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なぜ、村を売ったと中山村長につめよる村民たち(昭和27年11月30日)
林屋・伊関氏ら政府代表が金沢駅前で立往生(昭和27年11月27日)
昭和24年から32年にかけて、現在の内灘砂丘の向粟崎地区から宮坂地区の海岸線がアメリカ軍の砲弾試射場に供用されることになりました。
しかし、計画当初から内灘全村で接収反対運動が起こり、国への陳情も行われるなど、政治的な思惑もからんで全国的な運動へと展開して行きました。この闘争は文学や映画などでも取り上げられ、内灘の名を広く全国に知らしめる出来事となりました。政府は期限付きで試射場としての使用を許可しましたが、村を二分する反対運動の末、試射場は撤収され、騒ぎも収束していきました。現在、当時を偲ぶことが出来る監視棟の建物が内灘海岸浜茶屋軒のそばに、また着弾地観測棟の建物が権現森海岸に建っています。
参考:内灘闘争資料集/内灘闘争資料集刊行委員会より