第4節 工場の新増設

第2項 月産10万台を目指して

高岡工場、東富士工場、三好工場の建設

トヨタはカローラを量産し月産10万台を達成するため、乗用車専門工場として高岡工場の建設を決定した。1965(昭和40)年5月、工場用地として愛知県の高岡町(現・豊田市)、三好町(現・みよし市)、刈谷市にまたがる丘陵地帯約125万m2の買収を開始し、1同年12月に野口正秋取締役を委員長とする高岡工場建設委員会を設置した。翌1966年1月、次のような方針のもとに建設工事を開始した。

  1. 1.工場規模は、月産2万台とする。
  2. 2.生産対象車種は新型大衆車(カローラ)とする。
  3. 3.将来、プレスから総組立までの一貫した工場とする。

高岡工場は、プレス工場から総組立工場までの乗用車製造工場としてレイアウトし、第1期工事完成時の生産能力を月産1万6,000台2とし、増産テンポに合わせて逐次、工場を拡張するものとした。

1966年9月に第1期工事が完成し、車体工場、塗装工場、組立工場、さらに2,300mのテストコースもでき上がり、完成式典が同年12月に行われた。3

車体工場ではボデー溶接工程に、ウェルディングプレスを多数導入した。組付工程には、環状式のコンベヤーに乗って次々に運ばれる治具台車上でボデー溶接を行うループ・ライン方式を採用し、組付作業の能率と精度が大幅に向上した。

塗装工場には、最新鋭の自動塗装装置を採用した。より滑らかなで光沢のある均一な塗装、防錆性の向上、作業性の向上、原価低減などを目的とした新技術を導入し、電気泳動塗装(電着塗装)、静電塗装と新方式の上塗工程を組み合せた方式を初めて採用した。

また、生産管理面では電子計算機を用いたオンライン・コントロール・システムを初めて導入し、中央コントロール室から塗装工場、組立工場での作業指示を行い、納入部品の在庫状況や設備の稼働状況なども集中管理した。

1966年秋の発表以来、カローラは好調な売れ行きを示し、カローラの生産が追いつかなくなった。そこで、1967年7月、第1組立工場の南側に新たに第2組立工場の建設を開始し、翌1968年1月に完成させた。この第2組立工場は、メーンボデーライン以降のボデー溶接ラインおよび塗装・組立ラインからなる。また、既設のプレス工場を拡張し、ボデー工場も1968年3月に拡張した。

1960年代(昭和30年代後半)からの本格的なハイウェー時代に対応して、自動車に要求される高速走行性能と信頼性は、一段と厳しくなった。このためトヨタは、高速テストコースと十分な実験研究施設をあわせ持つ工場の用地として、広大な土地を探し求めた。現在の静岡県裾野市に200万m2の土地の手当てがついたのは、1965年6月であった。

直ちに第1期工事を開始し、翌1966年11月に自動車性能試験場、1967年3月に乗用車組立工場が完成し、5月10日に完成式典を行った。4この東富士工場では、当面の生産車種を従来から関東自動車工業が生産していたトヨタスポーツ800などとし、工場での生産を関東自動車工業に委託した。自動車性能試験場の高速テストコースは、周回路3.7km、水平直線路1.3kmの規模を有し、曲線部分も含めた全コースに継ぎ目のないアスファルト舗装を採用した。5

月産10万台の生産体制が整うなかで、さらに乗用車専門工場の生産性を高め、量産体制をいっそう強化するため、機械加工専門工場の建設を決定した。1967年5月、元町・高岡工場の両工場に近い愛知県西加茂郡三好町(現・みよし市)打越に、新工場建設用地として約30万m2の土地を確保した。

一方、同年3月、石原康正部長を委員長とする三好工場建設委員会を設置し、乗用車系の足まわり部品と小物部品のサブアッシーを集中生産する機械工場の建設計画をまとめ、9月に第1期工事に着手した。翌1968年3月以後、順次、稼働を開始し、同年7月に完成式典を挙行した。第1機械工場は、ステアリング、プロペラシャフトの加工・組付を集中して行い、第2機械工場では、冷間鍛造によりピストンピンや特殊ボルトをはじめとする小物部品を量産することになった。

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