平安時代、庶民と貴族では、身に付けていた衣服が大きく違っていました。貴族については、絵巻物などで確認できるように、きらびやかなイメージがありますが、庶民の衣服はどうだったのでしょうか。また、日本式甲冑(鎧兜)が登場したのも平安時代です。平安時代の貴族や庶民が身に付けていた衣装や、日本独自の発展を遂げていく礎となった甲冑(鎧兜)について、ご説明します。
平安時代は、794年(延暦13年)から約390年続きました。政治史的に区分すると、前・中・後期と3つの時代に分けられます。
平安時代の衣服と言えば、女性は「十二単」(じゅうにひとえ)を身に着けているイメージが特に強いかもしれません。しかし、平安時代の約400年間を通じて、このようなイメージ通りの装いをしていた訳ではありませんでした。
日本は古来、中国大陸(この頃は唐)へ人を派遣していました。当時の中国は先進国で、独自の文化が非常に発達している時代。日本は学問や宗教などあらゆる面で、中国の文化を意欲的に取り入れていたのです。
平安時代前期まで、中国から大きく影響を受けた文化が発達しました。人々の衣服にも、影響の強さを見ることができます。
男女問わず、貴族は朝廷での行事や日常の公務をする際に、「朝服」(ちょうふく)と呼ばれる衣服を着用。男性貴族は衣服令により、冠と衣服を同じ色で統一し、一目で位階が分かるようになります。上に「袍」(ほう)を着て、下は文様の入った「袴」(はかま)を履きました。
小物は手に象牙製の「笏」(しゃく)を持ち、「烏皮履」(くりかわのくつ)という黒い革でできた靴を履きます。
女性貴族は、髪の毛を後ろでゆるく、ひとつに結んで整えていました。後ろと顔側面の髪が、肩の高さ程度まで垂れた状態になるように、結んだ髪を頭頂部に持ち上げ、櫛を挿した髪型です。化粧も中国風で、眉間と頬に紅で様々な文様を描く、「花鈿」(かでん)・「花子」(かし)を施しています。
衣服は男性と同じく朝服と呼ばれ、上に着用する錦の袖なし「背子」(からぎぬ)は、衣服令に応じた物を身に付けていました。
「褶」(したも)という長い丈の衣に、「裙」(も)と言うミディアム丈の衣を重ね、帯で結びます。肩から「領巾」(ひれ:または比礼)という、長い布をかけていました。
足元は「鼻高履」(びこうり/はなたかぐつ)という、革製のつま先が高く上がった靴を履きます。
平安時代中期になると、衣服が一変しました。奈良時代後半から平安時代前期にかけて、少しずつ日本の風土や習慣を重んじ、それまでの衣服を見直そうとする動きが高まっていったのです。平安時代中期の894年(寛平6年)に遣唐使が廃止されたことで、日本独自の国風文化が成立。これにより、人々の衣服も変わりました。
平安時代後期には、厚い布を用いたり、糊づけしたりして強ばらせた生地で仕立てた、直線的で大ぶりな姿の「強装束」(こわしょうぞく)と呼ばれる衣服が登場します。「神護寺」(じんごじ)に所蔵されている「伝源頼朝像」の衣服と言えば、イメージしやすいかもしれません。
こうした強装束を着用するためには、特別な技術が必要だったとされ、着用者が1人で着ることは困難だったと言われています。
平安時代の男性庶民は、上半身に「直垂」(ひたたれ)という前合わせ部分に紐の付いた服を着用し、下半身には丈の短い、裾絞りの「小袴」(こばかま)を履いていました。
直垂の柄はとても自由で、平安時代に使われていた柄であれば、どのような柄でも使用可能だったと言われています。
脛の部分に「脛巾」(はばき)を付け、足元は「草鞋」(わらじ)または、かかとの部分がない草履の「尻切れ」(しりきれ)を履いていました。
頭上には、前方に布が垂れた「萎烏帽子」(なええぼし)をかぶります。直垂は、時代と共に礼装化し、後世においては、武士の普段着となりました。
平安時代の女性庶民は、「小袖」(こそで)という丈の短い着物に、「褶」(しびら)という着物を羽織って、腰布で固定した服装が主流でした。
小袖は貴族にとって下着とされていましたが、庶民にとっては日常の衣服だったのです。
髪は肩から鎖骨くらいの長さに整え、後ろでひとつに括るという、とても質素な髪型でした。
また農作業時には、男性庶民と同じように、裾を絞って丈を短くした「絞り袴」(しぼりばかま)を着用していたと言われています。
平安時代の貴族が、衣服に大きな関心を持っていた理由は、男女が気軽に話せる時代ではなく、衣服以外にアピールできる材料がなかったからです。
男女共に、着ている衣装や色合わせによって人柄を推測し、位階の高さやセンスの良さをアピールしました。
平安時代の男性貴族は、女性貴族よりも衣装の種類が多く、着付けも複雑で大変でした。
貴族の衣装は身分によって、細かく決められます。身分は正一位から少初位まで30階級あり、天皇、上皇、皇太子、一位から三位までが「公卿」(くぎょう)と呼ばれる上流貴族でした。
摂関政治で名を馳せた「藤原道長」や、「紫式部」の「源氏物語」に登場する「光源氏」(ひかるげんじ)は上流貴族です。四位、五位は中流貴族とされ、紫式部が含まれます。六位以下は、下級貴族とされました。
男性貴族が着た装束の代表が、「束帯」(そくたい)です。五位以上の男性貴族が着る正装で、現代の礼服にあたり、朝廷行事や儀式で着用していました。
冠をかぶり、小袖、「大口」(おおぐち)または「下袴」(したばかま)、靴下の「襪」(しとうず)、「単」(ひとえ)、「表袴」(うえのはかま)を着用。単の上に「衵」(あこめ)、「下襲」(したがさね)を着用しました。
下襲は後身ごろが床を擦るほど長く伸び、大臣など階級の高い貴族では3mもあったと言われています。武官は下襲の上から必ず、「半臂」(はんぴ)を着ました。
最後に縫腋袍(ほうえきのほう)または位袍(いほう)を着て、腰部分を石帯(せきたい)で結び、魚袋(ぎょたい)を付けます。帖紙(たとう)にはさんだ檜扇(ひおうぎ)を懐へ入れ、笏を持ち、着付けは完了です。
さらに高官で許された者は、飾剣を平緒(ひらお)で佩(お)びました。また、位袍(いほう)、表袴、下襲、半臂、石帯は階級によって色や文様が決められていたのです。
束帯は、長時間の着用に不向きな衣装だったため、簡略化された「衣冠」が誕生します。上流貴族では「直衣」(のうし)という平服が登場。見た目は衣冠とほぼ同じですが、より手軽な衣服だったと言われています。
上流貴族達は、天皇の許可を得られれば、直衣で朝廷へ参内。参内するときは冠をかぶりました。烏帽子を合わせると上流貴族のおしゃれな普段着となります。直衣は束帯で決められた色以外、平安時代後期まで比較的自由でした。
重ねの色目と言う着物の色合わせや、季節ごとの文様などでセンスを競います。また衵を長く仕立て、直衣の下から少し見えるように合わせる着方も、豪華で美しいとされました。
また、狩りや旅行に出かける際は、狩衣(かりぎぬ)と言う遊び着を着用します。狩衣でも上流貴族は手を抜かず、着物に裏地を付け、重ねの色目を楽しみました。どこで素敵な女性や、ライバルと出くわすか分からなかったため、常にセンスを磨く必要があったと言われています。
男性貴族も大変でしたが、女性貴族も大変です。代表的な例は有名な十二単ですが、本当に着物を12枚重ねていた訳ではありません。たくさん重ね着をしていたことから、「十二単」と言われるようになったのです。
当時の女性貴族が着用した着物は、布団ほどの大きさだったため、たくさん着すぎて動けなくなった貴族もいたほど。着物の下に履いていた袴も、男性より長く引きずって歩かなければならず、上流貴族の女性達は1日を通して、あまり動かず過ごしました。着物の総重量は、10kgとも言われています。
襦袢や小袖の上から長い袴を履き、単を重ね、袿(うちき)を5枚着用。着物は襟と袖、裾が少しずつずれて重なり、色合いが見えるように仕立てられています。男性貴族と同様に重ねの色目を楽しみ、色の組み合わせに名前を付けていました。
袿の上から打衣(うちぎぬ)、表着(おもてぎ)、唐衣(からぎぬ)を着て、裳(も)という紐ですべての衣装を結びます。大きい衵を羽織り、帖紙と檜扇を持って着付けは完了。女性貴族は、色や紋に男性貴族ほど規則が厳しくなかったことから、より生地を含め趣向を凝らし、刺繍や蒔絵、金銀を施しました。
重ねの色目が綺麗か、季節に合っているかを重視し、御簾越しに会う男性へセンスの良さを表現していました。日常では小袖に袿と単を重ね、袴を履いて少しシンプルな装いとなります。
平安時代の公家に生まれた子ども達は、大人同様に華やかな衣装を着用していました。一般的なイメージとしては、「牛若丸」(うしわかまる)の服装です。
足さばきのいい裾を絞った括り袴を履き、上半身には、水干(すいかん)と言う張りのある布を使い、狩衣とほとんど同じ仕立ての着物を着ました。
水干は主に下級の官人や武士の衣装でしたが、公家の幼い男の子も着ています。
上質な素材である絹織物に、絞り染めや型染めを施しました。水干の他に半尻という、狩衣に似た小さい着物も着ています。
公家の幼い女の子または年若い女子は、単や袿の上から細長(ほそなが)という身丈の長い着物を着ていました。また「汗衫」(かざみ)と言う、本来は汗の付く肌着を長大化して、衵の上から着たとされています。
平安時代の僧侶の服には、法会用の装束と国家行事の儀式に用いる、鈍色(にびいろ)装束、宿直(とのい)用の宿装束、加行(げぎょう)の律(りつ)装束が用いられました。
僧綱襟という方立(ほうた)て襟を付け、衵、単、大帷(おおかたびら)を着ます。
大口または下袴を履き、指貫(さしぬき)を重ね、襪を付けました。仕上げに檜扇と数珠を持ち、五条袈裟をかけます。
平安時代における合戦の主流は、騎馬武者が互いに名乗り合い、1対1で弓を射掛け合う騎射戦でした。こうした戦いに臨むのは、上級武士。そのため、騎射戦に最も適した甲冑(鎧兜)として、「大鎧」が考案されました。
大鎧の特徴は、胸に付けられた「栴檀板」(せんだんのいた)と「鳩尾板」(きゅうびのいた)。
馬上でスムーズに弓を引けるように、胴の前面には「弦走韋」(つるばしりのかわ)が施され、さらに弓を引いたときに隙ができる左脇上部を鳩尾板、馬上で太刀を振るって戦う際に隙ができる右脇上部を栴檀板で防護するのです。
栴檀板は伸縮性のある作りにして、動きやすさを保ちました。また、4間の「草摺」(くさずり)は、馬にまたがった騎馬武者の腰を、スッポリと覆うように設計されています。
大鎧には、漆芸、金工、染織など、伝統的な技法が尽くされていました。平安時代の国風文化と仏教関係の工芸技術が、奈良時代以前にはなかった日本式甲冑(鎧兜)を誕生させたと言えるのです。
「胴丸」は大鎧よりも軽い装備で、主に馬に乗らず徒歩で戦う中級、下級武士用の甲冑(鎧兜)。
足さばきが良く、胴を丸く包み、体の脇で紐を結ぶだけで簡単に着られる構造だったことから、鎌倉時代以降、徐々に武将の間にも普及していきました。
平安時代に使われ始めた当初は、細かく優雅に仕立てられていたと言われており、こんなところにも平安時代の「雅」(みやび)を感じ取ることができるのです。