958年(天徳2年)に古代日本が最後に発行した乾元大宝(けんげんたいほう)以降、日本の正式な銅貨は長く作られることはありませんでした。寛永通宝(かんえいつうほう)は、それから650年以上ものブランクのあとに誕生した銅銭です。
すでに1601年(慶長6年)から作られていた慶長の金貨・銀貨に続き、1636年(寛永13年)に寛永通宝の鋳造が開始されました。この銅貨の登場で、日本独自の貨幣システム・三貨制度(さんかせいど)が確立。それぞれの貨幣が流通するようになり、庶民の日常生活に三貨は、欠かせない物となっていきました。
円形コインで、中心部に正方形の穴があいており、表面には穴を囲み上下右左の順に「寛永通宝」の4文字が刻まれています。硬貨の主な素材は、銅以外に、鉄、精鉄、真鍮(しんちゅう)など。金銀貨と共に改鋳され、産業・経済・幕府財政など、当時の事情によって重さや貨幣の質が変わりました。一文銭(いちもんせん)の他に、裏面に波のデザインが施された四文銭も。ちなみに、初鋳時には1文(もん)で餅1個を買うことができました。
寛永通宝の誕生から終焉までの流れをご紹介します。
永楽銭(えいらくせん)や鐚銭(びたせん:粗悪な私鋳銭[しちゅうせん])などは、江戸幕府ができるより前に銭貨として使われていました。
そこで幕府は、まず金座・銀座を設置して金銀貨の発行と流通を優先します。鐚銭のみを標準貨幣として使用することに決めて、とりあえず三貨を整え、全国の流通貨幣のコントロールを目指したのです。
当時は流通銭貨の絶対量の不足が問題となっており、新しい銅貨を作る必要がありましたが、それにはしばらく、原材料である銅の入手などの準備が必要でした。
1626年(寛永3年)常陸国(ひたちのくに)水戸(現在の茨城県水戸市)の商人が、銭貨不足の対策として寛永通宝という銅貨を作りました。幕府と水戸藩から許可を得ていましたが、あくまで水戸藩内での私鋳銭。しかし、これがのちの幕府による公式貨幣の先駆となりました。
そしてついに1636年(寛永13年)、幕府は通貨として寛永通宝を正式に採用。以降、明治元年に至るまで、原材料やサイズを変えながらも鋳造を重ね、長く存続しました。
寛永通宝は江戸幕府がなくなり、明治政府が誕生したあとも補助貨幣として使用されました。1871年(明治4年)の新貨条例の発令以降は、「圓・銭・厘」(えん・せん・りん)を単位とする新通貨体制のもとで1厘の価値を持って存続。1873年(明治6年)に貨幣としての資格を失い、最終的に運用停止となったのは1953年(昭和28年)です。
時代によって変化した貨幣の硬貨の素材や質、価値、発行した当時の社会における経済状況の変遷などを見ていきます。
1枚1文の値打ちを持つ銅銭です。
二水永(にすいえい)は、幕府と水戸藩に許可された水戸藩領内の豪商が鋳造。貨幣に刻まれた寛永通宝の「永」の文字が「二水」と書かれたように見えたことから、このように呼ばれました。この段階では、まだ幕府の公鋳銭ではありません。
古寛永(こかんえい)は、江戸幕府初の公式銭貨・寛永通宝です。江戸橋場(現在の東京都台東区橋場)と近江国(おうみのくに)坂本(現在の滋賀県大津市坂本)に銭座(ぜにざ)を設けて鋳造を開始。他にも幕府の許可を得た諸藩が製造しています。銭が普及すると、1638年(寛永15年)に1貫文(いちかんもん:1,000文)=銀23匁(もんめ)前後だった相場が、銀16匁にまで下落。1640年(寛永17年)には作られなくなりました。
下落の理由は、以下が挙げられます。
そののち、相場が銀18匁まで戻ったため、1656年(明暦2年)に再び発行を始めました。
寛文年間(1661~1673年)は、日本の銅の産出が増え、「文銭」と呼ばれる良貨が多く作られました。これにより幕府は市場を新しい通貨で統一することに成功します。
この時代は、江戸幕府が第5代将軍である「徳川綱吉」(とくがわつなよし)などの散財による赤字財政、金銀の産出量の低下や海外流出に悩んだ時代でした。
そこで勘定奉行の「荻原重秀」(おぎわらしげひで)が、金銀の質を下げて発行すると、銭の値が急上昇。さらに、経済発展の影響もあって幕府は初の銭貨不足に陥り、1匁(約3.7g)の銅一文銭の質量を7分(約2.6g)に下げた薄く小さな銅銭を鋳造します。これらは「荻原銭」(おぎわらせん)と呼ばれました。
続く正徳・享保年間(1711~1736年)は、金銀貨が良貨に改鋳された機会に、銅銭の質も復活させて鋳造。しかし、1737年(元文2年)に質を落とした金銀が発行されると、再び銭貨の値が上がり、元文~明和年間(1736~1772年)には日本各地で大量の銅貨が作られ、小型化しました。
銅が足りないという資源問題を抱えながら、銭貨の状況を落ち着かせたい幕府は、鉄を素材とした硬貨を発行します。しかし、粗悪な質の硬貨は「鍋銭」(なべせん)と呼ばれて不評でした。しかも、安政年間(1855~1860年)に発行された鉄の一文銭1枚を作るには、4文のコストがかかっています。幕府は当時流通させていた四文銭や天保通宝(てんぽうつうほう:貨幣価値1枚100文)を維持するために、赤字を承知で鋳造していたのでした。
鉄銭の劣悪な質を非難する声が大きくなり、新たな硬貨が生まれます。それはのちの勘定奉行「川井久敬」(かわいひさたか)の提案で作られた、一文銭より少し大きな真鍮製の4文硬貨。貨幣の裏にある波の模様から波銭(なみせん)と呼ばれました。
この硬貨の出現以来、物の値段に16文、24文などの4の倍数が多く用いられるようになります。4文均一で商品を売る「四文屋」(しもんや)が出現したことからも、真鍮四文銭は広く使われました。
4文の価値を与えられた鉄銭。不評だった過去の鉄銭の経験を踏まえ、幕府は精錬した鉄を用いたことを強調しましたが、良い評判は得られませんでした。鉄銭の発行益はマイナスとなり、多く発行されないまま終了。代わりに、もっと重さを減らした銅で、四文銭の「文久永宝」(ぶんきゅうえいほう)が鋳造されました。
650年以上の長い時を経て作られた日本の銅銭、寛永通宝を発行した理由は江戸時代の参勤交代だったと言われています。大量の武士が移動するためには各宿場町で彼らが使う少額貨幣が足りませんでした。こうして作られた銅銭には、江戸時代で最初に鋳造された年の年号から寛永通宝が名付けられます。この貨幣の登場により、日本の貨幣が統一され、庶民の日常生活に浸透していくこととなりました。その通貨は幕末まで続けられる中、素材や質が変わることがあっても300年以上も引き継がれ、昭和の時代まで生きた通貨です。