「本多忠勝」(ほんだただかつ)と言えば、徳川家康の側近として、江戸幕府樹立に貢献した「徳川四天王」のひとり。四天王の中でも、屈指の剛勇の者として知られています。そんな忠勝が戦場で手にしていたのが槍。長さ2丈(約606cm)、刃長1尺4寸4分5厘(約43.7cm)の「蜻蛉切」(とんぼきり)は、家康の「守護槍」とも言うべき存在。また、晩年に入手したと言われているのが「中務正宗」(なかつかさまさむね)でした。この2振は、忠勝の生き様も映し出している名刀です。
この川柳は、蜻蛉切を手にした忠勝の勇猛な姿を詠んだ物だと言われています。1572年(元亀3年)に勃発した「一言坂の戦い」(ひとことざかのたたかい)では、忠勝らが偵察で先行した際に、「武田信玄」率いる武田軍本隊と遭遇。家康に報告するために撤退したところを武田軍が追撃。そのとき、忠勝は「大久保忠佐」(おおくぼただすけ)と共に殿(しんがり:軍の最後尾で敵の追っ手を食い止めること)を務め、家康本隊を逃がす大役を果たしたのでした。
また、織田・徳川連合軍が武田軍に敗れた、同年の「三方ヶ原の戦い」では、夜襲で敵を混乱に陥れるなどの武功を挙げました。さらには、1575年(天正3年)「長篠の戦い」などにも参戦。これらの戦いを通じて見せた忠勝の奮闘ぶりは、敵味方を問わず賞賛されたのです。
蜻蛉切は、日本史上もっとも大きなクーデターの直後にも登場しました。1582年(天正10年)の「本能寺の変」。織田信長が明智光秀によって自害に追い込まれた大事件です。その際、家康は、少数の随行者らと堺に滞在。忠勝は、取り乱して自害を口にした家康を諫め、堺から伊賀の山道を抜ける「伊賀越え」によって、本拠地・三河まで無事に帰還を果たしたと言われています。その際、忠勝は蜻蛉切を持って一行を先導したとされており、この槍は、家康の天下人への道を切り開いたと言えます。1584年(天正12年)、家康と豊臣秀吉との直接対決「小牧・長久手の戦い」でも、わずか500騎ほどの部隊で数万以上とされる秀吉軍と対峙。その立ち振る舞いに、秀吉も「日本第一、古今独歩の勇士」と舌を巻かざるを得ませんでした。
そんな剛の者・忠勝にも衰えはやってきます。「関ヶ原の戦い」の翌年(1601年)、初代藩主として着任した桑名でのこと。河原で槍の稽古をした忠勝は、桑名城に帰ると槍の柄を3尺(約90.9cm)切り詰めさせたのです。家臣にその理由を問われた忠勝は、こう言いました。「道具は自分の力に合った物でなければならない」。このとき、忠勝54歳。戦国時代から数々の武功を挙げてきたさしもの猛将も、自らの衰えを実感したのかもしれません。
これは忠勝の辞世の句。意味は「死にたくない、ああ死にたくない、死にたくない、深い恩義のある主君(家康)を思えば」です。この句が表しているように、忠勝の主君・家康に対する忠誠心は、非常に強い物があります。
戦国時代には、幾度となく戦場に出ても傷ひとつ負わなかったと言われるほど、無類の強さを誇った忠勝でしたが、関ヶ原の戦いが終わり、乱世は収束に向かっていました。平和な世の中で求められるのは、文治に優れた人材。家康や二代将軍「徳川秀忠」の側近にも、そういう人物が登用されるようになっていたのです。自身の健康問題などもあり、忠勝は、幕府の中枢から遠ざかっていったのでした。
このように、晩年の忠勝は不遇な扱いでした。しかし、そんな状況であっても、辞世の句で家康への忠誠心を詠み込むなど、主君への思いが変わることはなかったのです。のちに家康に献上された中務正宗の刃表には、忠勝の所持を示す「本多中務所持」の名が切られています。忠勝は、自らの名前が切られたこの日本刀を贈ることで、家康に最後の忠誠を示したのかもしれません。
※ただし、刃裏に金象嵌にて「正宗 本阿(花押)」とある。