幕末の志士として人気の高い「坂本龍馬」。
小説をはじめ、ドラマ・映画で何度も取り上げられ、好きな偉人や尊敬する歴史上の人物といったアンケートでも、坂本龍馬は必ず上位にランクインしています。
江戸で勝海舟と出会い、外国に負けない海軍を創設して対等に渡り合っていきたいと考えた坂本龍馬。坂本龍馬が書いた手紙に記載された「日本を今一度洗濯したい」という名言は有名です。
享年31歳で暗殺されるまでの坂本龍馬の生涯と、坂本龍馬という人物について、坂本龍馬の愛刀とともにご紹介します。
「坂本龍馬」は、1836年(天保7年)1月3日、高知県で坂本家の二男として生まれます。坂本家は土佐藩のなかで「郷士」という下級武士でしたが、商人出身の裕福な家庭。そこで、剣術を極めて出世するために、19歳になった坂本龍馬は剣術修行で江戸に出ます。
江戸での修行中、坂本龍馬の人生を大きく左右する事件が起きます。黒船来航です。アメリカ軍のペリーが率いた巨大な軍艦は、天皇を尊び外国を排除する「尊王攘夷」(そんのうじょうい)という思想を生み出し、この流れに坂本龍馬も引き込まれていきます。
一度は土佐に帰った坂本龍馬ですが、各地で高まっている「尊王攘夷運動」に参加するために、土佐藩から脱藩。江戸に戻って「勝海舟」(かつかいしゅう)と出会い、外国を排除するのではなく、外国に負けない海軍を創設して対等に渡り合っていきたいと考えるようになったのです。
この頃手紙に記した「日本を今一度洗濯したい」という名言は、広く知られています。
坂本龍馬の愛刀として知られている、2本の刀剣「勝光宗光合作刀」(かつみつむねみつがっさくとう)と、「陸奥守吉行」(むつのかみよしゆき)についてご紹介します。
坂本龍馬の日本刀として最も有名なのが、「陸奥守吉行」です。陸奥守吉行は、刀の号ではなく刀工の名前で、摂津国(大阪府)から土佐に移り住んだ人物です。
この刀は、坂本家の家宝として大切に保管されていた物で、坂本龍馬は兄に頼みこんで譲り受けました。近江屋で暗殺されたときも所持していたと伝えられています。坂本龍馬の死後、陸奥守吉行は数奇な運命をたどります。
1913年(大正2年)、当時保管されていた坂本家の子孫宅で火災に巻き込まれ、鞘は焼け、刀も変形。のちに研ぎ直されましたが、刀身に反りがなく特徴的な刃文もないことから、長い間陸奥守吉行と認められることはありませんでした。
その後、ひとりの学芸員による「うっすらと別の刃文が見える」という指摘により、文化財用のスキャナーで確認したところ、拳型丁字の特徴的な刃文の跡を発見。2015年(平成27年)5月10日に、ようやく坂本龍馬の最期の日本刀、陸奥守吉行として認定されました。
坂本龍馬の妻・おりょうは、1841年(天保12年)に京都で生まれました。本名は「楢崎龍」(ならさきりょう)ですが、おりょうという通称の方が浸透しています。
おりょうの父は医師で裕福な暮らしをしていましたが、「安政の大獄」で父が捕らえられたのちに病死し、楢崎家は生活が苦しくなりました。
おりょうは家族を養うため懸命に働くなか、母と妹が住み込みで働いている、土佐藩の志士達の隠れ家として知られる河原屋五兵衛の隠居所で1864年(文久4年)に坂本龍馬に出会ったと言われています。
坂本龍馬は、伏見にある寺田屋の女将・お登勢におりょうを預けました。お登勢は養女としておりょうを預かり、お春の名で働くことになります。
1866年(慶応2年)1月、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬が襲撃された際、入浴していたおりょうが襲撃の気配に気付き、裸に浴衣を羽織っただけの状態で、坂本龍馬に知らせたため、負傷したものの脱出に成功しました。寺田屋事件として有名なエピソードです。
そののちおりょうと結婚し、寺田屋事件で負傷した傷を霧島温泉で治療するため、おりょうと一緒に鹿児島に向かったのが、日本で初めての新婚旅行と言われています。
大政奉還から1ヵ月後の1868年(慶応4年)11月15日の夜、坂本龍馬は同郷の「中岡慎太郎」(なかおかしんたろう)と2人で近江屋にいるところを襲撃され、暗殺されてしまいます。享年31歳でした。
坂本龍馬は暗殺者によって、全身を30ヵ所以上も斬られています。死因となったと考えられるのは、頭を深く斬られたことです。坂本龍馬は斬られながらも、暗殺者に一矢報いるために刀を探したとされています。
坂本龍馬が暗殺された事件は「近江屋事件」と呼ばれ、実行犯は今も謎のままです。
最初に疑われたのは新撰組。しかし、新撰組局長の「近藤勇」(こんどういさみ)は否認しています。そののち、薩摩藩による陰謀説など様々な憶測がされますが、最も有力なのが、京都見廻組(みまわりぐみ)の説。
当時、京都見廻組に所属していた「今井信郎」(いまいのぶお)による自供が有力視されました。しかし、今井信郎の供述と現場の状況に食い違いがある点などから、供述の信憑性には疑問が残されています。
歴史的偉人である坂本龍馬を生んだ坂本家の家紋は、「組あい角に桔梗」というもの。
これは、組み合わさった2つの四角形のなかに桔梗紋が入っている家紋です。坂本龍馬の祖先である坂本家6代目「八郎兵衛直益」(はちろうべえなおまさ)の妻・さわのお墓から、組あい角に桔梗の家紋が確認されています。
桔梗紋は元々、鎌倉時代から江戸時代にかけて繁栄した一族・土岐家の家紋でした。桔梗の花は、その名称のなかに「吉」と「更」の文字が入っています。この二文字が「更に吉」と読めるので、桔梗の花は縁起が良いとされ、家紋として愛用されてきました。
桔梗紋を家紋とした歴史的人物として、坂本龍馬以外に有名なのが戦国武将「明智光秀」(あけちみつひで)です。
坂本龍馬は明治維新の立役者として、明智光秀は「本能寺の変」の首謀者として、日本の歴史に大きくかかわりました。もしかすると、桔梗紋は歴史を動かした人物と何か縁があるのかもしれません。
坂本龍馬のお墓は、京都市東山区の「京都霊山護国神社」(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)にあります。高知市にある「高知県護国神社」や東京都千代田区にある「靖国神社」でも坂本龍馬は祀られていますが、遺骨が納められているのは京都霊山護国神社だけです。この神社は、1868年(明治元年)に明治天皇の命によって創建されました。
毎年、坂本龍馬の命日である11月15日には、「龍馬祭」が行なわれています。
境内にある坂本龍馬のお墓は、小さな碑が建てられているだけで、日本を代表する偉人にしては簡素な物です。とは言え、ざっくばらんな性格だったとされる坂本龍馬には、このような飾り気のないお墓がふさわしいのかもしれません。
そして、その隣には同志である中岡慎太郎のお墓も並んでいます。また陵内には、彼らの功績を称えて銅像も建てられており、坂本龍馬のファンが訪れる場所として有名です。
他にも、桂小五郎や高杉晋作、久坂玄瑞ら、幕末を生きた志士達のお墓もありますので、京都市東山区の京都霊山護国神社を訪れたら、坂本龍馬をはじめとした志士達の安息をお祈りしましょう。
歴史に名を残すような偉大な人物には、印象的な名言が付き物です。坂本龍馬も数々の名言を残しましたが、そのなかでも代表的なものを2つご紹介しましょう。
これらには坂本龍馬の思想が如実にあらわれています。読んで心に刻めば、日本を変えるほどの偉業を果たした、坂本龍馬のような志を持った生き方ができるかもしれません。
この名言は、坂本龍馬が10代の頃に詠んだ歌です。祖母が歌会を行なっていたことから、坂本龍馬も幼少期から歌に通じていたとされています。
この名言の意味は、「世間は色々と言うけれども、そんな声は気にせずに自分が信じた道を歩めばいい」といったところでしょう。
10代の頃の坂本龍馬は学校の成績も振るわず、優秀とは言い難い若者でした。それでも、この名言からは、その胸のなかに信念があったことがうかがえます。まわりの声に惑わされずその信念を貫いたからこそ、坂本龍馬は偉業を成すことができたのかもしれません。
この名言は、前述の通り坂本龍馬が勝海舟と出会った頃のもので、姉の坂本乙女に送った手紙のなかに綴られています。坂本龍馬は筆まめなことで有名で、何通もの手紙を姉に出しました。
この名言の意味は、「私は日本を変革する決心をした」だとされています。「変革する」を「洗濯する」という表現で喩えたことからは、坂本龍馬がユニークなセンスを持っていたことが分かるでしょう。
実際に坂本龍馬は、日本を大きく変えた明治維新の立役者となる活躍を果たします。日本は坂本龍馬に洗濯されたことにより、古い価値観が払拭されて、近代化に進んだのでした。
坂本龍馬の偉大さを現在に伝えるのが、その出身地の高知市にある「高知県立坂本龍馬記念館」です。
ここでは、写真やイラスト、映像などを交えた体験型展示で、坂本龍馬が成し遂げた偉業について学ぶことができます。
また、坂本龍馬に関する貴重な資料も多数展示されており、姉の坂本乙女に送った手紙をはじめ、武器として携帯した日本刀やピストルなど、見応え十分です。
高知県の桂浜にある坂本龍馬の像が有名ですが、この記念館にある坂本龍馬の像もインパクトでは負けていません。「シェイクハンド龍馬像」と呼ばれ、握手ができるようになっています。
なお、高知市だけではなく北海道函館市にも坂本龍馬記念館はあります。なぜ北海道に坂本龍馬の記念館があるのかと言うと、かつて坂本龍馬は蝦夷地開拓を構想し、その子孫達が蝦夷地開拓に参加したからです。
坂本龍馬の偉業について知識を深めたいなら、高知県や北海道の記念館を訪れてみるのも良いでしょう。