「千姫」(せんひめ)と「豊臣秀頼」(とよとみひでより)は夫婦ですが、「いとこ同士」でもあったことをご存じでしょうか。2人はいとこ同士でありながらも、千姫が生まれるとすぐに、「豊臣秀吉」の遺言により、夫婦になることが決められました。これは、豊臣家の行く末を心配した、豊臣秀吉による必死の政略であり、戦略だったのです。千姫と豊臣秀頼の結婚について、詳しくご紹介します。
1603年(慶長8年)、「徳川家康」の孫「千姫」と「豊臣秀吉」の嫡男「豊臣秀頼」が結婚しました。千姫が大坂城(現在の大阪府大阪市)に入城するとき、「黒田長政」(くろだながまさ:黒田官兵衛の嫡男)が300兵を率いて、厳重に警護した立派な婚礼であったことが伝えられています。
2人が結婚することになったのは、豊臣秀吉の遺言のためでした。1598年(慶長3年)、天下統一を果たした豊臣秀吉は、病に臥せます。死期を悟った豊臣秀吉は、7月に徳川家康達を伏見城に呼び寄せて、豊臣秀頼の後見人となるよう遺言を述べました。その際、豊臣秀吉は、嫡男・豊臣秀頼を徳川家康の孫婿にして欲しいと懇願したのです。
つまり、豊臣秀頼と徳川家康の孫・千姫を結婚させたいということ。豊臣秀吉は、自分の亡きあと、徳川家康が天下を治めるであろうと予感していました。徳川家康の孫・千姫と豊臣秀頼が姻戚関係を結べば、豊臣家は滅亡することなく、未来永劫、存続できると考えたのです。
1598年(慶長3年)8月、ついに豊臣秀吉が病死します。その後、豊臣政権は内部分裂し、豊臣秀吉の予感通り、徳川家康が影響力を強めました。これに、腹を立てたのが「石田三成」(いしだみつなり)です。1600年(慶長5年)、石田三成は徳川家康を打倒するため、「関ヶ原の戦い」を起こしました。
石田三成が率いたのは、西軍。徳川家康は東軍です。なお、豊臣秀頼は西軍側の庇護下に置かれていました。この結果、石田三成率いる西軍が敗北し、石田三成は処刑。「関ヶ原の戦い」は、両軍とも「豊臣家のため」という大義名分を謳っていたため、徳川家康は豊臣家の領地を論功行賞として分配しました。その結果、豊臣秀頼は650,000石の一大名に転落したのです。
これにより、徳川家康の覇権が確立。ただし、徳川家康は、豊臣秀吉の遺言を守りました。1603年(慶長8年)、徳川家康の孫・千姫と豊臣秀吉の嫡男・豊臣秀頼の婚礼が行われたのです。このとき、千姫は7歳、豊臣秀頼は11歳でした。千姫と豊臣秀頼の夫婦仲について、書かれた史料はほとんどありませんが、仲は睦まじかったと伝えられています。ただし、2人には、子どもが授かりませんでした。
いとこ同士の結婚は、昔から禁忌(タブー)ではなく、めずらしいことではありません。現在の日本でも、民法734条において、「直系血族または3親等内の傍系血族」との間の婚姻を禁止していますが、いとこは4親等となるため、結婚することが可能です。
古くは、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)と大陽院、「今川氏真」(いまがわうじざね)と「糸」(早川殿)、「前田利家」(まえだとしいえ)と「まつ」(芳春院)、63代内閣総理大臣「佐藤栄作」(さとうえいさく)と佐藤寛子、94代内閣総理大臣「菅直人」(かんなおと)と菅伸子さんもいとこ同士で結婚しています。
いとこ同士の結婚のメリットは、子どものころからの知り合いなので、気心が知れているところ。また、親同士が元々の知り合いなので、親戚付き合いがしやすいことや嫁姑問題が発生しにくいところです。デメリットは、離婚すると、親戚中から冷たい目で見られてしまうこと。離婚しても親戚関係は続くので、辛いと感じる場合があるかもしれません。
千姫と淀殿(茶々)は嫁と姑の関係になりましたが、元々は叔母と姪の関係であったため、たとえ徳川家康の孫であっても、嫁姑争いにはならず、たいせつにされたと考えられます。
豊臣秀吉が、豊臣家の未来を心配して知恵を絞った、千姫と豊臣秀頼の結婚でしたが、残念ながら、それでも豊臣家を救うことはできませんでした。
1614年(慶長19年)、「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)が起きたのです。徳川家康は、豊臣家の財力を消耗させるため、豊臣秀吉の菩提を弔うという理由で、豊臣秀頼に方広寺(現在の京都府京都市)の再建を提案。大仏殿が完成し、そろそろ開眼供養を行うという段階で、鐘銘に刻まれた鐘銘文「国家安康 君臣豊楽」に文句を付けたのです。「安」の文字で家康を分断した上、豊臣を君として楽しむとの底意が隠されている、徳川家康を呪詛するものだと、大騒ぎになりました。
これにより、方広寺の大仏開眼供養は延期。豊臣秀頼は誤解だと訴えましたが、徳川家康は、それならば、国替えまたは豊臣秀頼か、淀殿のどっちかが江戸に下向するように強要しました。これを拒否した豊臣側が兵を挙げ、1615年(慶長20年)に「大坂冬の陣」が勃発したのです。
一度は和睦が成立しましたが、翌年再び「大坂夏の陣」が起こります。徳川家康の命により、千姫は落城する大坂城から救出。そして、夫・豊臣秀頼と姑・淀殿(茶々)の助命を懇願しましたが、聞き入れられることはありませんでした。この結果、豊臣秀頼と母・茶々(淀殿)は自害し、豊臣家は滅亡したのです。