上杉謙信は、誰もが知る戦国最強の武将です。「甲斐の虎」と称えられる武田信玄と5度も戦を繰り広げましたが、一進一退の攻防を繰り広げ、決着が付きませんでした。また、上杉謙信は刀剣の愛好家としても知られ、上杉謙信が所有していた日本刀は、どれもすばらしい物だと言われています。上杉謙信が戦国時代最強の武将と言われるまでの生い立ちや、上杉謙信の愛刀が持つ逸話とともに、上杉謙信の生涯についてご紹介します。
時代 | ランク | 所蔵・伝来 |
---|---|---|
鎌倉時代 | 名物 | 上杉謙信→佐竹家→ 井伊美術館 |
川中島の戦いで使われていた日本刀が「典厩割国宗」(てんきゅうわりくにむね)です。
武田軍の副将「典厩信繁」(てんきゅうのぶしげ:武田信玄の実弟)を討った刀と言われています。
また、小田城の戦いで小田氏治を打ち破った佐竹義重氏に譲った日本刀でもあり、佐竹義重氏は、佐竹家の家宝として大切にしました。
上杉謙信は、愛刀家としても知られていますが、刀剣の優れた鑑定眼を持っていたと言われています。上杉謙信亡きあとは、米沢藩の初代藩主「上杉景勝」(上杉謙信の養子)に引き継がれ上杉家の家宝として受け継がれました。
「上杉家御手選三十五腰」(うえすぎけおてえらびさんじゅうごよう)は、上杉景勝が特に気に入った物を選抜した名刀リストのことです。
この三十五腰のうち、上杉謙信の佩刀は二十八腰とされています。しかし、もとの台帳が紛失しているため、三十五腰の内容について確実なことは分かっていません。
ただし、「上杉家刀剣台帳」で「三十五腰之内」と記載されている以下35振中の26振は、上杉家御手選三十五腰に含まれます。また、近年の研究により、残りの9振(※)についてもある程度推定されていますが、研究の更なる発展が待たれるところです。
(※)は推定のもの
三十五腰の中にある「姫鶴一文字」(ひめつるいちもんじ)は、上杉謙信が長すぎるからと言って、研師に磨上げるように指示しますが、預かった研師が夜に見た夢に美しい女性が現れ、「どうか切らずにお願い致します」と何度もお願いしたそうです。また、この女性の名を確認したところ「鶴と申します」と言われたことから姫鶴一文字とし、磨上げは行ないませんでした。
その姫鶴一文字のエピソードとして有名な話があります。あるとき、明治天皇が上杉家に立ち寄られた際に、上杉謙信の愛刀姫鶴一文字をご覧になられました。明治天皇は愛刀家としても知られており、この姫鶴一文字を特に気に入られ、ご自身のコレクションとして押形をされたそうです。
上杉謙信は、旗印に「毘」の文字を掲げ、自らを毘沙門天の生まれ変わりとしていたことで知られています。
毘沙門天は、持国天、増長天、広目天の四天王の一尊です。この毘沙門天を戦いの神として崇拝していた上杉謙信は、生涯70戦の戦いにおいて、敗戦は「臼井城の戦い」、「生野山の戦い」の2戦のみと、戦国最強の武将ならではの逸話も残っています。
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