け入れて進んだ演劇の世界でチャンスをつかんだ彼女は、『ローマの休日』でイット・ガール的に持て囃された人気をタイムレスな魅力へと変えた。
オフの時間は飾らない普段着姿で街に買い物に出かけるなど、ごく平凡な暮らしを愛した彼女にとって、望んだ以上の大成功で私生活をパパラッチに追われ続けるのはうれしいものではなかっただろう。だが、彼女はそれも受け入れたばかりか、やがては自らの名声をチャリティに活かす道を選んだ。
「最高の勝利は、自分の欠点を受け入れられ、ありのままの自分で生きられるようになったこと」
かつて、年齢を重ねてからは一切公の場に現れないスター女優も多かったが、オードリーは仕事量こそセーブしつつも若さに執着せず、ありのままの姿でいることを恐れなかった。しわがあっても、瞳の輝きや愛情深い人柄がにじむ笑顔の美しさは神々しいほどだ。9年ぶりに『ロビンとマリアン』(1976)で映画出演した際にも、47歳という年齢相応の容姿で登場した。「当たり前のことよ」と堂々としていたそう。と言っても無頓着に過ごすのではなく、健康的な生活を心がけていた。
息子のルカの著書『オードリーat Home:母の台所の思い出レシピ、写真、家族のものがたり』によると、毎日2リットル以上の水を飲み、家庭菜園で育てた野菜をふんだんに使った食事をとり、月に1度はヨーグルトとすりおりろしたリンゴだけを食べるプチ断食でデトックスもしていたそう。遺作となったスティーヴン・スピルバーグ監督作『オールウェイズ』(1989)で演じたのは天使。60歳という年齢を重ねた表情は、それでも“永遠の妖精”という呼び名にふさわしいチャームがあふれていた。
「歳を重ねると、自分に手が2つあることを知るはず。1つは自分自身を助けるため、もう1つは他者を助けるために」
実はこれはオードリー本人の言葉ではなく、彼女が愛した詩の一節だ。サム・レヴェンソンの「Time Tested Beauty Tips」に含まれるもので、彼女は生涯最後のクリスマスに2人の息子へこの詩を読み聞かせたという。この一節は晩年のオードリーの生き方をそのまま表すようだ。
1992年、アメリカで最高の栄誉である大統領自由勲章を授与されたオードリー。それは長年続けてきたユニセフ(国際連合児童基金)への貢献を称えてのものだった。1950年代からユニセフのラジオ番組でナレーターを務めるなど、チャリティ活動に熱心だった彼女は晩年の数年間、子どもたちのための活動に献身した。
1988年、58歳の時にユニセフ親善大使に任命されると、同年のエチオピア訪問を皮切りに、1993年に63歳でこの世を去るまでの5年間、トルコ、ベネズエラやホンジュラスなど中南米諸国、ベトナムなどを50回以上訪問。飢餓に苦しむ難民の窮状や劣悪な環境に暮らす子どもたちのための予防接種の普及、水道設備設置など、人道支援の重要性を世界に訴えた。
1992年9月、オードリーはソマリア訪問から帰国後、体調不良に悩まされ、渡米して検査を受けたところ悪性腫瘍が発見された。すでに虫垂などに転移もあり、治療の甲斐なく、わずか数カ月後の1993年1月20日にスイスの自宅で息を引き取った。
通常の国際便には耐えられないほど衰弱していたオードリーのために、尽力してプライベートジェット機を手配したのはユベール・ド・ジバンシィだった。 オードリーの座右の銘とも言うべきレヴェンソンの詩は、彼女の葬儀で長男ショーンが朗読した。没後も、息子たちがオードリー・ヘップバーン子ども基金(AHCF)を設立し、彼女の遺志を引き継いだ活動を続けている。
Text: Yuki Tominaga
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