日本に古くから伝わる様々な儀式や習慣は、時代の移り変わりとともに形を変えながら受け継がれているものが多くあります。
なかでも「成人式」は、年齢的にも社会的にも一人前の大人として認められる人生の節目のひとつ。成人年齢が20歳と定められたのは明治時代のことですが、それ以前から日本では「元服」(げんぷく)と呼ばれる成人の儀式が行なわれていました。
現代の成人式にあたる元服とはどのような儀式だったのでしょうか。
公家や武家の元服は、中国の成人儀礼の習わしが起源とされており、成人の儀式のことを指しています。奈良時代以降、時代や地域によって儀式の変化はあるものの、明治時代まで行なわれていました。儀式の内容は異なりますが、現代の成人式は元服に変わるものと言えるでしょう。
子供から一人前の大人になる儀式の元服では、どのようなことを行なうのでしょうか。ここでは元服の儀式と、成人男女の異なる服装についてご紹介します。
年齢は地域や時代によっても異なりますが、12歳ごろから15歳か16歳までの間に行なわれた元服は、「大人になる」「男になる」儀式と言われています。
儀式では、子供の髪型の代名詞である「総角」(あげまき:古代~平安時代における未成年男子の髪型のひとつ)から髪を結って、冠を着けます。衣類は、「闕腋」(けってき)と言って両脇の下を縫い付けないで、開けたままの服から両脇が縫い合わせてある「縫腋」(ほうえき)へ変わります。
「烏帽子」(えぼし)も成人男性には欠かせませんでした。烏帽子とは、和装で礼服を着る際に成人男性がかぶっていた帽子のことです。
初めは薄い絹製で、あとに黒漆を塗った紙製へと変化します。また、庶民の烏帽子は麻糸を織った物で作られていました。
公家は、参内での公務は冠をかぶるため、烏帽子は普段着用のかぶり物として使います。
一方で武家は、公務の多くを幕府などで行なうため、普段、公務ともに烏帽子を着用していました。
烏帽子は成人男性としての象徴であったため、鎌倉時代頃まで素材は異なりますが、公家、武家、庶民の誰もが日常で着用していました。烏帽子をかぶっていなかったのは、僧侶または烏帽子もかぶれない貧民であったと言われています。
元服の儀式で成人男性は初めて烏帽子をかぶります。そして元服する男子に烏帽子をかぶせる役目を負うのが「烏帽子親」(えぼしおや)です。元服の儀式を終えると、幼少期の名前を改め、鳥帽子親の名前から1字を貰い、今後は成人男性として「烏帽子名」(えぼしな)を名乗ることになります。
元服の儀式のなかで、「理髪の役」(りはつのやく)、「烏帽子の役」(えぼしのやく)、「泔杯の役」(ゆするつきのやく)、「打乱箱の役」(うちみだりのはこのやく)、「鏡台并鏡の役」(きょうだいならびかがみのやく)があります。それぞれの役割は以下の内容になります。
時代とともに略式化され、「加冠」(かかん:元服の儀式の際、元服する者に冠をかぶせること)ではなく、前髪や月代(さかやき)をそり落とし、服の袖留めをするだけとなりました。そのため、公家や武家だけでなく、庶民の間でも成人を迎える時期になると元服の儀式が行なわれました。
男性同様に年齢は地域や時代によっても異なりますが、12~13歳頃から16歳頃に成人の儀式として行なわれていました。基本的には結婚前に行なうものとされていたため、結婚と同時に元服の儀式が行なわれる場合がありました。また戦国時代は政略結婚も多く、8歳で元服の儀式を行なったこともあったようです。
儀式では、主に「髪上げ」が行なわれます。そのあと、「裳着」(もぎ)と言って成人した印に初めて「裳」(も:十二単を構成する着物のひとつ)を着けるようになります。
そして裳着の際、裳の腰紐を結ぶ役を親戚の長老などが務めたと言われています。このとき、綺麗な着物を着て儀式を迎えていました。
いつの時代も女性は綺麗であって欲しいと願った親心かもしれません。
女子から女性になる成人の儀式のため、綺麗な着物を着ていた点は、現代の成人式の振袖に通じるものがあると言えるでしょう。
江戸時代では服装の変化により、袖留めの式に変更されました。また、元服の前に結婚している場合もあり、結婚した女性が眉を剃り、お歯黒をして髪型を丸髷(まるまげ)に変えることも元服と言いました。
一方で、お歯黒のみすることを「半元服」(はんげんぷく)と呼び、眉まで剃るのを「本元服」(ほんげんぷく)と区別していました。本元服は、懐妊や分娩後に行なうのが一般的でした。
現代の成人式とは綺麗な着物以外、儀式の意味などが異なります。女性の儀式のなかで、祇園の舞妓や島原の太夫など花街の世界には、現在も半元服の習慣が残っています。
戦国時代は戦いの状況や有無、家の都合によって元服の年齢が異なっていました。例えば、「伊達政宗」(だてまさむね)は11歳で元服の儀式を行なったのに対して、「武田信玄」(たけだしんげん)は16歳で元服の儀式を行なったとされています。「織田信長」(おだのぶなが)は13歳頃、「徳川家康」(とくがわいえやす)は14歳頃と言われています。
戦国時代では歴史上に名を遺した武将の多くが元服によって烏帽子名に変わることが有名です。主な戦国武将の元服年齢と烏帽子名と、それ以後の出世などで改名した主なものは以下になります。
織田信長 | 元服は13歳頃 「織田吉法師」(おだきっぽうし)から「織田三郎信長」(おださぶろうのぶなが)へ改名 |
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徳川家康 | 元服は14歳頃 「松平竹千代」(まつだいらたけちよ)から「松平次郎三郎元信」(まつだいらじろうさぶろうもとのぶ)となり、「松平元康」(まつだいらもとやす)から最終的に、徳川家康と改名 |
伊達政宗 | 元服は11歳 「伊達焚天丸」(だてぼんてんまる)から「伊達藤次郎政宗」(だてとうじろうまさむね)に改名 |
浅井長政 | 元服は15歳 「浅井猿夜叉丸」(あざいさるやしゃまる)から「浅井賢政」(あざいかたまさ)となり、結婚後に、「浅井長政」(あざいながまさ)へ改名 |
武田信玄 | 元服は16歳 「武田太郎」(たけだたろう:武田勝千代[たけだかつちよ]と呼ばれることもあった)から「武田晴信」(たけだはるのぶ)となり、そののち、「武田機山」(たけだきざん)へ改名、出家したあと、武田信玄と改名 |
上杉謙信 | 元服は14歳 「長尾虎千代」(ながおとらちよ)から「長尾景虎」(ながおかげとら) そののち、「上杉政虎」(うえすぎまさとら)、「上杉輝虎」(うえすぎてるとら)、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)へ改名 |
元服は奈良時代以降、成人の儀式として受け継がれています。また年齢についても現代の20歳に対して12歳から16歳ぐらいまでの間で行なわれていたため、早くから大人としての働きが求められたと言えるでしょう。
特に戦国時代は、元服の儀式は一人前の武将と認められた証でした。元服を終えたことにより、何千もの軍を率いて初陣を迎えた武将は大勢います。
戦国武将のなかで、武田信玄は統率力、知力、武力などすべての分野で優れていたと言われています。また織田信長は、戦いで初めて鉄砲隊を組織し、画期的な戦術を用いました。上杉謙信は連戦連勝の軍神と呼ばれ、知力に優れていました。「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)は政治力が高く、低い身分から関白にまでなり、天下統一を成し遂げた人物です。伊達政宗は15歳で初陣、18歳で家督を継ぎ、23歳で南東北を制覇したと言われています。
また、「北条氏康」(ほうじょううじやす)は、元服が15歳、翌年の16歳で「小沢原の戦い」(おざわがはらのたたかい)で初陣を飾りました。文武をかね備えた名将と評価され、自ら指揮した戦いは無敗と言われています。長期の戦いになりがちな籠城戦では、他の武将らが苦戦を強いられるなか、北条氏康は耐え抜き勝利に導いたと言われています。
特に、1546年(天文15年)の「河越城の戦い」(かわごえじょうのたたかい)では半年ほどの籠城戦に耐え、義弟の「北条綱成」(ほうじょうつなしげ/つななり)とともに少ない兵士で夜襲をかけ連合軍を破り、「上杉朝定」(うえすぎともさだ)、「難波田憲重」(なんばだのりしげ)などを討ち取り、「扇谷上杉家」(おうぎがやつうえすぎけ)を滅亡させたと言われています。
現代では、地域によって元服の儀式が残っているところもありますが、基本的には20歳のお祝いとされる成人式に集約されています。現在は学問も発展し、元服の儀式を行なっていた年齢で成人として扱うことが困難な状況があります。一方でおめでたい儀式となった成人の儀式の歴史的な重みを理解することも大切です。
元服は、古代中国の習わしを模して行なわれるようになったと言われていますが、歴史上、成人となる神聖な儀式とされていました。髪型、衣類、烏帽子を着けることは、同時に大人としての責任を背負うことでもあります。現代の成人式には、元服儀式や歴史の深さは残っていませんが、責任の取れる大人として迎えて欲しいと願っています。