高田恭子  デビュー55周年 スペシャルインタビュー!

高田恭子  デビュー55周年 スペシャルインタビュー!「歌っていうのは、すごいことなんだな…」1969年のデビュー曲『みんな夢の中』がヒットし「レコ大」新人賞受賞、紅白出場! デビュー55周年企画として、シングル/アルバム収録の全曲が全世界配信!

 


インタビューの最後に、直筆サイン色紙 の 読者プレゼントあり!

 



Takada  Kyoko
高田 恭子

全曲 ダウンロード / ストリーミング 全世界 配信開始



★ 1969年 3月1日 浜口庫之助の門下生として 歌手デビュー!
★ デビュー曲『みんな夢の中』がヒット! 「レコ大」新人賞受賞、紅白にも出場!
★ 中村泰士/平尾昌晃/川口真/森田公一/筒美京平…らヒットメーカーが楽曲提供!

★ デビュー11年目の1980年に引退。その後、1997年にテレビ番組で復帰!
★ 近年の「昭和歌謡ブーム」もあり再注目されている!
★ デビュー55周年企画として、1979年までに発売された全98曲が全世界配信!

★「歌っていうのは、すごいことなんだな…」

 

 

 
 

■ 配信 リリース情報
 
 
 
高田恭子 全シングル/アルバム曲(全98曲)
Digital(ダウンロード / ストリーミング)
2024年 3月1日 配信
KING RECORDS
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

■ 配信タイトル ( 全シングル曲 / 全アルバム曲)

 

 

【シングル】全15作(※)

 

『河を野菊が / 私の愛は(+1)』 (1970年)

『女はかわる / あたりまえのことだけど』 (1970年)

『今日の雨(1970年版)/ 夜はブルース』 (1970年)

『雨の夜京都に帰る / 哀しい花びら』 (1971年)

『愛はまぼろしか / 恋の木馬』 (1971年)

『ラブ(LOVE) / 貴方の暗い情熱』 (1972年)

『夜のひき潮 / くちづけからもう一度』 (1972年)

『恋ばなし / 私に何が出来るでしょう』 (1972年)

『さよならの向こうに / 恋の十三月』 (1973年)

『あじさいいろの日々 / そよ風にのって』 (1974年)

『すてました / 二度目の恋』 (1975年)

『女の気持 / とりのこされて』 (1976年)

『白い献身 / あなたの世界』 (1977年)

『驟雨 / 沙羅の花』 (1977年)

『今日の雨(1979年版)/ 夜明けのララバイ』 (1979年)

 

(※)シングル全19作品中、アルバム未収録曲を含んだシングル全15作。

 

 

【アルバム】 全4作

 

『高田恭子 デラックス - 夜もバラのように』(1970年)

 

  1.みんな夢の中

  2.ひとり寝の子守唄

  3.夜もバラのように

  4.いいじゃないの幸せならば

  5.ここに幸あり

  6.恋の灯り

  7.愛は限りなく

  8.落葉の恋

  9.気になる人

 10.カーザ・ビアンカ

 11.耳のうしろで

 12.ゴンドラまかせ

 

『高田恭子 ダブルデラックス』 (1970年)

 

 1.今日の雨

 2.女はかわる

 3.河を野菊が

 4.みんな夢の中

 5.女心の唄

 6.君は心の妻だから

 7.南国土佐を後にして

 8.雨のブルース

 9.別れのブルース

 10.星の流れに

 11.かりそめの恋

 12.港町・涙町・別れ町

 13.長崎ブルース

 14.竹田の子守唄

 15.江戸子守唄

 16.中国地方の子守唄

 17.五木の子守唄

 18.佐渡おけさ

 19.串本節

 20.木曾節

 21.波止場女のブルース

 22.噂の女

 23.昨日のおんな

 24.愛は傷つきやすく

 25.今日でお別れ

 26.希望

 

『高田恭子 オン・ステージ』(1971年)

 

 1.愛は限りなく

 2.今日の雨

 3.ディアー・ジョン・レター ~ コットン・フィールズ

 4.竹田の子守歌

 5.いそしぎ

 6.ある愛の詩

 7.小さな願い

 8.ちっちゃな恋人 *ジミー・オズモンドのモノマネ

 9.愛はまぼろしか

 10.港町・涙町・別れ町

 11.粋な別れ

 12.みんな夢の中

 13.ウォーク・アウェイ

 14.ケ・サラ

 15.ラスト・ワルツ

 

『高田恭子 ~魅力のすべて』 (1978年)

 

 1.平戸の詩

 2.みんな夢の中 (1977年録音版)

  3.河を野菊が

  4.雨の夜京都に帰る

  5.今日の雨/

  6.ゴンドラまかせ/

  7.君待草は咲いても

  8.日本海

  9.女の気持

 10.紫陽花色の日々

 11.夜明けのララバイ

 12.愛はまぼろしか

 13.素顔

 14.さよならの向こうに

 

 

 

高田恭子 キングレコード

高田恭子 オフィシャルサイト

 


高田恭子  各配信サイト

高田恭子 歌詞一覧



 

 

 


■ 高田恭子  デビュー55周年 スペシャルインタビュー!



 

 

 1969年(昭和44年)3月に発売されたデビュー曲『みんな夢の中』(作詞・作曲:浜口庫之助)がいきなりヒットし、その年の「第11回 日本レコード大賞」で新人賞を受賞、「第20回 NHK紅白歌合戦」にも初出場した 高田恭子。

 

 アポロ 11号が、人類初の有人月面着陸を果たしたこの年、同じくデビューした同期には、由紀さおり、ちあきなおみ、トワ・エ・モワ、新谷のり子、千賀かほる、藤圭子、辺見マリ、ピーター、内山田洋とクール・ファイブ、ビリー・バンバン、はしだのりひことシューベルツ らがいた。

 

 レコードの年間売り上げ TOP 5 は、『夜明けのスキャット』(由紀さおり)、『港町ブルース』(森進一)、『ブルー・ライト・ヨコハマ』(いしだあゆみ)、『恋の季節』(ピンキーとキラーズ)、『黒ネコのタンゴ』(皆川おさむ)で、「レコード大賞」では、『いいじゃないの幸せならば』(佐良直美)が大賞を受賞、「最優秀新人賞」は『夜と朝のあいだに』を歌った ピーター が受賞した。

 

 ほかにも、『人形の家』(弘田三枝子)、『365歩のマーチ』(水前寺清子)、『長崎は今日も雨だった』(内山田洋とクール・ファイブ)、『ひとり寝の子守唄』(加藤登紀子)、『池袋の夜』(青江三奈)、『恋の奴隷』(奥村チヨ)、『フランシーヌの場合』(新谷のり子)、『真夜中のギター』(千賀かほる)……などがヒットした、そんな年だった。

 

 その後、高田恭子 は、デビュー 11年目の 1980年(昭和55年)に、一度、引退しているが、1997年、17年ぶりに テレビの音楽番組に出演したことをきっかけに、ふたたび、音楽番組やコンサートにも出るようになった。

 

 そして、今年、2024年に、歌手デビュー 55周年を迎え、3月1日には、これまでに発売された シングル 19枚と、アルバム 4枚の全収録曲が全世界で配信された。

 

 デビュー曲にして代表曲の『みんな夢の中』は、昭和を生きた人であれば誰もが知る名曲で、多くの歌手にもカバーされ、今も歌い継がれている。55年も聴いているのに、何度 聴いても飽きることがなく、その度に郷愁を感じさせる見事な ハマクラ(浜口庫之助)メロディ、そして、高田恭子 の個性的な歌声と独特の歌い回しで、一度、聴くと、そのあとも、ずっと頭の中をグルグル回ってしまう。

 

 『ゴンドラまかせ』『夜もバラのように』『河を野菊が』『今日の雨』『貴方の暗い情熱』『あじさいいろの日々』などの代表曲や人気曲のほかにも、たとえば、シングル B面などにも、いい歌がたくさんある。

 

 それもそのはず、浜口庫之助 をはじめ、中村泰士、平尾昌晃、川口真、小林亜星、森田公一、筒美京平 らが作曲を担当し、有馬三恵子、山上路夫、橋本淳 らが作詞を担当するなど、いずれも錚々たるヒットメーカーが手がけている。派手ではないかもしれないが、聴けば聴くほど好きになる秀作が多い。

 

 実際、近年の「昭和歌謡ブーム」もあって、それらの人気が高まってきており、たとえば、2012年に発売された CD『筒美京平 GOLDEN HITSTORY』(筒美京平 作品集、キングレコード盤)には、高田恭子 の『河を野菊が (Another ver.)』『ラブ(Love)』『貴方の暗い情熱』の 3曲が収録され、とくに、『河を野菊が (Another ver.)』がオリジナルとは違った音源だったことから話題となった。

 

 高田恭子 の歌声は、ハスキーでザラッとした部分もあるのに透明感もあるという個性的なものだから、耳に残る。ちなみに、デビュー時、キャンペーンで配られたステッカーに書かれていたキャッチフレーズは「夢さそう チャーミング・ヴォイス」だった。

 

 今回、それら 高田恭子 の全曲が配信となったが、配信というデジタル音源で聴いても、アナログで録音された「やわらかさ」や「あたたかみ」、「ふくよかさ」や「奥行き」が感じられる心地の良いものだ。

 

 柔らかい物腰の京都弁で話す 高田恭子は、明るく、気取ることなく、フレンドリーで、実に謙虚だ。  

 

 冗談めかして「後期高齢者です……」などと言うが、驚くべきことに、「back number」「YOASOBI」「あいみょん」といった、最新の J-POP も聴いていて、「素晴らしいですね」と話す。

 

 音楽に対する興味と、鋭い感覚は、いまだ衰えない。

 

 

 

<もくじ>

1 錚々たるヒットメーカーたちが手がけた、高田恭子のシングル曲

  〜「いろんな作家の先生の曲に挑戦させていただいて…」〜

 

2 歌手デビュー 55周年、シングル・アルバムの全曲が 全世界配信

  〜「ホンマに B面にもいい歌がいっぱいあります…」〜

 

3 今も歌い継がれる名曲、浜口庫之助による『みんな夢の中』

  〜「面白い声だと思われたみたいです…」〜

 

4 歌手を目指したきっかけのカンツォーネと『竹田の子守唄』

  〜「私、その方の歌に感銘をうけて…」〜

 

5 歌手デビューのきっかけとなったカンツォーネ コンクール

  〜「受かってなかったら、本当に京都に帰ってました…」〜

 

6 歌手引退からの復帰、最新のヒット曲も聴く

  〜「歌っていうのは、すごいことなんだな…」〜



 

 

1 錚々たるヒットメーカーたちが手がけた、高田恭子のシングル曲 〜「いろんな作家の先生の曲に挑戦させていただいて…」〜

 

 

ーー 1969年(昭和44年)3月に発売されたデビュー曲『みんな夢の中』(作詞・作曲:浜口庫之助)がいきなりヒットし、その年の「第11回 日本レコード大賞」で新人賞を受賞、「第20回 NHK紅白歌合戦」にも初出場した 高田恭子。その後、デビュー 11年目の 1980年(昭和55年)に、一度、引退しているが、1997年、17年ぶりに テレビの音楽番組に出演したことをきっかけに、ふたたび、音楽番組やコンサートにも出るようになった。

 

ーー そして、今年、2024年に、歌手デビュー 55周年を迎え、3月1日には、これまでに発売された シングル 19枚と、アルバム 4枚の全収録曲が、全世界で配信された。デビュー曲にして代表曲の『みんな夢の中』や、ほかのシングル A面曲はもちろん、シングル曲の B面にもいい歌がたくさんあり、それらは、近年、再評価されている。

 

高田: はい、ホンマに、ええ歌がいっぱいありますよ〜。やっぱり、いろんな作家の先生の曲に挑戦させていただいて、今でも、それがすごく自分の中でも残っております。

 

ーー 高田恭子 のシングル曲で作曲を担当したのは、浜口庫之助 をはじめ、中村泰士、平尾昌晃、川口真、小林亜星、森田公一、筒美京平 といった、昭和歌謡のヒットメーカーばかりだった。

 

 

<高田恭子に曲を書いた主な作曲家と、主な各代表曲>

 

★ 浜口 庫之助(作曲)

 『バラが咲いた』(作詞:浜口庫之助) マイク真木

 『涙くんさよなら』(作詞:浜口庫之助) 坂本九、ジャニーズ ほか

 『夜霧よ今夜も有難う』(作詞:浜口庫之助) 石原裕次郎

 『星のフラメンコ』(作詞:浜口庫之助) 西郷輝彦

 『黄色いさくらんぼ』(作詞:星野哲郎) スリー・キャッツ

 『人生いろいろ』(作詞:中山大三郎) 島倉千代子

 

★ 中村 泰士(作曲)

 『喝采』(作詞:吉田旺) ちあきなおみ

 『大阪の女』(作詞:橋本淳) ザ・ピーナッツ

 『心のこり』(作詞:なかにし礼) 細川たかし

 『わたしの青い鳥』(作詞:阿久悠) 桜田淳子

 『今は幸せかい』(作詞:中村泰士) 佐川満男

 

★ 平尾 昌晃(作曲)

 『瀬戸の花嫁』(作詞:山上路夫) 小柳ルミ子

 『恋のしずく』(作詞:安井かずみ) 伊東ゆかり

 『グッド・バイ・マイ・ラブ』(作詞:なかにし礼) アン・ルイス

 『二人でお酒を』(作詞:山上路夫) 梓みちよ

 『よこはま・たそがれ』(作詞:山口洋子) 五木ひろし

 『霧の摩周湖』(作詞:水島哲) 布施明

 

★ 川口 真(作曲)

 『人形の家』(作詞:なかにし礼) 弘田三枝子

 『片想い』(作詞:安井かずみ) 中尾ミエ

 『手紙』(作詞:なかにし礼) 由紀さおり

 『他人の関係』(作詞:有馬三恵子) 金井克子

 『嫁に来ないか』(作詞:阿久悠) 新沼謙治

 『積木の部屋』(作詞:有馬三恵子) 布施明

 『さよならをもう一度』(作詞:阿久悠) 尾崎紀世彦

 

★ 小林 亜星(作曲)

 『北の宿から』(作詞:阿久悠) 都はるみ

 『野に咲く花のように』(作詞:杉山政美) ダ・カーポ

 『ふりむかないで』(作詞:池田友彦) ハニー・ナイツ

 『魔法使いサリー』(作詞:山本清) スリー・グレイセス

 

★ 森田 公一(作曲)

 『青春時代』(作詞:阿久悠) 森田公一とトップギャラン

 『時代おくれ』(作詞:阿久悠) 河島英五

 『あの鐘を鳴らすのはあなた』(作詞:阿久悠) 和田アキ子

 『ひとりじゃないの』(作詞:小谷夏) 天地真理

 『ひなげしの花』(作詞:山上路夫) アグネス・チャン

 『はじめての出来事』(作詞:阿久悠) 桜田淳子

 『ハートのエースが出てこない』(作詞:竜真知子) キャンディーズ

 

★ 筒美 京平(作曲)

 『また逢う日まで』(作詞:阿久悠) 尾崎紀世彦

 『雨がやんだら』(作詞:なかにし礼) 朝丘雪路

 『ブルー・ライト・ヨコハマ』(作詞:橋本淳) いしだあゆみ

 『さらば恋人』(作詞:北山修) 堺正章

 『男の子女の子』(作詞:岩谷時子) 郷ひろみ

 『わたしの彼は左きき』(作詞:千家和也) 麻丘めぐみ

 『木綿のハンカチーフ』(作詞:松本隆) 太田裕美

 『青いリンゴ』(作詞:橋本淳)  野口五郎

 『シンデレラ・ハネムーン』(作詞:阿久悠) 岩崎宏美

 

 

ーー 高田恭子 の活動期間中、1969年(昭和44年)〜 1979年(昭和54年)までに、そういう錚々たるヒットメーカーたちが手がけ、発売されたシングル 19作(全38曲)は、曲調も実に様々だ。

 

ーー 『みんな夢の中』(作詞・作曲:浜口庫之助)、『ゴンドラまかせ』(作詞・作曲:浜口庫之助)、『河を野菊が』(作詞:橋本淳 / 作曲:筒美京平)、『ラブ』(作詞:橋本淳 / 作曲:筒美京平)、『貴方の暗い情熱』(作詞:橋本淳 / 作曲:筒美京平)、『恋ばなし』(作詞:千家和也 / 作曲:小林亜星)、『さよならの向こうに』(作詞:小谷夏 / 作曲:森田公一)、『あじさいいろの日々』(作詞・作曲:万里村ゆき子)……など、さわやかで、ポップなメジャー調の曲。

 

ーー また、『夜のひき潮』(作詞:山上路夫 / 作曲:平尾昌晃)、『くちづけからもう一度』(作詞:尾中美千絵 / 作曲:平尾昌晃 )などのような、王道歌謡曲。

 

ーー そして、『夜もバラのように』(作詞・作曲:浜口庫之助)、『今日の雨』(作詞:有馬三恵子 / 作曲:中村泰士)、『雨の夜京都に帰る』(作詞:どいあきら / 作曲:中村泰士)、『すてました』(作詞:石原信一 / 作曲:中村泰士)、『女の気持』(作詞・ 作曲:中山大三郎)などのような、ブルース調やムーディーな歌謡曲もある。

 

高田: ありがとうございます。あの……、『今日の雨』(作詞:有馬三恵子 / 作曲:中村泰士)(6枚目のシングル、1970年10月発売)はね、あれ、バスの歌なんです。あの、ジャケット写真にも出てますけど、深夜バスで「ドリーム号」っていうのがありましてね、今でこそ、新宿やらの大きいところからいろんなとこ行ってますけど、私のときは、まだ国鉄で、東京駅の八重洲口から。だから、この 1970年の時の『今日の雨』は、(歌詞に)八重洲口が出てくるんですよ。八重洲口から神戸の方に行ってた、夜の10時に走って、翌朝 6時半ごろに着くっていうバスだったんですよ。たしか、京都も大阪も、途中、寄ったんじゃないかと思うんですよ。それで、その時、車掌さんの格好して、観光バスで熱海の方へ行ってキャンペーンをやったりしてたんです。

 

ーー マイナー調 3連で、耳に残る『今日の雨』も人気の曲だ。

 

高田: あと、この『今日の雨』が、『オールナイトフジ』(1969年〜1971年、フジテレビ)っていう深夜番組で流れてて、有線放送なんかでも人気がありました。あの、とっても何か今までと違う曲調で、ありがたかったな〜って。それとね、(作曲した)中村泰士 先生が、すごく細かく、ものすごいレッスンしてくださって、なんかすごく自分に今でも響いてるんです。

 

ーー 実は、『今日の雨』は、1979年に再録音されて、19枚目(引退前、最後)のシングル曲として再発売されている。この 1979年版では、1970年版から歌詞の一部が変更されている。

 

高田: はい、そうなんです。10年目に、八重洲口やらを(歌詞から)抜かして、作詞は同じく 有馬三恵子 先生なんですけど、もっと「女の人の未練」というか、「♪もしも 死のうと言われたら  私 いつでも死ねました」みたいなね、そういう歌詞の歌になって、それをまた次に出していただきまして、ありがたかったです。

 

ーー 同じ曲で、歌詞の一部を変更して、再度、シングル A面曲として発売するということは珍しい。

 

高田: あの……、有線放送でね、その当時は、ず〜っと(リクエストが)続いてたみたいで、有線の方にも、よく、そう言っていただきました。今は、ちょっとそういう時代ではなくなってきましたけどね。ありがたかったです。



2 歌手デビュー 55周年、シングル・アルバムの全曲が 全世界配信 〜「ホンマに B面にもいい歌がいっぱいあります…」〜

 

 

ーー 本人にとっては、シングル 19作の全てに、思い出も思い入れもあるとは思うが、あえて、とくに思い出深い曲を聞いてみた。

 

高田: そうですね〜……、どの歌にも思い出がありますから、もう、なんでもアレなんですけど……。あの……、浜口(庫之助)先生の歌で『恋の灯り』(作詞・作曲:浜口庫之助)(1969年8月発売、2枚目のシングルの B面)っていう曲がありますんですけどね。浜口(庫之助)先生がね、レコーディングの前に歌ってくださるんですよ。それを 1回 聴いたら、もう帰りたくなるぐらい上手いんですよ……(笑)。

 

高田: だから、石原裕次郎さんなんかも、浜口(庫之助)先生の歌唱法がお好きだったんだと思うので、なんか、ゴルフのときに、「(浜口)先生、書いてよ」っていうので、『夜霧よ今夜も有難う』が出てきたとかいう話は伺ったんです。だから、やっぱり、浜口(庫之助)先生が歌われると、もうね、「もう堪忍してくださ〜い!」ってね、そのくらい素晴らしいんですよ。

 

ーー B面収録だった『恋の灯り』は、メジャー調アップテンポのさわやかな A面の『ゴンドラまかせ』とは対照的に、マイナー調でムーディな曲だ。

 

高田: はい、ムーディーな曲なんですよ。

 

高田: あとね、『東京音楽祭』で『さよならの向こうに』(作詞:小谷夏 / 作曲:森田公一)(1973年発売、12枚目のシングル)って曲を歌って、入賞曲になったんですけど、あの時、審査を受けて、何点以上でないと出られないっていう、厳しいアレだったんです。で、私の時、たしか、雪村いづみ さんが優勝されたと思うんですけど、最終のところまで残って歌わせてもらったんです。

 

ーー さわやかで、張った歌声が印象的な『さよならの向こうに』を作詞した 小谷夏 は、『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』などで知られる演出家・久世光彦 のペンネームだ(市川睦月 というペンネームでも作詞をしている)。

 

高田: はい。あと、NHK の『あなたのメロディー』(アマチュアが作詞作曲した作品を、プロの歌手が歌うコンテスト形式の番組)で、『平戸の詩』(作詞:森文明 / 作曲:森文明)(1977年11月発売、18枚目のシングル)っていう、(長崎県の)平戸の高校の先生で、森文明 さんっていう方が作詞作曲されて、それを『あなたのメロディー』に出されていて、それをレコーディングしたんです。その当時は、港で流れてたっていうので……、やっぱり、『平戸の詩』も、すごく思い出ありますですね。

 

ーー 『平戸の詩』は、マイナー調で、和のメロディが印象的な曲。

 

高田: はい、その情景が、景色が浮かぶ歌です。

 

高田: で、あと、やっぱり、『あじさいいろの日々』(作詞・作曲:万里村ゆき子 / 編曲:P.Mauriat)(1974年発売、13枚目のシングル)ですね。その当時のディレクターさんが、フランスの ポール・モーリア さんと夜中に連絡を取って、それで、(編曲の)承諾を得たからっていうので、1973年の 9月か10月ころに来日されて、(ポール・モーリア・グランド・オーケストラ の)渋谷公会堂かどこかのでのコンサートのあと、10時か 11時頃からのレコーディングでしたんですけど……。やっぱり、あの方(ディレクター)の熱意がもうすごかったですね。

 

高田: 日本ではね、私と 来生たかお さんだけが、ポール・モーリア・グランド・オーケストラ とレコーディングさしていただいてるみたいなんです。で、(シングル『あじさいいろの日々』の)裏面が、ポール・モーリア さん作曲の『そよ風にのって』(作詞:西川ひとみ / 作曲:A.Borly、P.Mauriat / 編曲:青木望)って曲だったんです。

 

高田: で、その年(1973年)の 6月に、フジテレビの『小川宏ショー』で、「今月の歌」の 6月が『あじさいいろの日々』だったんです。万里村ゆき子 さんて、グループサウンズの作詞・作曲をされてた方が書かれた曲で、それで、その当時のディレクターさんが、「なんとかこれを売りたい」っていうので、それで、アジサイの有名な大きなお寺とか、アジサイの名所のところなんかで、ずいぶんキャンペーンをさしていただきました。

 

ーー 当時、日本で流行っていた「イージー・リスニング」の代表的な指揮者で編曲者の ポール・モーリア が編曲をし、ポール・モーリア・グランド・オーケストラ が演奏した『あじさいいろの日々』は、メジャー調 3連の綺麗なメロディの曲だ。

 

高田: はい、綺麗な曲なんです。なんか、今もね、いろんな FM で流してくださってるみたいなんです。

 

ーー 高田恭子の歌声は特徴的だ。ハスキーでザラッとした部分もあるのに、透明感もある。そんな人はなかなかいない。『あじさいいろの日々』も透明感のある歌声が耳に残る。

 

高田: いえいえいえ……、透明感なんて……、そんなことないです。最初のころは、あったんですけど……(笑)。本当に、ありがとうございます。

 

ーー 1972年 1月に発売された 9枚目のシングル、ポップなメジャー調で耳に残る歌謡曲『ラブ』(作詞:橋本淳 / 作曲:筒美京平)も、明るい歌声が印象的だ。

 

高田: あ〜、ありがとうございます。でも、『ラブ』は、ちょっと、かわいらしすぎるって言われてますけど……(笑)。

 

ーー シングル曲の B面に収録されている曲にも、いい曲が多い。たとえば、1969年 11月に発売された 3枚目のシングル『夜もバラのように』の B面、メジャー調 3連の『気になる人』(作詞:浜口庫之助 / 作曲:浜口庫之助)もいい。

 

高田: あっ、これね、かわいらしい歌なんですよ〜。で、浜口(庫之助)先生の奥さんがね、「恭子さん、『気になる人』(の歌詞)なんだけどね、あれは誰かしら?」って言うからね、「そりゃ、奥様じゃないですか?」って、私は言ったんですけど、すごい、奥様が気にしてました……(笑)。

 

ーー 1970年 3月に発売された 4枚目のシングル『河を野菊が』の B面、マイナー調でヨーロッパを感じるようなメロディの『私の愛は』(作詞:橋本淳 / 作曲:筒美京平)、続く、1970年 7月に発売された 5枚目のシングル『女はかわる』の B面、ポップなハネ系メロディの『あたりまえのことだけど』(作詞:橋本淳 / 作曲:筒美京平)、さらに、続いて、同年 10月に発売された 6枚目のシングル『今日の雨』の B面、メジャー調 3連のおしゃれな歌謡曲『夜はブルース』(作詞:有馬三恵子 / 作曲:中村泰士)など、B面にも、いい曲がたくさんある。

 

高田: あ〜、ありがとうございます。『夜はブルース』も好きでした。それも、中村(泰士)先生の曲で、レコーディングの時も、そばで「こういうふうに歌え」って、すごくやってくれましてね。

 

ーー さらに、1972年 6月に発売された 10枚目のシングル『夜のひき潮』の B面、いかにも「平尾昌晃メロディ」といったような、どこか懐かしさを感じるメジャー調 3連の『くちづけからもう一度』(作詞:尾中美千絵 / 作曲:平尾昌晃)、同年 11月に発売された 11枚目のシングル『恋ばなし』の B面、メジャー調で言葉が耳に残る『私に何が出来るでしょう』(作詞:千家和也 / 作曲:小林亜星)、1976年に発売された 15枚目のシングル『女の気持』の B面、マイナー調 3連の『とりのこされて』(作詞:喜多条忠 / 作曲:川口真)などもいい。

 

高田: ああ……、そうでしたか……、ありがとうございます。ホンマに B面にもいい歌がいっぱいあります。そんなに聴いていただいて、曲名を言っていただけるなんて、歌い手としては、こんなにうれしいことはありません。ありがとうございます。

 

ーー そもそも、シングル A面の候補曲として 2曲あり、「どっちを A面にするか?」という話になるから、たまたま、どちらかが B面になっているだけで、必然的に、B面も A面と変わらないクオリティの曲になる。

  

高田: そうです、そうです。ですから、よく、B面がヒットするってこともありましたね……。

 

ーー シングル曲に限らず、アルバム収録のみの曲にもいい歌がある。たとえば、狩人 や 八代亜紀 のシングル曲として 1983年に競作で発売された『日本海』(作詞:阿久悠 / 作曲:大野克夫)は、もともと、高田恭子がオリジナルで、1978年発売のアルバム『高田恭子 〜魅力のすべて』に収録されている。八代亜紀 が歌った『日本海』は、1983年の「第25回 日本レコード大賞」で、『冬のリヴィエラ』(森進一)、『細雪』(五木ひろし)、『浪花恋しぐれ』(都はるみ)、『きめてやる今夜』(沢田研二)とともに「特別金賞」を受賞している。また、2007年に発売された、作詞家・阿久悠 の作品集『男と女・昭和編 ~阿久悠作品集』には、高田恭子のバージョンで収録されている。

 

高田: ああ……、ありがとうございます……、ありがたいですね〜。

 

高田: あと、なんかね……、その当時の音楽評論家の方がね、私は思わないんですけど、西田佐知子 さんと、ちあきなおみ ちゃんと、私が、何かその当時「唱法が似てる」って言われたんです。

 

ーー たしかに、たとえば『今日の雨』など、ブルース歌謡のような曲のときは、ちあきなおみ に似ているかもしれない。

 

高田: ああ〜、そうですかね〜。私、ちあきなおみ ちゃんとは同期で、好きだったし、仲良しだったんですよ。だから、結婚のときの報告もおハガキでくださったんですけど……、最後の方は、なかなか連絡がとれなくて……。

 

高田: あのね、ちあき(なおみ)さんが『喝采』(作詞:吉田旺 / 作曲:中村泰士、1972年)を出された時に、NHK の『連想ゲーム』に、ふたりでどっちかが出てて(1972年4月 〜 1973年3月)、最終的に、ちあき(なおみ)さんが忙しくなられたんですけど、そのとき、「本当に(ちあき)なおみちゃんにぴったりの歌に出会えたね」っていう話をしたときに、すごい喜んでくれて、「本当に嬉しい」って言ってくださったことがあったんです。それからは、あんまり会わなかったんだけど、デビュー当時、朝 7時の上野発に乗ってると必ず会うんですよ、おんなじ頃のデビューですから。そういう意味で、カルメン・マキ さんも同期でしたけどね、彼女も本当に素敵な人で……。



3 今も歌い継がれる名曲、浜口庫之助による『みんな夢の中』 〜「面白い声だと思われたみたいです…」〜

 

 

ーー デビュー曲にして代表曲の『みんな夢の中』は、昭和を生きた人であれば誰もが知る名曲で、多くの歌手にもカバーされ、今も歌い継がれている。55年も聴いているのに、何度 聴いても飽きることがなく、その度に郷愁を感じさせる見事な ハマクラ(浜口庫之助)メロディに、高田恭子 の個性的な歌声と独特の歌い回しで、一度、聴くと、そのあとも、ずっと頭の中をグルグル回ってしまう。

 

高田: ありがとうございます。『みんな夢の中』もね、浜口(庫之助)先生が歌われると、フォークなんですよ。レコーディングの時、私に、「いろんな歌い方で歌え」っておっしゃったんですよ。で、最後ね、もうこれ申し訳ないんだけど唸ったんですよね。そしたら、それが採用になったんですよ。

 

高田: レコーディングは、もう、べったり付いてやってくださるんです。で、もう何回も何回もやるんですね。で、浜口(庫之助)先生は、「"♪みんな夢の中〜" ってところの歌い方が面白い」って言ってくださるんだけど、それ以外のところが、いっぱい注文されるんですよ。だからね、そうなるとね、最終的に、もうわからなくなるんですよ。それで、「う〜ん……」と思って唸っちゃったんですけど……(笑)。だから、初めて聴いた人は、「演歌かと思った」って言われたりもしました。都はるみ さんらのいわゆる演歌をずっと歌ってこられた方みたいな。

 

ーー 『みんな夢の中』は、楽譜どおりではなく、たとえば、くい気味だったり、粘ったりと、独特な間の取り方で歌われている。それも、浜口庫之助 のディレクションだったのだろうか?

 

高田: いや、それは、私の歌い方が悪いんだと思います……(笑)。とにかく、最初、1回、浜口(庫之助)先生が歌ってくださるんですね。それを聴いて、本人はショックを受けてるんですけど、自分なりに「どういうふうに歌っていくかな〜」って思いながら歌ってみると、ポイントでは、「ちょっと、ここはこうして」とかおっしゃるんですけど、「あとは自由に、高田くんのリズムで歌って」っておっしゃるんです。

 

ーー ということは、あの独特な歌い回しは、高田恭子 のセンスだ。誰しも、『みんな夢の中』を 高田恭子 の歌声と歌い回しで記憶している。譜面どおりではない、あの独特の間の取り方が、『みんな夢の中』を、より印象付ける結果となっているように思う。

 

高田: ああ……、そうでしょうかね〜……。浜口(庫之助)先生のとこって、リズムレッスンみたいなのをすごくなさるんですよ……、あの、昔、ビリーバンバン さんやらも行ってた時なんですけどね。そういうリズムレッスンをやってからいろんな曲をいただくので、そのときのレッスンやらが、何か自分の歌い方にはなってるのかなとは思いますけども。

 

高田: あのね……、浜口(庫之助)先生のところに、最初に行った時、「どんな歌を歌ってたの?」って聞かれて、カンツォーネやら、そのとき流行ってる曲を先生に「こんな歌もあったんですよ」なんて話してたんですけど、それで、「こんな歌を歌ってたんです」って歌ったときに、これも本当に申し訳ないんですけど、「♪悲しくて 悲しくて〜」っていうのがあったでしょ(『悲しくてやりきれない』ザ・フォーク・クルセダーズ)、それをね、「先生、こういうフォークをみんなで歌ってたんですよ」って言ったら、なんか、それが、すごく先生の中で残ってたみたいで、(『みんな夢の中』に)「ちょっとそういう感じが入ってるな」って思うのは、「あのとき歌ったからかな」なんて、自分ではあったんです。

 

高田: とにかく、(浜口庫之助)先生は、(毎コーラスの)最後の「♪みんな夢の中〜」は、「そこは、おもしろい」って言ってくださって、「そのまま歌え」って言われたんですよ。でも、あとは、もう大変で……(笑)。

 

ーー 毎コーラス、最後の「♪みんな夢の中〜」の部分も、ちょっと粘るような、あの歌い方だから、より耳に残っているのだろう。

 

高田: だから、そこの部分も、「こうしろ」とか「ああしろ」っていうのは、いちおうあるんですよ。でもね、本人、もうあんまり言われてわからないんですよ、「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、どうしよう……」って思ってて……(笑)。

 

高田: だから、作家の先生によっては、もう(レコーディングのブースに)入ってきて、ものすごい怒られる方もいらっしゃるし、そういうのもありました、本当に。作詞の先生で、「違うだろう!」なんて言われると、もう萎縮してしまうんですね、自分が。なんか、「自分で自分の世界を作らないかん」と思うんですけど、それ以前の問題がいろいろあって……。

 

高田: でも、浜口(庫之助)先生に関しては、やっぱり先生がレッスンしてくださって、歌ってくださるので、ものすごく自分では「自分の意思を中に入れていく」っていうのか、そういうのは、やりやすかったように思いますですね。

 

ーー 浜口庫之助 が、高田恭子 の歌声を気に入って『みんな夢の中』を書いたと言われている。

 

高田: いえいえ……(笑)。なんか、LP(のライナーノーツ)には、ちょっと書いてくださってたんですけど、直接は……。なにか、面白い声だと思われたみたいです……、先生からすると、はい。

 

高田: で、初めて、浜口(庫之助)先生の前で歌ったときは、「面白いリズムを持ってるね」って言われました。それは、ずっとカンツォーネが好きで、歌っていたからじゃないかと思うんです、自分では。

 

高田: でも、「『耳のうしろで』を裏面で」という言い方で言ってらしたので、やっぱり、『みんな夢の中』はデビューさせようと思って作ってくださったと思います。

 

高田: でも、最初、聴いたときは、なんか、私は、チャイニーズ・メロディみたいに思いました。そういう感じが、私はしたんですね。でも、浜口(庫之助)先生が歌われるとフォークなんですね。(浜口庫之助)先生は、私が歌ったのとは違って、サラッと歌ってらしたので。

 

ーー そして、21歳の時、『みんな夢の中』でデビューし、デビュー曲にしていきなりのヒット。その年、1969年の「第11回 日本レコード大賞」では、はしだのりひことシューベルツ(『風』)、内山田洋とクール・ファイブ(『長崎は今日も雨だった』)、千賀かほる(『真夜中のギター』)とともに、新人賞を受賞(最優秀新人賞は、ピーター『夜と朝のあいだに』)。さらに、デビューした、その年に「第20回 NHK紅白歌合戦」にも初出場した。

 

高田: ありがとうございます。デビューが 3月1日なんですけど、フジテレビのお昼のワイドショーみたいなので、前田武彦 さんや 土居まさる さんやらの司会で『お昼のゴールデンショー』っていうのがあったんですよ。新曲が出ると、そこで、1週間、毎日、歌うっていうのがありまして、それを、3月の初めにやっていただいたんです。

 

高田: あと、なにしろ、あの当時は、もう「キャンペーン、キャンペーン」で……、いわゆるレコード店に行きまして、それこそ、リンゴ箱やらで台を置いて、そこで、キャンペーンさしてもらってました。商店街のとこでお客さんに集まっていただいて、マイクがあったらいい方で、まず無くて、そこでレコードかけたりしてね……、それで、全国に行くんですよね。

 

高田: で、その合間に、『お昼のゴールデンショー』みたいな番組にも入れていただいたり、あと、「今月の歌」みたいなのにも、どっかでいろいろと出していただいたり、そういうので、少しずつ曲(のセールスが)が動いたんじゃないかな〜と思います。

 

ーー 3作目のシングル『夜もバラのように / 気になる人』までは、 A/B面とも、浜口庫之助 が作詞・作曲を担当していた。和田弘とマヒナスターズ、ビリーバンバン、西郷輝彦、にしきのあきら らも、浜口庫之助 の門下生だ。

 

高田: はい、そうなんです、私も門下生です。

 

ーー そもそも、師匠だった 浜口庫之助 とは、どういう出会いだったのだろう?

 

高田: それはね、私、キングレコードからデビューする前にね、『第一回 カンツォーネ コンクール』(報知新聞社 主催、1968年)で優勝してるんです。で、それの後援がキングレコードだったんです。その当時は、「コロムビア全国歌謡コンクール」とか、コンクールとかがたくさんあって、NHK のオーディションか、レコード会社のオーディションを受けないと歌手になれなかったんですね。

 

高田: で、私は、キングレコードが後援っていうのも後で知ったんですけど……、本当は、コンクールは賞金10万円っていうので、受かるとは思わないで行ったんですが……(笑)。でも、それで、受かったんで、それで、すぐ「(キングレコードの)オーディションを受けなさい」って言われてキングレコードに行きまして、オーディションを受けたんです。

 

高田: それで、その時、作詞家で詩人でもある『ここに幸あり』とか書かれた 高橋 掬太郎(たかはし きくたろう)先生のご子息の 高橋 公郎(たかはし きみお)さんて方が、最初のディレクターさんだったんです。途中でお辞めになったんですけど、その 高橋(公郎)さんが、いろいろとよくしてくださって、ジャズの先生とクラシックの先生にもつけてくださって……。それで、やっぱり高橋(公郎)さんとしては、「浜口(庫之助)先生のお弟子さんになって、浜口先生の歌を歌ってもらいたい」と思われたみたいで、それで、浜口先生のところへお願いにあがって、門下生にしてくださって、通うようになりました。



4 「赤い鳥」で知られる『竹田の子守唄』は、高田恭子が初録音 〜「私、その方の歌に感銘をうけて…」〜

 

 

ーー 京都で生まれ育った 高田恭子 が、物心ついたころに好きだった歌を聞いた。

 

高田: あのね……、私、あの歌をものすごい覚えてるんですけど……、「♪あなたと共に 行きましょう 恋の甘さと 切なさを はじめて教えて くれた人〜」(津村謙・吉岡妙子『あなたと共に』1954年)、あれが、ものすごい残ってるんですよ、小さい時に聴いて。

 

高田: あとは、やっぱり、『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ、1959年〜1970年)やらで、ザ・ピーナッツ さんやら、伊東ゆかり さんや、中尾ミエさんは……、ずいぶんポップスみたいなものが入ってきてましたので……。あと、弘田(三枝子)さんが、いろいろとお歌いになりましたので、そういうのをやっぱりよく聴いてましたですね。で、私は、伊東ゆかり さんの『クワイ河マーチ』(1958年、デビューシングル)で、伊東(ゆかり)さんのファンになったんです。

 

ーー その後、「歌手になりたい」と思ったきっかけは、カンツォーネだった。

 

高田: そうなんです。私、実は、もともと、カンツォーネばっかり聴いてたんです。

 

高田: あのね、中学 3年生のときに、同級生と一緒に京都であったカンツォーネの若い歌い手さんがみえて歌われてるコンサートに行ったんですよ。その時、出られてた ミケーレ さんと、ジーノ・パオーリ さんて方が、LP を二人にくださったんですよ。それで、それ聴いて、もう「カッカ カッカ」なってました……(笑)。

 

高田: そのころはね、『太陽の下の18才』(ジミー・フォンタナ)(訳詞バージョンは、木の実ナナ『太陽の下の18才』、伊藤アイコ『サンライト・ツイスト』、青山ミチ『恋のゴーカート』などがある)とか、なにしろ『サンレモ音楽祭』(イタリアのサンレモで毎年行われていた世界的なポピュラー音楽祭)で、毎年のように大ヒット曲が出るんですよ、ジリオラ・チンクェッティ やら、ボビー・ソロ やらね。そういう時代だったんで、岸(洋子)さんも行ってらしたし、伊東ゆかり さんも『サンレモ音楽祭』には行って出られてるんですよね。

 

高田: で、『雨』を歌った ジリオラ・チンクェッティ さんと一緒に来日された『アル・ディ・ラ』なんかを歌った ルチアーノ・タヨーリ さんっていう方がいらしたんですけど、その方が小児麻痺だったので、背もあんまり大きくなくて、椅子を置いて歌われるんですけど、「ウィーン少年合唱団」みたいなボーイ・ソプラノというか、「声変わりされていないんじゃないか?」っていうくらい、いい声なんですよね。で、私、その方の歌に感銘をうけて、「歌い手になりたい」と思ったのが、高校のときだったんです。

 

高田: でも、そのあと、(歌の)勉強をするところが京都にはなんにもなくて……、『京都の夜』とか歌われた 愛田健二 さんて方、いらっしゃるでしょう、その 愛田(健二)さんのお父さんが歌謡学院をやってらしたんだけど……、そういう教えてもらえるところが、あと YMCA とかくらいで、あんまりなかったんですよ。

 

高田: それで、そのとき、友達のお兄さんから、フォーク・グループに誘われて……、その『竹田の子守唄』を探してきた 大塚孝彦 さんて方なんですけど、その大塚さんの「大塚孝彦とそのグループ」に入ったんです。だから、「フォーク出身」ってよく言ってくださるんですけど、本当は、私の原点はカンツォーネだったんですね。なので、(デビューしてからの)LP にも、少しカンツォーネが入っていたり、日本語の訳詞ですけど、歌わせていただいてるんです。

 

ーー 本当は、カンツォーネが好きだったが、歌い手として誘われて、京都で活動していたフォーク・グループ「大塚孝彦とそのグループ」に加入した。

 

高田: あの……、京都なので、御所(「京都御苑」のこと。京都では「京都御苑」を「御所」と呼ぶ)でみんなギターやってたんですけど、道子さん(高田恭子とともに「大塚孝彦とそのグループ」のメンバーになった 中村道子)って、すごいセンスのある人がいて、私、高田なんで「たっかん」って呼ばれてたんですけど、「たっかん、ちょっとな、御所に 大塚(孝彦)さんが来てるから、あんた、ちょっと一緒に来て」って誘われたんです。で、「あんた、"ドナドナ" 歌えるか?」って言うから、「歌えると思うわ〜」って言うて、それで、あの 大塚(孝彦)さんがギター弾いて、二人で歌ったんです。

 

高田: そしたら、大塚(孝彦)さんに、「二人、入ってくれへんか?」って言われて、それで、(中村)道子さんと「大塚孝彦とそのグループ」に入ったんです。で、「大塚孝彦とそのグループ」は、大塚(孝彦)さんと、その弟さんがいて、ベースの山崎さんっていう人がいて、男性 3人、女性 2人のグループだったんです。それで、大塚(孝彦)さんが『竹田の子守唄』を探してきて歌ったんです。

 

ーー 「大塚孝彦とそのグループ」は、『ザ・ファースト・アンド・ラスト』(1967年)という 12曲入りの LP レコードを 1枚だけ発売している。レコード盤のレーベルにはキングレコードと印刷されているが、自主制作盤だった。

 

高田: はい、大塚(孝彦)さんのお友達がキングレコードにいて、その人にお願いして、自主出版で 300枚だけ LP を作ることになったんです。

 

ーー グループに加入して、フォークソングを歌い出してから 約1年の 高田恭子も、もちろん、この録音に参加している。

 

高田: そうなんです。それで、東京でレコーディングするっていうことで、新幹線やらはまだ乗せてもらえないから、夜行に乗って、夜行で帰った記憶があります。あのね……、A面は、全部、歌ってますけど、私がソロで歌ってるのはね、『雨をよごしたのは誰?』とね、『竹田の子守唄』です。『竹田の子守唄』は、ものすごい素朴に歌ってます。あとの曲は、みんなで歌ってるのが多いですね。

 

ーー のちに、「赤い鳥」が歌って、フォークソングとして広く知られるようになった『竹田の子守唄』は、もともと同志社大学の合唱団が歌っていた。それを聴いた 大塚孝彦(同志社大学)がギター伴奏できるようにアレンジし、高田恭子 と二人で歌い始め、この「大塚孝彦とそのグループ」の LP が、「『竹田の子守唄』の初録音」と言われている。

 

高田: あっ、だから、(「赤い鳥」の)後藤(悦治郎)さんやらは、その「大塚孝彦とそのグループ」を見てくれてはったんです。で、(同じく、その後に歌った)高石ともや さんらとは、一緒にやってたんですよ。なので、後藤(悦治郎)さんは、歳を聞いたら同じくらいなんですけど、ちょっと、あとなんです。それで、「赤い鳥」では、山本(潤子)さんとかが歌ってましたね。

 

ーー 「赤い鳥」や 高石ともや らは、「大塚孝彦とそのグループ」で 高田恭子 が歌っているのを聴いて『竹田の子守唄』を知ったということだ。

 

高田: いや〜、もう、そんなん言わんといてください。みなさんの方が上手やったですし……。でも、いちおうね、「大塚孝彦とそのグループ」の最大のヒット曲が『竹田の子守唄』で……(笑)。

 

高田: もともとは、京都の南の方で、子守に行かなあかん地域があったみたいで、そこから出てきた歌みたいで、それを、大学の合唱団が歌ったみたいですね。で、それを、大塚(孝彦)さんが聴いて、自分でそこへ行って……。そのあと、『竹田の子守唄』っていう本を書かれた方がいらっしゃったんですけど、その方が、いろんなことを聞いてこられたんで、それで、『竹田の子守唄』の歌詞も、私のときは、3コーラスくらいなんですけど、今は、歌詞がいっぱい増えて、「大根めし」やらなにやら、いわゆる「生活の詩」みたいになってますね。



5 歌手デビューのきっかけとなったカンツォーネ コンクール 〜「受かってなかったら、本当に京都に帰ってました…」〜

 

 

ーー 「大塚孝彦とそのグループ」で、自主制作盤の LP を発売した後、今度は、マイク真木 が結成したグループ「ザ・マイクス」の二代目女性ボーカリストとして加入した。

 

高田: はい。それで、「大塚孝彦とそのグループ」で『ザ・ファースト・アンド・ラスト』を録りまして、その時に、加藤和彦 さん(「ザ・フォーク・クルセダーズ」「サディスティック・ミカ・バンド」などで活躍。『あの素晴しい愛をもう一度』などを作曲)が、ギターで参加してたんです。で、そのレコーディングが刺激になって、加藤(和彦)さんが、あの「♪おらは死んじまっただ〜」(『『帰って来たヨッパライ』)の「フォークル」(「ザ・フォーク・クルセダーズ」)を作ってやったのがヒットしたんです。

 

高田: で、そのあとで……、それはだいぶあとなんですけど、大塚(孝彦)さんが留学でいらっしゃらなくなったときに、加藤和彦 さんが、東京と関西とのフォークの交流で何かやるときに、「やっぱり女の子がひとりいた方がいい」ってことで、「ボクがギター弾くから、高田、一緒にやってくれ」って言われて、それで『竹田の子守唄』と何かを歌う、「ザ・フォーク・クルセダーズ」も何かを歌う、っていう東西の交流っていうのがあったんですね。

 

高田: それで、京都は「南座」に、マイク真木 さんやら、『若者たち』の「ザ・ブロードサイド・フォー」の人がみえたり……、(当時の)写真を見ると、なぜか、佐良直美 ちゃんやらも写ってたんですよね。それで、東京は「日比谷公会堂」で、加藤和彦 さんやら、北山修 さんやらのグループと私が歌わせていただいたんですけど、そのときは、もうそれで「さいなら〜」って感じで京都に帰って、もう私は歌わないと思ってたんです。

 

高田: そしたら、マイク真木 さんが「ザ・マイクス」っていうグループで、「田辺あかね ちゃんっていう(ボーカルの)女の子がいなくなったんで、関西の公演だけ付き合ってくれ」って言われて、大阪の「新歌舞伎座」で 4日間やったんです。ビクターの「なんとかパレード」みたいな公演だったと思うんですけど、だから、青山ミチ さんやら、(和田弘と)マヒナスターズ さんやら、いろんなビクターの方が歌ってらしたんですよ。でも、私は、なんにもわからないから、ただ、そこで 4日間やって、東京で TBS の番組を ひとつだけやったら帰っていいってことで、それで(京都に)帰ったんです。そしたら、そのあと、「正式に入ってくれ」ってなって、で、入ったんです。

 

ーー そうして、マイク真木 のグループ「ザ・マイクス」のメンバーとして正式加入することになり、東京に出た。

 

高田: はい。けど、(「ザ・マイクス」が)すぐに解散になったんです。東京に出る時に、みんなが新幹線の駅で「行ってこ〜い!」ってやってくれたんですよ。それなのに、それこそ 1年もたたないうちに、「マイクスはなくなるから、高田、もう(京都へ)帰れ」って言われて、もう「どうしよう〜」と思ったんです。

 

ーー 「ザ・マイクス」では、シングル『星空のマサチューセッツ』(1967年12月発売)の 1枚だけ参加したあと、解散となってしまった。

 

高田: はい、その 1曲だけです。それで、キャバレーとかもキャンペーンで行ってましたけど、フォーク・グループですから、キャバレーじゃ全然受けないんですよ。私は「ミニスカートはいてやってくれ」って言われてね、私が歌うとちょっと拍手が起きるんですけど、あとはもう全然受けないので……。

 

ーー 「ザ・マイクス」が解散してからは、新宿の店で歌ったりしていたが、1968年、『第一回 カンツォーネ コンクール』に応募したことがきっかけで、ソロ歌手への道が開けた。

 

高田: はい、「ザ・マイクス」がすぐに解散になって、それで、新宿で歌うようになって、最後に、コンクール(『第一回カンツォーネコンクール』)のポスターを見たっていう……、「もう、これでダメだったら(京都に)帰ろう」っていうのがあったもんですから。だから、そのコンクール(『第一回 カンツォーネ コンクール』)に受かってなかったら、本当に京都に帰ってました。「もう、どうせ受からないだろう」ってことで、下宿の片付けを手伝うために、姉が(京都から)来てましたから。

 

高田: だから、もともと、カンツォーネばっかり聴いてて、それで、途中からフォークが流行って「大塚孝彦とそのグループ」でフォークを歌って、そのフォークで マイク真木 さんに一応スカウトされて出てきて、そのバンドの「ザ・マイクス」が駄目になって、新宿で歌ってて、で、最後のアレだと思ってコンクールを受けに行ったんです。

 

高田: で、(カンツォーネ)コンクールでは、最初、1週間の予選で 24名が残ったんですよね。で、そのあと、24名から 10名が残ったんですけど、私としては、もうその 10名の中に入れていただいたから、もう思い残すことはないから、「これでもう(京都に)帰る」って決めてたんです。

 

高田: なので、本当に、私、1位になるなんて思っていなかったから、ステージで、「高田」って名前を呼ばれてたんですけど気がつかなくて、隣の人が「呼ばれてるの、あなたじゃないの?」って言われて、それで気がついたら、くす玉が割れてたっていう……、本当なんです。

 

ーー そうして、報知新聞社が主催の『第一回 カンツォーネ コンクール』で、高田恭子 は優勝した。

 

高田: あのね……、課題曲が 3曲あって、私は『愛は限りなく』(ジリオラ・チンクェッティ、伊東ゆかり、ほか)を歌ったんです。「プロ、アマ問わない」っていうコンクールだから、「銀巴里」で歌ってる人でもいいんですよ。ただ、レコードやら出してる人は駄目だったんです。あとで聞いたら、いわゆるレコード会社、東芝からデビューしてた人とか、プロダクションにいた人とか、音大を出た声楽のすごい人とかいて、なんにもないのが私だったって……、あとで、キングの人が言うてました……(笑)。

 

高田: なので、みんな、バンドさんの譜面を持ってて(コンテストの時、バンドのメンバーに)譜面を配ってるんですよ。でも、私は持ってないんで、いわゆる、ヤマハのピース(バンド用の楽譜)が 100円で売ってたんで、それを持って行ったんですよ。で、衣装も、みなさん、スゴかったですよ。私、高校の時のワンピース着て出てって……(笑)、雨降ってたんで、長靴履いてったんですよ……(笑)、で、長靴だけ普通の靴に履き替えて出ました。

 

高田: それで、その『第一回 カンツォーネ コンクール』で、『サンレモ音楽祭』を見せてくれるっていう副賞も付いてたんですよね。私、それも見てなくて、賞金10万円しか見てなくて……(笑)。なので、『サンレモ音楽祭』も行けたんです。(渡辺プロダクションの)渡邊美佐 さんとか、由美かおる さんもみえてた……、由美(かおる)さんもカンツォーネをしばらく歌ってたましたからね。



6 歌手引退から復帰、最新のヒット曲も聴く 〜「歌っていうのは、すごいことなんだな…」〜

 

 

ーー 1979年 9月21日に、19枚目となるシングル『今日の雨』(作詞:有馬三恵子 / 作曲:中村泰士)(1979年版)が発売され、その翌年、1980年(昭和55年)に、高田恭子は歌手を引退した。その後、完全に引退していたが、17年ぶりとなる 1997年、「夏の紅白」とも呼ばれる NHK『思い出のメロディー』の出演をきっかけに、再び、歌うようになった。

 

高田: はい、私も、ちょっと 1回お休みして、そのあと復帰したのが『思い出のメロディー』でした。『思い出のメロディー』さんは、お休みしている間に、もう何回も誘ってくださってたんですけど、最終的には、(同期の)「トワ・エ・モワ」さんが復帰なさるっていう回だったのと……。

 

高田: それと、『みんな夢の中』っていう 2時間ドラマ(関西テレビ 開局35周年 記念番組『みんな夢の中 ~ある偽ハマクラ伝~』1992年 12月)がね、玉置浩二 さんと、いしだあゆみ さんがやられてて、で、玉置浩二 さんはね、浜口庫之助 さんの大ファンで、ご自分でも『みんな夢の中』を(カバーして)歌ってくださってるでしょ。そういうのがあったり……。

 

高田: それと、そのあとに、鶴田真由 さんって綺麗な女優さんが、『ハイシー』のコマーシャル(武田薬品、タケダ『ハイシーL』TV CM、1994年)で『みんな夢の中』を歌ってくださったんです。それは、ウチの近所に住んでた広告会社の方がやられてたんですけど、最初は、違う曲だったらしいんですよ。もう、私が辞めてたときだったんですけど、その方が、私の『みんな夢の中』が好きで、「こんな歌もあるよ」って言ったら、『みんな夢の中』になったみたいなんです。そしたら、(TV コマーシャルの影響で)キングレコードの方にも問い合わせがあったらしいんですね。

 

高田: そういうことなんかがあって……、それとね……、浜口(庫之助)先生の七回忌(1993年)に呼ばれて、そのときに、(浜口庫之助の)奥様が、高橋さんっていう私のディレクターに「高田を絶対連れてこい」と言われたらしいんですね。そのとき、そんなとこに出るのは嫌だったんですけど、行きましたら、いっぱい先輩の方がいらしてたんですけど、そこで舞台に上げられたんですね。

 

高田: そしたら、大先輩のある歌い手さんに、「あんた、何それ、普通の格好して」って怒られたんですよ。「きついな〜」と思ってたんですけど……(笑)、そしたら、あとから、(浜口庫之助の)まゆみ奥様(渚まゆみ)から、「(石原)裕次郎さんも亡くなられたりして、だから、あなたの 浜口庫之助 の歌を、あなたの声で、もう 1回歌ってほしい」っていうお手紙をいただきまして、お写真と一緒に……。

 

高田: そこで、やっぱりすごい気持ちが動いて、「もうちょっとしたら 50(歳)になるけど、その 50 をどう自分で生きていくか?」と思ったときに、じゃあ、もう1回、私の原点である「歌う」ということに戻って、そして「もう 1回、イチからやってみよう」って思ったのが、なんかそういうきっかけにもなったんですけれども。

 

ーー その後は、そういうテレビ音楽番組やコンサートなどに呼ばれた時には歌うようになった。そして、今年、2024年に歌手デビュー 55周年を迎え、3月1日には、これまでに発売された シングル 19作と、アルバム 4枚の全収録曲が、全世界で配信された。

 

高田: あの……、私が、いまの(音楽)配信のことが、本当によくわからないんです……。スマホも、いっぱいできないこともあるので……(笑)。ですから、「配信される」っていうのを言ったときに、うちの甥やら姪の方が反応して喜ぶんですよ、「すごい、すごい、おばちゃんすごい!」ってことになりまして……(笑)。だから、今のときに、こういうふうにしてくださるっていうのが、本当にありがたいです。

 

高田: それと、私のときは、レコードでしたので、1枚だけ CD は出していただいてるんですけど、レコードとか CD じゃない元の音源があって、キングレコードさんでそういうふうに(配信を)やっていただいたっていうのが、なんかもう私にとっては、もう、こんな光栄なことないので、もう、なんて言うんでしょ……、「そちら向に足向けて眠れない」じゃないですけど、それぐらい本当にご恩を感じますしね。

 

高田: デビューするために一生懸命に歌手を目指したんですけど、その自分の歌を知っていただくっていうか、また、知っていただいた曲もあったっていうのが、本当に私は、なんか自分の進むべき道で歌を選んで、それでこうして 55年経ったときに、また音源を配信していただけるっていうことは、なんかもう光栄って言うか、なんかもう、どう御礼したらいいのかっていうような気持ちです。

 

高田: それと……、なんか、やっぱり、「歌っていうのは、すごいことなんだな」って思いますね。私、やっぱり、自分にいただいた歌は、みんな「いい歌」だと自分では思ってるんですね。本当に、いい先生方に作っていただいているので、それを、そのとき知っていただいた方と、また、今の若い方で、浜口(庫之助)先生もご存知ない方なんかにも聴いていただけて、「こういう歌があるんだよ」っていうのを知っていただいて、また口ずさんでいただけるようになれば、ちょっと「使命が果たせたかな」みたいな感じがします。

 

ーー 最近も、よく音楽は聴いていると言う。

 

高田: 聴きます。私ね、小椋佳 さんが好きなんです。だから、『愛燦燦』なんかも、(美空ひばり ではなく)小椋佳 さんの歌い方が、自分は好きなんです。あとは……、加藤登紀子 さんも好きですし、五輪真弓 さんも好きですし、髙橋真梨子 さんも好きですし……、あの、本当にすごいなぁと思うのは、そういう方たちなんですけど、やっぱり、そういう方たちの歌は好きですね。あと、岸(洋子)さんのカンツォーネなんかも聴かしていただいてますし、(伊東)ゆかり さんのなんかも聴かせていただいてます。

 

ーー 高田恭子 が歌手デビューしてから 55年の間には、たとえば、レコードから、CD、MD、配信と、音楽を取り巻く環境も大きく変わった。時代とともに、音楽の流行りも大きく変わってきているが、最近、再び、「昭和歌謡曲」や「80年代 シティポップ」、「ニューミュージック」や「フォーク」などが注目されていたりもする。

 

高田: いや〜……、難しいことはわからないんですけども……、いまの「YOASOBI」(ヨアソビ)さんやらも、素晴らしい音楽だと思うんですけど、私達のときだと、あの、いわゆる裏声的な声の出し方は怒られた時代だったと思います……、私達の昭和の時代っていうのは。だけども、すごい軽快なリズムと、あの方(「YOASOBI」ボーカルの ikura)の歌声が、非常に、今、マッチして、それでスーッと入ってくるっていうのが、やっぱり時代がすごく進化してるんだろうなって思います。

 

ーー 「YOASOBI」のような、最新の J-POP も聴いて知っていることに驚かされた。

 

高田: 聴きます。私、大好きです。他にも、名前がちょっとわからないんですけど……。あのね、やっぱり音で聴いたときにね、「うわっ、すごい!」とかね……。歌詞やら聴いただけでも、「この人、どんなプロポーズしたんだろう?」って思うような男の人の歌詞ってあるじゃないですか……、あの……「back number」(バックナンバー)さんとか。あの人が歌っている歌なんか聴くと、なんかの歌で、最後に「君に会いたい」とかってくると、「こんなん言われたら、みんなフニャフニャやな」って思うぐらい、いい歌詞じゃないですか……(笑)。だから、「いいな〜」って思います。本当に、好きです。

 

ーー 「YOASOBI」も「back number」も、普遍的なことを歌う歌詞がいいし、なにより、メロディが、昔からある昭和歌謡の香りがして耳に残る。

 

高田: なんか、フワ〜としてて、心地いいんですよね……、イヤじゃないんですよね。だから、今の若い方たちが聴いていらっしゃるんだろうな〜って思います。「あいみょん」さんなんかも、聴いた時に、「なんか、ウェスタン調なんだけど、すごくス〜ッって入ってくるな」とか、どなたも、みなさん素晴らしいですよね〜。あと、「Ado」さんもいいですね。あの人、歌詞もいいですね、素晴らしいと思います。

 

高田: だから、そういう時代の流れはあるけれども、やっぱり、その「音」とか「言葉」とかっていうものの違いはないのではないかなって……、時代の流れはあっても……、だからじゃないかなと思います。

 

高田: だから、そういう歌を聴いて大きくなっている人とか、それが、今、スーッと入る方にとって、「昭和歌謡がどうなのか?」っていうことになってくると思うんですけど……。でも、最近、若い方がね、「『河を野菊が』が、こんなバージョン(Another ver. 2012年))でもあったんですよ」「これだと、今の人には、すごく入りますよ」って言ってくださって、それで、エネルギーもらってね、何か希望が持てました……、ありがたいと思います、本当に。

 

ーー 今回、配信されたような曲を、コンサートで聴きたくもなる。

 

高田: そうですね〜、あったらいいんですけどね〜。前は、三田明 さんと、北原ミレイ ちゃんと、三善英史 ちゃんと……、ときたま 安倍理津子(旧芸名:安倍律子)ちゃんと、あと、平浩二 さんで、『昭和歌謡コンサート』とか『青春歌謡コンサート』とかを、三田明 さんからお話があって、三田(明)さんが中心でやってたんですね。平成20年代くらいまでは、結構、やったんですけどね。

 

高田: あとは、会社のパーティーやら、敬老の日のイベントやらもあったんですけど、コロナでなくなってしまいましたね。なので、ちょっと、ちっちゃなコンサートとか……、あと、町おこしをやってる友達もおりますので、そういうのからスタートして、なんとか歌い継いでいけたらな〜と思っております。やっぱり、そういう方が、画面で見ているよりも、やっぱり近くでね、聴いていただきたいですね。

 

ーー 『みんな夢の中』は、曲がいいのはもちろんだが、高田恭子の歌声がいい。高田恭子の歌声を聴いてみんな好きになり、ヒットして、今も歌い継がれている。『みんな夢の中』が心に残っている人は、高田恭子の声で覚えているから、だから、その声で聴きたいものだ。

 

高田: いや〜、そんなん言われたら、どうしましょ〜……、言われても、なんにも出ませんわ〜(笑)。でも、今後も、発声練習をがんばって、声がなるべく枯れないようにしたいと思っております。やっぱり、どうしても、声が枯れたり、細くなってくるもんですからね。やっぱり、浜口(庫之助)先生も、よく声のことは、おっしゃってましたですね。街で聴こえてきたそのときに、「"これは誰々の歌だな" って思えるってことが大切なんだよ」っていうのを浜口(庫之助)先生がよくおっしゃってました。

 

ーー 本人が歌う説得力には誰もかなわないし、年齢を重ねても、声の性質は変わらない。

 

高田: いやいや……、そんなことはごじゃりましぇ〜ん……(笑)。

 

(取材日:2024年 2月27日 / 取材・文:西山 寧)



 
 
 
■ 読者プレゼント!


高田恭子   直筆サイン色紙 を 3名様にプレゼント!
 
 
X(旧 twitter)で、大人の歌ネット(@MUSICGUIDE1003)を フォロー&下記リンクの投稿をリポスト(リツイート)して頂いた方の中から、抽選で3名様に、高田恭子さん が 持っている 直筆サイン色紙を プレゼントさせていただきます。締め切りは、2024年 3月31日 (日) まで!
 
【ご注意ください】
当選された方には、x(twitter)の DM(ダイレクトメッセージ)にて、ご連絡させていただきます。
(せっかくご当選されたのに連絡の取れない方がいらっしゃいます。)
 
また、「大人の歌ネット @MUSICGUIDE1003」を名乗る偽アカウントからプレゼント当選のDMが送られてくる事例が発生しています。
公式アカウントは「@MUSICGUIDE1003」です。
締切前に、当選者を決めたりご連絡することはありません。
DMでアカウント登録やクーポンを配信することはありません。
偽アカウントからDMが届いても、個人情報を入力したり、リンクをクリックしないで下さい。