平安時代中期から後期にかけて大変な栄華を誇った奥州藤原氏の4代目当主で、最後の当主となった「藤原泰衡」(ふじわらのやすひら)は、奥州藤原氏を滅亡させてしまったことや、戦の天才「源義経」(演:菅田将暉)を死に追いやったことにより、愚将や暗君という印象が強い人物です。しかし、実際の藤原泰衡は、奥州藤原氏の存続を一心に考える当主であったとされています。2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、「山本浩司」(やまもとひろし)さんが演じており、鎌倉からのプレッシャーに苦悩する姿を好演しました。
「藤原泰衡」は、1155年(久寿2年)に奥州藤原氏3代目当主「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)の次男として誕生したとされている、奥州藤原氏4代目当主です。奥州藤原氏は、現在の岩手県南西部に位置する「奥州平泉」を拠点に、東北地方を支配した勢力。
父・藤原秀衡の代に全盛期を迎え、京にも、鎌倉にも属さない独立国として存在し、「源平合戦」では「源頼朝」(みなもとのよりとも)や庇護をしていた「源義経」(みなもとのよしつね)の要請に従わず、中立を貫きました。
奥州藤原氏は、鎌倉幕府成立後も独立した政権と文化を保持していましたが、奥州平泉を下位に付けたいと考える鎌倉は、これまで奥州藤原氏が京へと直接献上していた金や馬の仲介を申し出るなど、本格的に取り込もうとしてきます。さらに、藤原秀衡が源頼朝に追われる源義経を匿ったことで、奥州藤原氏と鎌倉の対立は避けられないものとなりました。
そんな折、3代当主・藤原秀衡が死没。藤原泰衡は、異母兄に「藤原国衡」(ふじわらのくにひら)がいますが、藤原泰衡の母が正室であったことから、藤原秀衡の遺言に従い、藤原泰衡は嫡男として1187年(文治3年)に家督を相続しました。
異母兄とは仲が悪かったとされており、異母兄との仲を案じた藤原秀衡は自らの死後、藤原国衡を自らの正室、つまり藤原泰衡の生母と婚姻させることで兄弟間の衝突を回避し、奥州藤原氏の内部を強固なものにしようとしたのです。
また、遺言には、源義経を奥州平泉の大将軍に擁立し、鎌倉からの攻撃に備えよともあり、平安時代後期から鎌倉時代初期の記録「玉葉」(ぎょくよう)によると3人の結束を強めるために、藤原泰衡・藤原国衡・源義経の3人に起請文(きしょうもん:契約を交わす際に、決して破らないことを神仏に誓う文書)を書かせたとされます。
奥州藤原氏と冷戦状態にある鎌倉は、朝廷に対し義経追討の宣旨(せんじ:天皇の命令を伝達する文書)を下すよう奏上(そうじょう:天皇に意見や事情を申し上げること)するなど、源義経の討伐を奥州藤原氏へ再三にわたって要求。
藤原泰衡ははじめ、父の遺命に従い固辞していましたが、鎌倉は奥州追討の宣旨まで朝廷へ要請するようになり、鎌倉からの圧力は日に日に増大していきました。
このプレッシャーに耐えかねた藤原泰衡は1189年(文治5年)、源義経が起居していた衣川館を襲撃。自害へ追い込むと、源義経の首を鎌倉へ送り、奥州平泉の平穏を護ろうとしました。
しかし、このときの源頼朝の目的は源義経の追討ではなく、鎌倉幕府を脅かしかねない強大な勢力を誇った奥州藤原氏の殲滅でした。源頼朝は奥州藤原氏に対し、「源義経を長年匿ってきたこと」と、「許可なく源義経を討伐したこと」を理由に奥州征伐を決行。鎌倉勢の大軍を前に奥州藤原氏はわずか3日ほどの戦いののちに敗走し、栄華を誇った奥州藤原氏の邸宅群はすべて灰燼(かいじん)に帰すこととなりました。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」(あづまかがみ)によると、藤原泰衡は源頼朝へ助命嘆願を行ったとされますが、源頼朝はこれを黙殺。藤原泰衡は北海道へ落ち延びようと北方へ向かいますが、道中に頼った郎党(従者)「河田次郎」(かわだのじろう)に裏切られ、殺害されました。河田次郎は藤原泰衡の首を源頼朝のもとへ届けましたが、源頼朝は主の恩を忘れ誅殺することは八虐の罪にあたるとし、河田次郎は斬首されています。藤原泰衡の首は眉間に八寸の釘を打ち付け、柱にかけられたとされ、その後、父・藤原秀衡の首と共に「中尊寺金色堂」(岩手県西磐井郡平泉町)に納められました。
現在、奥州平泉の中尊寺金色堂には、藤原泰衡の首のミイラが納められています。しかし、この首のミイラは長い間、藤原泰衡の異母弟「藤原忠衡」(ふじわらのただひら)の首と考えられていました。
藤原忠衡は、源義経や父の遺言を裏切り、源義経を死に追いやった藤原泰衡に対し、父の遺言を護り、源義経の保護を強く唱えて対立し、誅殺された人物です。
中尊寺にある首が藤原忠衡の物だとされていたのは、英雄視された源義経に同情する「判官贔屓」(はんがんびいき)の影響とされています。
藤原泰衡の首は、眉間に打ち付けられた八寸釘の痕がある他、15ヵ所の切傷や刺傷が存在しています。右側頭部に何ヵ所か見られる傷は、首を落とす際の失敗で付けられたものとされている他、耳や鼻が削がれたり、眉間から鼻筋を通り、上唇まで切り裂かれていたりしているのです。なぜここまでひどい傷跡が残されているのか、詳しいことは分かっていませんが、傷には縫合の痕があり、葬られる際には近しい人物により手厚く扱われています。
なお、中尊寺の蓮池に咲く蓮は、藤原泰衡の首が入っている首桶から発見された蓮の種子を発芽させたものであるという話は有名です。
1950年(昭和25年)に行われた開棺調査において、藤原泰衡の首桶から100個ほどの蓮の種子が発見され、1995年(平成7年)に発芽に成功。2000年(平成12年)には開花し、「中尊寺蓮」、または「泰衡蓮」と称され、境内の池で見ることができます。