軍師や歴史上の実力者

山本勘助-歴史上の実力者
/ホームメイト

山本勘助-歴史上の実力者 山本勘助-歴史上の実力者
文字サイズ

武田二十四将に数えられ、武田信玄の軍師として知られる山本勘助(やまもとかんすけ)。しかしその存在は武田氏滅亡後に書かれた「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)にしか記述がなかったため、架空の人物と考えられていた時期もありました。
しかし、近年発見された書状によって、武田信玄にとって重要な家臣のひとりであったことがあらためて認知されています。

武田信玄の書状から読み解く山本勘助の実像

2008年(平成20年)に発見された、群馬県安中市の真下家(ましもけ)が所蔵していた「真下家所蔵文書」から、山本勘助の功績が見直されようとしています。

真下家文書のなかには、武田信玄から「山本菅助」(甲陽軍鑑では山本勘助)に宛てた3通の書状があり、うち2通からは、武田信玄配下における山本勘助の働きがうかがえます。

  • 武田信玄

    武田信玄

  • 山本勘助

    山本勘助

1通(武田信玄判物)は、1548年(天文17年)4月吉日に書かれた物。信濃国伊那郡での働きに対して謝意を述べ、恩賞を与えるという内容です。時期的に、北信濃の村上義清(むらかみよしきよ)と戦った「上田原の戦い」(うえだはらのたたかい)での功績を讃えたもののようです。

もう1通(武田信玄書状)は、武田家の宿老である小山田氏の見舞いと、軍事作戦を意味する「揺」(ゆらぎ)の検討を指示する物。書状が書かれた日付は不明ですが、小山田氏(小山田備中守虎満と推測される)という人物が存在した時期から1558年(永禄元年)頃の物と推定され、文書の最後には「山本菅助口上候」と書かれているので、山本管助が使者であり、口頭説明を行なったことが分かります。当時の使者とは「使い走り」ではなく、主君から信頼された地位の高い者が担当しました。

これにより、1553年(天文22年)から1564年(永禄7年)まで続いた「川中島の戦い」における軍略にも、山本勘助が深くかかわっていたことが分かります。

ちなみに書状では名前が「菅助」となっていますが、当て字を用いることは当時としては珍しいことではないため、山本菅助と山本勘助は同一人物と考えられています。

また、甲陽軍鑑における山本勘助の法号(法名)「道鬼」が、真下家文書における山本菅助の法号・道鬼と一致することも、同一人物説を裏付ける証拠のひとつとされます。

「山本勘助は、様々な作戦を献策し、戦を勝利に導いた名軍師」と呼ばれるような華々しい活躍を裏付ける資料はまだ発見されていませんが、山本勘助は確かに存在し、武田信玄の戦にかかわっていたことがうかがい知れます。

呪術者「山本勘助」

一方で、山本勘助は「呪術者」として合戦に参加していたという説も提唱されています。

呪術者と言っても相手を呪い殺したり、天候を操ったりすることができる超能力者ではなく、戦において吉兆を占う、現在で言う「祈祷師」的な役割を担っていたとされています。

戦国時代において呪術的要素は重要視されていたため、さながら軍師のように、常に武田信玄の傍らにいたと考えられています。

武田信玄と山本勘助との出会い

甲陽軍鑑によれば山本勘助は1493年(明応2年)頃に生まれ、三河国出身と考えられています。20代中頃から全国を武者修行して歩き、兵法や築城術などを学びました。

1536年(天文5年)、駿河にいた頃には今川家の老臣・庵原忠房(いはらただふさ)から今川義元に推挙されましたが、隻眼(片目)で全身傷だらけであり、手の指が不自由で、足も引きずっていたため、今川義元がその風体を嫌い、仕官は叶いませんでした。その後もしばらく牢人(ろうにん:浪人)として過ごすことになります。

山本勘助が武田信玄に召し抱えられたのは1543年(天文12年)から。すでに51歳になっていました。武田家宿老・板垣信方(いたがきのぶかた)から兵法家であり、築城の名人との推薦で府中(現在の甲府)に呼ばれ武田家に仕官しました。山本勘助の兵法家としての名声を聞いた武田信玄は、当初牢人にしては破格の知行(ちぎょう:俸給)100貫(現在の年俸1,000万円くらい)を提示していましたが、実際に山本勘助に会い、その知見の深さと広さに感銘を受けた武田信玄は、倍の200貫に増額したと言います。

これに感激した山本勘助も武田信玄への忠誠を誓い、武田信玄が信濃に侵攻した際は9つの城を落として、信濃平定に貢献しました。

武田信玄のプライベートにもアドバイス!?

甲陽軍鑑

甲陽軍鑑

史実かどうかは不明ですが、山本勘助が武田信玄の結婚にアドバイスしたエピソードも有名です。

信濃に侵攻した武田信玄は1544年(天文13年)に諏訪の上原城城主、諏訪頼重(すわよりしげ)を自害に追い込みました。そして諏訪頼重の娘、諏訪御料人(すわごりょうにん)を側室に迎えようとします。

甲陽軍鑑によれば諏訪御料人は「尋常かくれなき美人」とありますので、あまりの美しさに武田信玄が一目惚れしたのかもしれません。

しかし諏訪御料人から見れば武田信玄は父の敵。武田信玄の側近達はいつ寝首をかかれてもおかしくないと反対しましたが、山本勘助だけは賛成したと言います。諏訪氏は信濃の名門であり、生まれた子に諏訪氏を継がせれば諏訪氏の家臣も納得し、武田氏と諏訪氏との絆になると考えたのです。

そして武田信玄の側室となった諏訪御料人は、1546年(天文15年)に武田勝頼を出産。武田信玄にとって4人目の男児である武田勝頼は、山本勘助の思惑通り諏訪氏を継ぎ、諏訪勝頼として高遠城(たかとおじょう)城主となりました。

しかし1573年(元亀4年)に武田信玄が亡くなると、武田勝頼が武田姓に復帰し家督を継ぐことに。武田勝頼にとって異母兄弟の長男である武田義信(たけだよしのぶ)は、内紛未遂事件を起こして廃嫡となり、次男の海野信親(うんののぶちか)は盲目で、三男の武田信之(たけだのぶゆき)は夭逝していたため、武田勝頼に白羽の矢が立ったのです。

さすがの山本勘助もこの展開は読めていなかったかもしれません。

武田信玄を窮地に陥れた「啄木鳥[きつつき]戦法」

武田信玄と上杉謙信の間で5回にわたって争われた川中島の戦い。一番大規模な合戦であった第4次川中島の戦いは、諸説ありますが武田軍の兵力20,000に対し上杉軍の兵力は13,000であったと言われています。

兵力は武田軍が上回っていたものの、戦況は膠着状態、これを打開するため山本勘助は武田信玄に啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)を進言しました。

啄木鳥がエサを捕るとき、木に開いた虫の巣穴の反対側をつついて虫をびっくりさせ、穴から這い出してきたところを捕らえるという習性に倣い、軍を二手に分け、上杉軍の陣がある妻女山(さいじょさん)の背後から高坂昌信(こうさかまさのぶ)、馬場信房(ばばのぶはる/ばばのぶふさ)、小山田信茂(おやまだのぶしげ)、真田幸隆(さなだゆきたか)ら兵力12,000の別動隊が襲い、上杉軍が驚いて下山してきたところを八幡原(はちまんばら・やはたはら)に陣を敷く兵力8,000の武田信玄、武田信繁(たけだのぶしげ)、武田義信(たけだよしのぶ)、武田信廉(たけだのぶかど)、穴山信君(あなやまのぶただ)、山本勘助ら、本隊が下から挟み撃ちして殲滅しようという作戦です。

しかし武田軍が駐屯する海津城は妻女山から丸見えでした。いつもより飯炊きの煙が多く立ち昇っていたことから、大規模な軍事行動があると読んだ上杉謙信に計画が見抜かれてしまいました。

上杉軍は深夜のうちに物音ひとつ立てずに妻女山を下り兵力13,000の全軍をもって、武田軍兵力8,000の本隊が待機している八幡原を襲ったのです。

完全に裏をかかれたこの襲撃により武田軍は武田信繁を始め、名だたる武将が討死、武田軍を危険にさらした山本勘助はその責任を感じ、わずかな家来を連れて敵中に突入。無謀な行ないにも思えますが、そこには主君・武田信玄を逃がすために少しでも時間を稼ぎたいという思いがあったのかもしれません。

そして、山本勘助は60以上の傷を受けて討死。享年69歳でした。

そののち、武田軍の別働隊が到着、今度は上杉軍が挟み撃ちに遭うことに。最終的に双方3,000以上の戦死者を出し、この戦いは引き分けに終わりました。

山本勘助-歴史上の実力者
SNSでシェアする

キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「軍師や歴史上の実力者」の記事を読む


高杉晋作-歴史上の実力者

高杉晋作-歴史上の実力者
久坂玄瑞(くさかげんずい)とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれる吉田松陰(よしだしょういん)の愛弟子、高杉晋作(たかすぎしんさく)。尊王攘夷の志士として討幕を成し遂げた功績の影には、師の教えと、師をして「余の及ぶところではない」と言わしめた精識さがありました。

高杉晋作-歴史上の実力者

坂本龍馬-歴史上の実力者

坂本龍馬-歴史上の実力者
幕末の志士、坂本龍馬が師とあおいだ勝海舟。勝海舟と出会うことによって世界の大きさを知った坂本龍馬は、1862年(文久2年)から1867年(慶応3年)までのわずか5年の間に、薩長同盟の締結や大政奉還に貢献し、亀山社中(海援隊)を組織。そして31歳の若さで散っていきました。 大日本武徳会とは YouTube動画

坂本龍馬-歴史上の実力者

大石内蔵助-歴史上の実力者

大石内蔵助-歴史上の実力者
日本の師走の風物詩と言えば「忠臣蔵」。薄暗い夜明け前、雪が降り積もる江戸の町を行く揃いの半被…、この隊列を率いるのは赤穂藩のナンバー2、大石内蔵助。 主君の汚名を返上するために戦った家臣達の物語は、人形浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなり、様々な脚色を加えられながら時代を超えて語り継がれています。

大石内蔵助-歴史上の実力者

小松帯刀-歴史上の実力者

小松帯刀-歴史上の実力者
「西郷隆盛」、「大久保利通」、「坂本龍馬」、「桂小五郎」らと並び、明治維新の十傑のひとりでありながら、表には出てこない陰の存在、「小松帯刀」(こまつたてわき)。幕末動乱期において「英明の君主」(英明とは、優れて賢いこと)と称された「島津斉彬」(しまづなりあきら)の死後、小松帯刀は若干27歳にして薩摩藩を背負って立ちます。そして「薩摩の小松、小松の薩摩」と言われるほど活躍し、幕末から明治維新にかけて薩摩藩の躍進を支えました。しかし、小松帯刀は明治維新後わずか3年、病によりこの世を去ります。もし生きていれば、西郷隆盛、大久保利通らを超える歴史的知名度があったと言っても過言ではない、有能すぎるナンバー2・小松帯刀を紹介します。

小松帯刀-歴史上の実力者

田沼意次-歴史上の実力者

田沼意次-歴史上の実力者
「賄賂政治家」と聞いて思い浮かべる歴史上の人物と言えば、この男、「田沼意次」(たぬまおきつぐ)ではないでしょうか。10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)の右腕として活躍し、江戸の貨幣経済の礎を築いた人物です。田沼意次が行った改革には黒い部分もありますが、その経済観念に優れた政治手腕は、今日高く評価されています。

田沼意次-歴史上の実力者

大岡越前守忠相-歴史上の実力者

大岡越前守忠相-歴史上の実力者
お白州(おしらす)で繰り広げられる「大岡裁き」は、テレビ時代劇ではお馴染み。数々の名俳優が演じ、天下の名裁きで視聴者を魅了する大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)は、実在した人物です。 名君・徳川吉宗(とくがわよしむね)の側近として、40歳という異例の若さで南町奉行に就任。そして8代将軍・徳川吉宗の治世、最大の出来事「享保の改革」では、徳川吉宗を支えたナンバー2として多大な功績を残しました。

大岡越前守忠相-歴史上の実力者

本多正信-歴史上の実力者

本多正信-歴史上の実力者
徳川家康の三大好物と言われる「佐渡殿、鷹殿、お六殿」の佐渡殿とは、江戸幕府の老中で佐渡守の本多正信(ほんだまさのぶ)のこと。愛してやまない鷹狩や側室のお六の方(おろくのかた)に匹敵するほど、徳川家康にとって大切な存在「本多正信」とは? これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。 どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。

本多正信-歴史上の実力者

新井白石-歴史上の実力者

新井白石-歴史上の実力者
徳川第6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)に仕えた江戸時代中期の朱子学者「新井白石」(あらいはくせき)。幕政を実質的に主導し、側用人「間部詮房」(まなべあきふさ)とともに「正徳の治」(しょうとくのち)を行なった政治家としても活躍しました。並みの儒学者では太刀打ちできない学識と理想を貫き通す信念を持ち、理想の政治を行なうためなら将軍にも屈しない「鬼のナンバー2」として幕政を牽引していました。日本医学の基礎を築いた天才「杉田玄白」(すぎたげんぱく)からも「生まれながらの天才」と絶賛された新井白石とは一体どんな人物だったのでしょうか。

新井白石-歴史上の実力者

井伊直政-歴史上の実力者

井伊直政-歴史上の実力者
徳川四天王や徳川三傑に数えられ、徳川家康の天下取り、最大の功労者とも言われる井伊直政(いいなおまさ)。絶世の美男子でありながら、戦での勇猛な姿は「井伊の赤鬼」とも言われたとか。その素顔と功績をたどってみましょう。

井伊直政-歴史上の実力者

注目ワード
注目ワード