渋沢栄一(旧字体:澁澤榮一)は、新しいお札の顔としても注目を集めている人物です。そんな渋沢栄一は、銀行やガス会社をはじめ、500にも上る会社の設立にかかわっており、近代日本の経済発展に大いに貢献しました。出身地の埼玉県深谷市にある「渋沢栄一記念館」には、渋沢栄一に関する多くの資料が展示されています。
なお、渋沢栄一の子孫達は主に実業家として活躍。渋沢栄一の息子が著した伝記『父 渋沢栄一』では、渋沢栄一の性格や家庭内での様子について知ることができます。
こちらでは、渋沢栄一の生涯はもちろん、その功績、名言、家系図などもまとめました。渋沢栄一とはどんな人物なのか、詳しく解説します。

渋沢栄一について

「渋沢栄一」は、日本の近代化・経済発展に多大な影響を与えた人物です。生涯で設立に携わった企業の数は500以上。日本のみならず、海外でも高い評価を受ける渋沢栄一とは、どのような人物だったのか。日本の「新10,000円札紙幣」の新しい顔として選ばれた渋沢栄一の生涯と、その功績をご紹介します。

渋沢栄一の功績

銀行・保険に関する功績

1873年(明治6年)、明治政府で渋沢栄一の直属の上司となった「井上馨」(いのうえかおる)や外交官の「アレクサンダー・フォン・シーボルト」、「ハインリヒ・フォン・シーボルト」兄弟らに協力を得て、渋沢栄一は「第一国立銀行」(のちの「第一銀行」、「第一勧業銀行」、現在の「みずほ銀行」)の総監役に就任。

渋沢栄一は、「3大メガバンク」と呼ばれる「三菱UFJ銀行」、「三井住友銀行」、「みずほ銀行」の他、日本各地にある地方銀行の前身となる銀行の設立に数多く関与した他、保険分野においては「東京海上日動火災保険」や「ニッセイ同和損害保険」など、大手の保険会社の設立にもかかわりました。

渋沢栄一が関与した銀行・保険会社は47社にも上り、時価総額に換算するとその額は29兆1,600億円にのぼると言われています。

放送・通信に関する功績

渋沢栄一は、「NHK」(日本放送協会)の歴史にも関与していることをご存知でしょうか。日本放送協会は、日本の公共放送を担う総務省所管の外郭団体(がいかくだんたい:官公庁から出資を受ける団体)です。現在は放送法に基づいて公共放送を行う特殊法人となっていますが、設立当初は「社団法人」として運営されていました。社団法人として誕生した当時、日本放送協会の顧問に渋沢栄一が就任。そして、以後、亡くなるまで顧問を務め、放送業の支援を続けます。

また、渋沢栄一は現在、日本最大手の広告代理店として知られる「株式会社電通」の前身「電報通信社」の誕生にも貢献。1901年(明治34年)7月、電報通信社の創業者「光永星郎」(みつながほしお)は、通信事業の資金調達を目的として「日本広告株式会社」を設立。このとき、渋沢栄一は賛助員として広告業を支援しています。設立から4ヵ月後、光永星郎は「電報通信社」を設立。その後、改組(かいそ:組織を改めること)や合併が行われますが、その間も渋沢栄一は変わらず支援をし続けています。

一方で、渋沢栄一は対外的通信社の支援にも注力しました。当時、渋沢栄一は渡米実業団の団長として、アメリカとの民間外交を行っていたのですが、このときアメリカでは、日本関連の記事が少ないばかりか、記事のなかには日本を蔑むような悪意ある報道がされていたのです。渋沢栄一は、こうした事態を改善するため、日本から海外にニュースを積極的に発信する「国際通信社」の設立を決意。

しかし、日本を植民地とするロイターの前では、渋沢栄一の目的は果たすことができませんでした。なお、国際通信社はその後、現在の「時事通信社」、「共同通信社」の起源となり、渋沢栄一は日本における通信社の歴史にも深く関与することになったのです。

福祉・医療に関する功績

現在、東京都板橋区には、病院と研究所が一体となって高齢の患者を中心に、高度医療を提供する大規模総合病院「東京都健康長寿医療センター」が存在。その前身となる「養育院」(よういくいん)の運営にも、渋沢栄一はかかわっていました。

養育院はもともと、生活困窮者・病人・孤児・老人・障がい者など、社会的な弱者を保護するための施設として開設された施設です。江戸時代に設立された無料の医療施設「小石川養生所」(こいしかわようじょうしょ)をもとにして作られた養育所で、渋沢栄一は開設当時、「七分積金」(しちぶつみきん:町費倹約によって節減した7割を積立して、貧民救済などに割り当てた積金政策)の管理を担当していました。

のちに養育院の運営にも関与するようになり、1876年(明治9年)には養育院事務長に就任。財政難に陥っていた養育院を立て直すために奔走し、その努力が実ったのが1890年(明治23年)。養育院は、東京市営の施設となり、渋沢栄一はこのときに院長に就任します。

以後、渋沢栄一は亡くなるまで養育院の院長として活躍。現在でも東京都健康長寿医療センターの敷地内には、渋沢栄一の銅像が佇んでいます。

教育に関する功績

渋沢栄一が生涯に亘って運営や設立に携わった教育機関は合計で164校。そして、渋沢栄一が特に力を注いだのが「商業高校」と「女子教育」の強化でした。

当時は、著名な国立大学を卒業した人物こそが、エリートと見なされていた時代です。しかし、渋沢栄一は実際に企業を運営できる人材を育成する専門の「商業教育」が何よりも重要と考えました。日本を支える人材を育てるために、渋沢栄一は「東京商業学校」(現在の一橋大学)や「高千穂商業学校」(現在の高千穂大学)、「大倉商業学校」(現在の東京経済大学)、「名古屋商業学校」、「横浜商業学校」など、多くの教育機関の設立に携わったのです。

また、渋沢栄一は女子教育にも尽力していますが、このときに渋沢栄一は「女性の社会進出」ではなく、「家庭を支える良妻賢母を増やしたい」と言う思いがあったと言います。当時、日本の女性はそのほとんどが高等教育を受けずに生きていました。そのため、文字を読むこともできないと言う人が少なくなかったのです。

女性にも教養を持ってもらうということは、その子ども達の教育レベルを向上させることにも繋がります。女子教育の推進に前向きだった「伊藤博文」や「勝海舟」らとともに「女子教育奨励会」(じょしきょういくしょうれいかい)を設立。渋沢栄一は、はじめ、「良妻賢母の育成」を狙って立ち上がりましたが、のちに女性が活躍できる社会になるように「日本女子大学校」(現在の日本女子大学)や「東京女学館」など、現在でも名門と謳われる女学校の創立にも関与しました。そして、渋沢栄一は晩年になるまで、経営をはじめ様々な支援を惜しまずに行ったのです。

日本を代表する企業・組織に関する功績

ライフラインに関する功績

渋沢栄一は、今や日本のみならず、世界中で不可欠な存在となった電気やガスなどの「ライフライン」に関する設立にも携わっています。電力事業では、1883年(明治16年)に「東京電灯株式会社」(現在の東京電力株式会社の前身)の発起人として関与。

また、東京府(現在の東京都)の「東京瓦斯会社」(とうきょうがすがいしゃ:現在の東京ガス株式会社)や「名古屋瓦斯株式会社」(なごやがすかぶしきがいしゃ:現在の東邦瓦斯株式会社[とうほうがすかぶしきがいしゃ])などのガス事業の計画・創設にも関与しました。

飲料メーカーに関する功績

渋沢栄一は、日本のツートップとも言える2つのビール会社「サッポロビール株式会社」と「アサヒビール株式会社」の設立にもかかわっています。しかも、この2社の設立はほとんど同時期。渋沢栄一は、2つの同業者をあえて同時期に育成することでライバル関係を意識させ、ビール業界の発展を目指したのです。

渋沢栄一が追い続けた「道徳経済合一説」とは

渋沢栄一は、生涯をかけて「道徳経済合一説」(どうとくけいざいごういつせつ)を追い続けました。道徳経済合一説とは、企業の目的が「利潤の追求」であったとしても、その根底には「道徳」が必要であり、国ないしは人類全体の繁栄に対して責任を持つことを忘れてはならないと言う思想のこと。

事業においては、社会貢献や人々を幸せにする「公益」を追求すること(道徳)と、企業や事業を継続させるために不可欠となる「利益」を追求すること(経済)のどちらも欠けてはならないと言うのが渋沢栄一の考えでした。しかし、道徳と経済の両立は簡単なことではありません。それでも渋沢栄一は、それを実現させることに成功しました。

なぜ渋沢栄一は、道徳と経済を両立させることができたのか。その理由のひとつとして、「目の付け所」が挙げられます。渋沢栄一が携わった事業は、人々の生活に欠かせないインフラ事業や保険業など、その多くが海外ですでにはじまっていて、日本ではまだ展開していないサービスだったのです。

人々の生活を豊かにする一方で、しっかりと利益を得ることが可能な事業を見つけられた理由。それは、渋沢栄一がヨーロッパ留学をはじめ、多くの人々と交流し、様々な情報を交換したからです。

現代の日本は、グローバル化を果たし、新興国への支援も数多く行っています。そして、こうした状況において大切なのは、ただ利益ばかりを追い求めて支援を続けるのではなく、公益に繋がっているのかを考えること。つまり、その国を豊かにする上で、公益と利益のどちらも重要だと考えられる経営者が求められるのです。

渋沢栄一は、500以上の事業の設立に携わりましたが、その経営自体は他の人へ委ねました。自ら経営を行うのではなく、より多くの人に「公益」を追求してほしいと考えたのです。

様々な事業の設立に携わった、日本資本主義の父・渋沢栄一。日本における経済近代化の最大の功労者として、渋沢栄一が行った数々の功績は現在でも高く評価されています。

渋沢栄一の功績と基礎知識

渋沢栄一 肖像(深谷市所蔵)

渋沢栄一 肖像(深谷市所蔵)

「実業界の父」、「日本資本主義の父」とも呼ばれる「渋沢栄一」(しぶさわえいいち)。ドラマや新札で話題の渋沢栄一とは、どんな人なのでしょうか。
渋沢栄一は日本初の銀行を設立しただけでなく、様々な種類の会社設立にも携わった人物です。東京都北区を拠点に近代日本の経済を支え、明治財界のリーダーとして名を馳せていました。その人生は農民の生まれから尊王攘夷の運動家、江戸幕府の幕臣、明治政府の官僚、財界を牽引する実業家と、躍進を遂げているのです。
渋沢栄一はどんな人物だったのか、そのルーツから晩年までを詳しくご紹介。さらに関連する人物、名言や家系図・子孫、ゆかりの学校・大学、執筆した本なども解説していますので、渋沢栄一についての幅広い知識が身に付きます。

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こちらでは、東京都北区を中心に活躍した渋沢栄一の幅広い情報をご紹介。渋沢栄一がどんな人か紐解くとともに、かかわった会社・銀行をはじめ現代でも見られる功績などを解説しています。
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