安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将「古田重然」(ふるたしげなり)に聞き覚えがない人も、茶の湯を大成した茶人「古田織部」(ふるたおりべ)にはピンと来るかもしれません。「古田織部(古田重然)」は、「千利休」(せんのりきゅう)の弟子として茶の道に精進し、茶器や会席具、作庭に至るまで、「織部好み」とも称される茶の湯の流行を作り上げた人物です。形や模様の斬新さで知られる陶器「織部焼」も、古田織部(古田重然)の指導により誕生しました。近年は、「へうげもの」と言う人気漫画の主人公として登場し、その名を目にする機会が増えているでしょう。ここでは、千利休の後継者と目された一方で権力者の勘気を被り、無念の死を遂げた古田織部(古田重然)の生涯や逸話、茶人としての活躍などをご紹介します。
古田織部(古田重成)は、1544年(天文13年)に美濃国(現在の岐阜県南部)に生まれたと言われています。
父「古田重定」(ふるたしげさだ)の跡を継いで武人として歩み始めた頃は、「古田重然」と名乗りました。親子共に美濃の守護大名・土岐家に従属していましたが、織田信長の美濃平定時より、織田信長に従うことになります。
その後も、織田信長が上洛する折に従軍し、「摂津攻略」などにも参加しました。
織田信長の死後は、親子そろって豊臣秀吉の家臣となり、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で軍功を挙げるなど、武人として活躍。豊臣秀吉が関白になったのち、1585年(天正13年)には、「織部」の名の由来でもある「従五位下織部正」(じゅごいげおりべのかみ)に任ぜられ、京都付近の西ヶ岡に3万5,000石を与えられています。
古田織部(古田重然)は、豊臣秀吉の九州平定や小田原征伐などにも参加し、1592年(文禄元年)の「文禄の役」(ぶんろくのえき)では、肥前(現在の佐賀県と長崎県)の名護屋(なごや)に下りました。豊臣秀吉の最晩年には、「御伽衆」(おとぎしゅう:話し相手)のひとりに加えられています。
古田織部(古田重然)は、豊臣秀吉亡きあと、1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で、徳川家側である東軍として参戦。戦後処理では、徳川家康より1万石を与えられ、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」の茶道指南役も務めました。しかし、1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」において、古田織部(古田重然)と家臣が豊臣方へ内通していたとの嫌疑が掛かり、大坂城落城後に切腹させられてしまいます。癖のある天下人、3人に仕えた古田織部(古田重然)は、柔軟性の高い人柄であったと見受けられます。
しかし、先に豊臣秀吉に切腹を命じられ、命を散らしていた師、「千利休」の反骨精神を継承し、江戸幕府の意向や方針を無視することも多かったと言います。武将としての功績に加えて、千利休の後継者・茶の湯の大成者として、朝廷や大名、商人など、多方面につながりを持っていたことも、江戸幕府にとっては脅威だったのです。享年71歳。
古田織部(古田重然)は、「かくなる上は、申し開きも見苦し」と、一言の弁明もせずにこの世を去ります。さらに息子4人も自害、または処刑され、古田家は断絶となりました。
古田織部(古田重然)は、千利休の後継者、「利休七哲」のひとりであり、千利休没後は、豊臣秀吉の庇護の下、「武家茶道」の確立に注力。古田織部(古田重然)は、「織部流」を大成します。
千利休の後継者と目されるようになった経緯や茶人としての功績、現在にまで伝わる織部流について解説していきます。
古田織部(古田重然)と千利休は、1582年(天正10年)頃より親交があったと言われています。やがて古田織部(古田重然)は、「前田利家」(まえだとしいえ)、「蒲生氏郷」(がもううじさと)、「細川忠興」(ほそかわただおき)、「牧村兵部」(まきむらひょうぶ)、「高山南坊」(たかやまなんぼう)、「芝山監物」(しばやまけんもつ)らとともに「利休七哲」、つまり千利休の高弟のひとりに数えられるほど成長したのです。
また、千利休が送った書状に子弟の揺るぎない絆、そして古田織部(古田重然)の人間性が見えるエピソードが記されています。1591年(天正19年)の2月、千利休が豊臣秀吉の怒りを買い、堺での蟄居(ちっきょ:自室などに閉じ込める刑罰)を命じられました。
親交があった多くの人々、弟子が豊臣秀吉を恐れて連絡もせずにいた中、古田織部(古田重然)と細川忠興の2人は、淀の船着き場まで千利休の見送りに出向いたのです。豊臣秀吉に発覚すれば、改易や切腹の危険性がある状況にもかかわらず、師を思うふたりの行動は、千利休をも感動させました。
この2週間後、千利休は豊臣秀吉より切腹を命ぜられます。古田織部(古田重然)は千利休が切腹する際も、豊臣秀吉へ助命嘆願を行いますが、結局、千利休は切腹することとなります。
古田織部(古田重然)は、千利休亡き後、茶の大成者として豊臣秀吉に認められ、天下一の宗匠と称されるようになります。また、豊臣秀吉は、古田織部(古田重然)に武家としての茶道の大成を命じ、古田織部(古田重然)は「織部流」を確立しました。
織部流の特徴は、千利休に倣って「侘」を基調としながら、自由闊達で豪奢、大胆で奇抜、斬新な美を追求している点です。また「織部流」は、千利休の「侘び茶」が私的であったことに対し、武家の儀礼にも用いられる、公的な茶の湯として昇華。清潔を何よりも重んじ、茶器の飲みまわしを行わず、道具も畳に直接置かない、などの違いがあります。
また、左右対称であることを良しとした千利休とは異なり、「へうげもの」(ひょうきんもの)と呼ばれるような歪んだ茶碗にも美を見出す奇抜な美的感覚は、「織部好み」と呼ばれ、一世を風靡しました。
しかし、織部好みは、千利休が古田織部(古田重然)に伝えた「人と違うことをせよ」という言葉を体現したからこそ生み出されたと言えます。一見、茶の湯の真髄「わびさび」とは対照的とも取れますが、根本には師である千利休が大成した茶の湯をしっかりと汲んでいるのです。
古田織部(古田重然)は、豊臣秀吉の茶頭(さどう:茶事を司る頭)として活躍し、1596~1615年(慶長年間)という日本史上最も絢爛豪華な桃山文化に、さらなる彩を添えたのです。また、茶の湯を通じて多種多様な実力者ともつながりを深めました。古田織部(古田重然)の弟子には、「遠州流」茶道の祖「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)、奥州の覇者「伊達政宗」(だてまさむね)、江戸時代を代表する芸術家「本阿弥光悦」(ほんあみこうえつ)など、後世に名を遺す武人や文化人がたくさんいるので、その影響力の大きさが類推できます。
自由闊達で豪奢ながら、折り目正しい趣を良しとする「織部流」は、茶の湯道具はもちろん、茶室や作庭にも及びます。
古田織部(古田重然)は、特に作陶について、国を挙げた産業にするために奔走し、美濃に茶の湯に必要な道具類を制作する体制を整えました。多数の職人や陶工を抱え、その指導にあたる中で「織部焼/織部茶陶」が誕生したのです。
桃山時代の織部焼は、力強さとどこにもない個性的なデザインが魅力で、「日本一の織部」とも称されています。安土桃山時代は、政治、経済、文化面で多大な変化があった時代であり、その世情を映すかのように、力強いエネルギーを感じさせる作品が多く残る、日本陶磁器の黄金期1952年(昭和27年)に第1回無形文化財有資格者として認定された現代陶芸の第一人者「加藤唐九郎」氏は、「利休は自然の中に美しさを見つけたが作り出した者ではない。織部は美しさを作り出した。つまり、陶器を芸術としたのは織部である」という言葉を残しています。
現在で言う「茶の湯プロデューサー」として、大胆かつ斬新な「織部流」を生み出した古田織部(古田重然)。その血脈は、切腹後に子ども達も自害または処刑されたことで途絶えました。
しかし、武人・茶人としての古田家が途絶えたあとも、古田織部(古田重然)の教えは、「式正織部流茶道」として延々と受け継がれていきます。既存のデザインに満足せず、大胆かつ斬新な表現を好んだ古田織部(古田重然)の精神に、茶道を通して触れることができるのです。
新たな美を追求し続けた茶人としての探求心と、天下人に仕えつつ、権力の側に付くことを良しとしなかった武将としての信念。古田織部(古田重然)は、希代の茶人大名として後世に偉大な功績を残しました。
【東京国立博物館「研究アーカイブス」より転載している作品】
- 友信「織部獅子鈕香炉」