江戸時代の重要用語

三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行) 
/ホームメイト

「三奉行」(さんぶぎょう)とは、寺社、及び寺社領の管理を行った「寺社奉行」(じしゃぶぎょう)、江戸市中の立法・行政・警察・消防などの市政を司った「町奉行」(まちぶぎょう)、江戸幕府の財政と幕府直轄地の租税・財政・行政を担当した「勘定奉行」(かんじょうぶぎょう)の総称です。「老中」(ろうじゅう:江戸幕府の重職)の諮問機関(しもんきかん:専門的な立場から政策決定に意見する機関)である、「評定所」(ひょうじょうしょ)の主な構成員であり、三奉行は「評定所一座」(ひょうじょうしょいちざ)とも呼ばれました。

江戸時代の重要用語

三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行) 
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「三奉行」(さんぶぎょう)とは、寺社、及び寺社領の管理を行った「寺社奉行」(じしゃぶぎょう)、江戸市中の立法・行政・警察・消防などの市政を司った「町奉行」(まちぶぎょう)、江戸幕府の財政と幕府直轄地の租税・財政・行政を担当した「勘定奉行」(かんじょうぶぎょう)の総称です。「老中」(ろうじゅう:江戸幕府の重職)の諮問機関(しもんきかん:専門的な立場から政策決定に意見する機関)である、「評定所」(ひょうじょうしょ)の主な構成員であり、三奉行は「評定所一座」(ひょうじょうしょいちざ)とも呼ばれました。

寺社奉行

概要

寺社奉行とは、三奉行の中で最高の格式を持つ役所。江戸幕府将軍直属の機関で、5~10万石の譜代大名(ふだいだいみょう:徳川家康[とくがわいえやす]が小大名だった時代から仕えた家臣の家系)から選任されました。

定員は当初3名でしたが、のちに4名となり、自らの屋敷を奉行所とし、月番(つきばん:1ヵ月交代)で勤務することが決められています。

寺社奉行

寺社奉行

歴史

江戸幕府が樹立して間もない1613年(慶長18年)には、政策担当であった「金地院崇伝」(こんちいんすうでん:臨済宗の僧侶)が寺社行政を一手に担いましたが、1635年(寛永12年)に「安藤重長」(あんどうしげなが)、「松平勝隆」(まつだいらかつたか)、「堀利重」(ほりとししげ)の3名が奉行職として就任。そこから江戸幕府の一機関として定着したと言われます。

職務

寺社、及び寺社領の管理、宗教統制、関八州(関東の8ヵ国)の訴状受理などを行いました。また全国の神官、僧侶の管理、楽人(がくにん:雅楽の演奏者)、検校(けんぎょう:盲目の僧侶)、連歌師(れんがし)、陰陽師(おんみょうじ:江戸時代における占い師)、古筆見(こひつみ:筆跡鑑定の専門家)、碁将棋所(ごしょうぎどころ)などの監督、取り締まりも担当。

他にも江戸幕府将軍が「寛永寺」(かんえいじ:東京都台東区)、「増上寺」(ぞうじょうじ:東京都港区)に「御成」(おなり:出掛けること)になる前日に、見回りの手配なども担当したと記録されます。

町奉行

概要

町奉行は、初期には大名が任命されたこともありましたが、のちに3,000石の「旗本」(はたもと:江戸幕府将軍直属の家臣で、将軍への謁見が許された者)より専任。定員は2名。

江戸市中に南北2つの奉行所があり、月番で任務に当たりました。大坂(おおさか:現在の大阪府大阪市)の治安維持を担った「大坂町奉行」などもありましたが、単に町奉行と呼ぶ場合は江戸町奉行を意味したとされます。

町奉行

町奉行

歴史

徳川家康が関東に移封(いほう :領地替え)された頃から江戸の治安維持を任されていた「板倉勝重」(いたくらかつしげ)と「彦坂元正」(ひこさかもとまさ)が、町奉行の原型と言われます。江戸市政全体の担い手を町奉行と呼ぶようになったのは、1606年(慶長11年)に就任した「米津田政」(よねきつたまさ)と「土屋重成」(つちやしげなり)の頃からでした。

職務

江戸市中の行政・司法・警察を担当。与力(よりき:江戸市中の行政・司法・警察の任に当たった役人)と同心(どうしん:与力を補佐して江戸市中を巡回した下級役人)を抱え、江戸市中の町民、囚獄(しゅうごく:牢獄)、小石川養生所(こいしかわようじょうしょ:江戸幕府が小石川薬園内に設けた施療施設)などを監督しました。

他にも消防の指揮、火付け(ひつけ:放火犯)・盗賊の吟味(ぎんみ:取り調べ)、道路・橋・上水の管理、町民の訴訟受付などを担当。江戸の町民生活にかかわるすべてを監督した職務だけに、そこから様々なドラマが生まれたと言われています。それが「大岡忠相」(おおおかただすけ)や「遠山景元」(とおやまかげもと)などの名奉行物語が誕生するきっかけとなったのです。

組織

町奉行の組織は南組(南町奉行所)・北組(北町奉行所)があり、それぞれ与力25人、同心120人を配下として抱え、月番で上記の幅広い業務をこなしました。あまりに激務であったため、在職中の死亡率は他の役職よりはるかに高かったというデータがあります。

大岡忠助

大岡忠助は1677年(延宝5年)生まれ。1717年(享保2年)に町奉行(南町奉行)に就任し、江戸幕府第8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が推進した「享保の改革」(きょうほうのかいかく)で、多くの事業を実現しました。

例えば江戸市中の火事対策として「町火消」(まちひけし)を創設し、延焼を防ぐ「火除地」(ひよけち)と呼ばれる空地を整備。無料の医療施設である「小石川養生所」の設立、「青木昆陽」(あおきこんよう)によるサツマイモ栽培の推奨など、享保の改革を力強く前進させる原動力となりました。今日、書物の最終ページにある「奥付」(おくづけ)を義務化したのも大岡忠助だったと言われます。

また大岡忠助の名裁きは「大岡政談」(おおおかせいだん)として講談などで語り継がれ、現代でもテレビドラマ化されて好評です。ただし、語り継がれる内容のほとんどは他人の逸話、中国の逸話などがもとになっており、大岡忠助自身の実話は多くないと考えられています。

遠山景元

遠山景元は1793年(寛政5年)生まれ。1840年(天保11年)に、町奉行(北町奉行)に就任しています。しかし翌1841年(天保12年)に始まった「天保の改革」(てんぽうのかいかく)で、江戸幕府が町民に厳しい贅沢の禁止などを命じると、遠山景元は公然とこれを批判。

老中「水野忠邦」(みずのただくに)に対して「町人への贅沢を禁止しながら、武士に適用しないのは間違い。町人も分相応の生活をできるようにすべき」と書いた書簡を送り付けています。しかし、江戸幕府第12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)が遠山景元の意見を却下。

そのあと、芝居小屋の廃止を目指す、江戸幕府に対して遠山景元が猛反発したため、芝居小屋の廃止は中止に。喜んだ芝居関係者が「遠山の金さん」物を上演したことで、一気に江戸の人々の人気を集めました。

悪人達に桜吹雪の彫り物を見せるシーンは有名ですが、遠山景元が彫り物をしていたという証拠は残っていません。ただし裁判上手であったことは確かで、名裁きを徳川家慶から褒められたという逸話が残っています。

勘定奉行

概要

勘定奉行は旗本より専任。老中の支配下にあり、最初は勘定頭(かんじょうがしら)と呼ばれました。定員は4名です。

歴史

勘定奉行成立の経緯は明らかではなく、江戸幕府成立当初は「大久保長安」(おおくぼながやす)、「伊奈忠次」(いなただつぐ)らの老中が江戸幕府の財政を管理していました。1609年(慶長14年)に「松平正綱」(まつだいらまさつな)が、会計の総括を命じられます。

1635年(寛永12年)、江戸幕府は関東の天領(てんりょう:江戸幕府の直轄領)と農民の訴訟の取り扱いを松平正綱・「伊丹康勝」(いたみやすかつ)・「伊奈忠治」(いなただはる)・「大河内久綱」(おおこうちひさつな)・「曾根吉次」(そねよしつぐ)の5名に月番で担当するよう命令。

これが勘定奉行の始まりです。1721年(享保6年)に勘定奉行は「公事方」(くじかた:天領の訴訟を担当)と「勝手方」(かってがた:租税の出納・財政を担当)に分かれ、2名ずつが1年交代で担当しました。

勘定奉行

勘定奉行

職務

江戸幕府の財政、訴訟を取り扱った他、天領の租税徴収や訴訟、全国の郡代(ぐんだい:天領を治め、租税を徴収した役人)、代官(だいかん:郡代より小規模な天領を支配した役人)、蔵奉行(くらぶぎょう:江戸幕府が江戸・京都・大坂に築いた米蔵を管理した役人)、金奉行(かねぶぎょう:江戸幕府の金庫の出納を司った役人)、林奉行(はやしぶぎょう:天領の山林を管理し、材木の伐採・検分・運搬を管理した役人)、油漆奉行(うるしぶぎょう:江戸幕府御用の漆と、ごま油などの灯油の管理・支給を行った役人)など、幅広い職域を司りました。

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