「侍」(さむらい)の名称の由来は、「人に仕える」ことを意味する「侍う/候う」(さぶらう)という言葉にあります。では「侍」は、どのようにして生まれたのでしょうか。その起源は、平安時代までさかのぼります。「武士の上位階級 侍とは」では、侍の歴史をはじめ、侍の定義や地位について、詳しくご説明します。
「人に仕える」を語源とするのが侍ですから、軍事に携わる者で、どんなに武芸に秀でていても、特定の主人を持たない武士を侍とは呼びません。浪人や野武士は侍ではないのです。
戦時における臨時雇いの兵卒「足軽」も、もちろん侍ではありません。また、武士の中でも、馬に乗ることを許されたのは侍だけでした。
つまり、軍事に携わるのが務めの武士というカテゴリの中でも、貴人に仕える者だけが侍であり、侍と武士は、ただ単に呼び名が違うだけではないのです。
やがて時代が進み、社会情勢が大きく動くと、侍の定義そのものも変化していきます。時代によって侍の名が持つ意味と立場は、どのように変わったのでしょうか。
平安時代に登場した最初の侍は、天皇や皇族、貴族の側近くに仕えて主人の用向きを伺い、朝廷の実務を担い、また警護や紛争の鎮圧にあたる任務を帯びていました。現代の職業で言えば秘書や執事、または警察官に近く、もちろん公務員ということになります。
「大化の改新」に始まった律令制(りつりょうせい)のもとでは、官位で六位以下の中級より下の役人でしたが、引退間際に下級貴族である五位に昇進することもあったそうです。
9世紀後半から10世紀前半、中央(都である京都)から地方行政のために派遣された国司(こくし/くにのつかさ)が強権を振るい、蓄財に励むようになると、地方ではこれに対抗する勢力が結集していきます。
地元の豪族や有力農民が、賜姓皇族(しせいこうぞく:皇族が臣下の籍に降りて姓を与えられた身分)や、国司の任期を終えてもそのまま地方に残った貴族の子孫などを棟梁(とうりょう:組織の指導者)として武士団を形成しました。
その代表格が、「桓武天皇」(かんむてんのう)の流れをくむ「桓武平氏」(かんむへいし)と、「清和天皇」(せいわてんのう)の皇子を祖とする「清和源氏」(せいわげんじ)です。
関東で力を持っていた桓武平氏の出身である「平将門」(たいらのまさかど)は、一族の相続を巡る争いの挙句、朝廷に反旗を翻します。武力に秀でた将門は瞬く間に関東一円を掌握。自らを「新皇」(しんのう)と称しました。
この将門を討ったのが、地方の武士であった「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)と「平貞盛」(たいらのさだもり)です。朝廷の鎮圧軍が派遣されるよりも早く挙げた功績でした。
同じ頃、「藤原不比等」(ふじわらのふひと)の次男を祖とする藤原氏北家(ふじわらしほっけ)出身の「藤原純友」(ふじわらのすみとも)が、瀬戸内海の海賊を従えて反乱を起こします。
純友の軍勢は大宰府(だざいふ:九州の筑前国に置かれた地方行政機関)を焼き払うなどしましたが、清和源氏の「源経基」(みなもとのつねとも)らによって鎮圧されました。
この「承平・天慶の乱」(じょうへい・てんぎょうのらん)と呼ばれるふたつの乱を経て、地方の武士の実力を知った朝廷は、彼らを侍として召し抱え、内裏(だいり:天皇の住む御殿)の警備にあたらせたり、軍事力として組織化して地方の治安維持にあたらせたりします。
こうして、武力を持つ侍の家系、すなわち武家が次第に勢力を増していくことになるのです。
「源頼朝」(みなもとのよりとも)が武家政権である鎌倉幕府を開いた鎌倉時代。侍の身分は高く、将軍に仕える「御家人」(ごけにん)クラスを指す名称となりました。平安時代には、皇族・貴族に奉仕する身分でしたが、武家社会においては、いわば貴族階級である将軍に奉仕する武士が侍なのです。
鎌倉時代の身分制度では、公家と僧侶は鎌倉幕府の支配下にはありませんでした。農民をはじめとする一般庶民は「平民」、「凡下」(ぼんげ)、「甲乙人」(こうおつにん)。さらに、雑用を担う隷属的な「奴婢」(ぬひ)、「雑人」(ぞうにん)などがいました。こうした身分の中で武家と呼ばれるのが、いわゆる武士のことです。
武士は侍と「郎従・郎党」(ろうじゅう/ろうとう)とに分けられました。郎従・郎党は、武士ではありますが、侍を主人とする者で、侍ではありません。また、侍には御家人と非御家人があり、御家人は幕府に仕え、領地を所有する者を指します。
非御家人は幕府との主従関係のない、独立した侍のことです。侍の定義が平安時代とは異なっています。鎌倉時代は、まだ封建制度が完成されていなかったため、幕府が全国の侍を組織化できていたとは言えず、例外的に非御家人という侍も存在していたのです。
室町幕府のしくみは鎌倉幕府とあまり違いはありません。中央では、足利(あしかが)将軍家の補佐役である「管領」(かんれい)を置き、その下に財政を司る「政所」(まんどころ)、軍事・警察機能を担う「侍所」(さむらいどころ)、そして文書・記録の管理や裁判を行なう「問注所」(もんちゅうじょ)が設置されました。
管領は、細川氏(ほそかわし)、斯波氏(しばし)、畠山氏(はたけやまし)といった有力な守護大名(治安維持・武力統制のために置いた地方官である大名)が交代で就任。
侍所の長官「所司」(しょし)には、赤松氏(あかまつし)、一色氏(いっしきし)、山名氏(やまなし)、京極氏(きょうごくし)の4家が任命されました。地方(関東)には「鎌倉府」(かまくらふ)が置かれ、その長官の職は足利氏一門が担い、関東支配の拠点としていたのです。
この室町時代においても、鎌倉時代と同様に将軍家に直接仕える武士のことを侍と呼びました。たとえ武士自身の身分が高くても、主人が有力な守護大名であっても、将軍の家来の家来は侍ではなかったのです。
ただ、室町幕府の支配体制は鎌倉幕府ほど強固ではありませんでした。のちの将軍家の内部抗争と守護大名同士の対立が、「応仁の乱」(おうにんのらん)の原因となります。応仁の乱がきっかけとなって、世は戦国時代へと突入していきました。
「徳川家康」が江戸幕府を開き、国内の安定を実現した江戸時代には、「旗本」以上の武士階級のことを侍と呼んでいました。旗本とは、徳川将軍家直属の家臣のうち、所領の石高が1万石未満で、儀式など将軍が顔を見せる席に参列する家格(かかく:家の格式)を持つ者のこと。いわゆる「お目見え」の資格を有する武士を指しました。世間一般には「お殿様」と呼ばれる身分です。
ただし、武士と町人・農民の区別を明確にした身分制度が確立して以降は、武士全体を指して侍と呼ぶようになったと言われています。
やがて明治維新となり、江戸幕府は崩壊。1877年(明治10年)、旧薩摩藩(現在の鹿児島県)の士族が明治政府に対して挙兵し、「西南戦争」が起こります。この戦いに敗れた薩軍(さつぐん)の指揮官「西郷隆盛」は自刃。侍は歴史から姿を消すこととなりました。
侍にとって、武芸だけでなく軍学(用兵・戦術など兵法に関する学問)の修得は必須。
また、武士道として知られる独自の理念に基づき、「一命を賭して主人に仕える」、「自らの言動には責任を持ち、命をかける」、「失敗は自らの命であがなう覚悟を持つ」などの思想を守っていました。
これらの「命をかける」という考え方から、「切腹」の風習が生まれたと言われています。他人の手による処刑ではなく、自らの手でけじめを付けるという処し方は、誇りある侍の精神にも適っていました。
また西洋には、武士道に似た「騎士道」というものがありますが、責任を取るために自ら命を絶つという思想はありません。自分の責任の取り方に命をかける武士道は、世界的に見れば独自性の強い文化であると言えます。