京都にある「金閣寺」は、現代においても有名な建物です。公家文化と武家文化が融合した華やかな北山文化の象徴として、国内外の人が観光で訪れています。この金閣寺を建立した足利義満の経歴と、彼が所持したと伝えられる日本刀をご紹介します。
義満は、室町幕府2代将軍の父・義詮(よしあきら)の死後、10歳という若さで3代将軍になります。その時代はまさに「南北朝時代」。天皇が政治を行なう朝廷が「南朝」と「北朝」に分裂した状態だったのです。
これをひとつに統一しないと、幕府と将軍の力が強くならないと考えた義満は、勢力があり実力者だった「守護大名」(地方を治めている領主)に協力を要請。その結果見事、南北朝の統一を成功させたのです。
これにより弱かった幕府の基盤を建て直し、権力を確立し、室町幕府を全盛期へと導きました。
その後、まだ9歳の息子・義持(よしもち)に将軍職を譲り、朝廷の最高職「太政大臣」(だいじょうだいじん)に就任するも1年で辞職。翌年37歳で出家し、隠居生活を始めます。
隠居と言っても、ひっそり静かに暮らす訳ではありません。ここから義満第2の人生がスタートします。
まず、北山に別荘として「金閣寺」(鹿苑寺:ろくおんじ)を建立します。この金箔(きんぱく)を施した豪華絢爛な金閣寺を中心に北山文化が華開きました。水墨画や能面彫刻、観阿弥・世阿弥(かんあみ・ぜあみ)親子による田楽や猿楽の完成、「太平記」の成立など様々な芸術を広く発展させ、さらに義満の長年の夢だった隣国の「明」(みん:現在の中国)との「勘合貿易」(かんごうぼうえき)で、巨額な利益を収めることができたのです。
室町幕府を開いた祖父の足利尊氏・父の義詮も成し得なかった南北朝の統一、日明貿易で財産を築き、北山文化を発展させ、政治的にも文化的にも義満は優れた人だということが分かります。
御賀丸久国(おんかまるひさくに)は、足利義満から山名宗全に、山名から家臣の太田垣宗近、太田垣没落後は豊臣秀吉、信長、徳川将軍家へと伝わった物で、残念ながら享保年間(1716~1736年)以降に焼失したとされる太刀です。
銘にある「粟田口久国」(あわたぐちひさくに)は、粟田口派の祖・粟田口国家の子。後鳥羽院(在位:1183~1198年)の御番鍛冶(ごばんかじ:1ヵ月交替で院に勤務した刀職人)となり、その中でも師匠格の「師徳鍛冶」に任ぜられた刀工。
現存していないため見ることはできませんが、日本刀に深い知識があり精通していた後鳥羽院に認められた久国が作刀した物であり、刀剣において特に姿が優れている「名物」と称されていることから、とても美麗な物だったと思われます。
また「御賀丸」(おんがまる)という名は「奥御賀丸」(おくおんがまる)に由来。奥御賀丸は室町時代の僧であり、出家した義満の寵童(ちょうどう:寵愛を受けた少年)のひとり。大和国(現在の奈良県)の東寺領平野殿荘(とうじりょうひらのどののしょう)などの代官を務め、1407年(応永14年)和泉(現在の大阪府)守護となったと伝えられています。
名物 | 種類 | 刃長 | 所蔵・伝来 |
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御賀丸久国 | 太刀 | 2尺4寸4分半(74.1cm) | 焼失 |
薬研藤四郎(やげんとうしろう)は、もとは足利義満が身に付けていた短刀。義満と山名氏の内乱「明徳の乱」(1391年)直後の成立とされる「明徳記」では、足利義満所持と伝えられています。しかし、13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)を暗殺した松永久秀(まつながひさひで)により奪われます。
ところが松永は、1573年(元亀4年)織田信長に忠誠を誓い「不動国行」(ふどうくにゆき)と一緒にこの短刀を献上。その後、豊臣秀吉に献上され、息子の秀頼が秘蔵しましたが、1615年(元和元年)5月の「大坂夏の陣」で大坂落城後に行方不明。しかし、河内の農民が拾い、それを本阿弥又三郞(ほんあみまたさぶろう)が入手し、金100両にて家康に献上。その後もまた行方不明となっています。秀吉・秀頼親子に伝わったのは、複数の文献から確認できていますが、江戸時代まで伝わっているかどうかは確実ではありません。
銘にある「粟田口藤四郎吉光」(あわたぐちとうしろうよしみつ)は、鎌倉時代中期の刀工で、粟田口久国のひ孫にあたります。短刀作りの名手として知られ、豊臣秀吉により正宗(まさむね)、郷義弘(ごうのよしひろ)と共に「天下の三名工」と称された高い技術を持った職人です。
このように名立たる武将がこの短刀を奪い手に入れ、秀吉に名工とうたわれ、秀頼が宝物のように大事にしていたとあることから、こちらも貴重な1振だったと考えられます。
また、名前にある「薬研」(やげん)とは、薬の材料となる草木や根などを細かい粉状につぶすための器具のこと。持ち主が切腹する際に用いたが全く切れず、役に立たないその短刀を放り投げると、鉄製の薬研を簡単に貫通してしまったのです。主人の腹を切ることを拒否したことで「主を守る日本刀」として認識され、「薬研藤四郎」という名が付いた逸話が残っています。