鎌倉時代の重要用語

日蓮 
/ホームメイト

「日蓮」(にちれん)は、鎌倉時代中期の僧侶です。安房国(あわのくに:現在の千葉県)で生まれ16歳で仏門に入り、「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市)で修業。経典「妙法蓮華経」(みょうほうれんげきょう)こそ、正しい教えであると確信し布教活動に入ります。ところが、布教のなかで他の宗派を激しく批判したり、鎌倉幕府に対しても批判を繰り返したりしたため、2度命を狙われ、2度流刑に。しかし日蓮は、それでも自分が信じた教義を絶対に曲げない信念の人でした。

鎌倉時代の重要用語

日蓮 
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「日蓮」(にちれん)は、鎌倉時代中期の僧侶です。安房国(あわのくに:現在の千葉県)で生まれ16歳で仏門に入り、「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市)で修業。経典「妙法蓮華経」(みょうほうれんげきょう)こそ、正しい教えであると確信し布教活動に入ります。ところが、布教のなかで他の宗派を激しく批判したり、鎌倉幕府に対しても批判を繰り返したりしたため、2度命を狙われ、2度流刑に。しかし日蓮は、それでも自分が信じた教義を絶対に曲げない信念の人でした。

鎌倉仏教で最も過激な思想家

12歳で立てた誓い

日蓮

日蓮

日蓮が生まれた1222年(承久4年)は、鎌倉幕府と朝廷の合戦「承久の乱」(じょうきゅうのらん)の翌年。そんな戦乱の時代を体験した日蓮は、12歳になると「虚空蔵菩薩」(こくぞうぼさつ:知恵を司る仏)に「我を日本第一の智者となし給え」と願をかけました。

それは名誉欲や功名心からではなく、純粋に「自分が日本一の智者となり、戦乱の世を終わらせて平和な世を実現する」と考えたからだと言われます。そして生家に近い、「清澄寺」(せいちょうじ:千葉県鴨川市)へ入り16歳で出家。

17歳から全国を行脚(あんぎゃ:僧侶が諸国を歩いて修行すること)して、鎌倉の諸寺・比叡山延暦寺・「三井寺」(みいでら:滋賀県大津市)・「四天王寺」(してんのうじ:大阪府大阪市)などで、勉学に励みます。

その間に膨大な経典を学び、日蓮が最終的に選んだのが妙法蓮華経でした。日蓮は故郷の安房国へ戻ると、妙法蓮華経の素晴らしさを伝えるため布教活動を開始。そして、日蓮が興したこの宗派は、開祖の名を取って「日蓮宗」(にちれんしゅう)と呼ばれました。

他の宗派を一切認めない姿勢

日蓮宗の教義は、簡単に言えば「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう:私は法華経を信じます)との「題目」(だいもく:文句のこと)を唱えれば、極楽往生できるというものでした。

当時、日蓮宗の他にも「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の念仏を唱えれば極楽往生できると説いた「法然」(ほうねん)の「浄土宗」、法然の弟子「親鸞」(しんらん)の「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)、さらに禅の修行によって仏道を極めようとする「禅宗」(ぜんしゅう)など、独自の教義を持つ様々な宗派が誕生しています。

そして日蓮宗の最大の特徴は、法華経以外の経典を認めず、他の宗派を全面否定したことでした。日蓮は「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」(ねんぶつむげん、ぜんてんま、しんごんぼうこく、りつこくぞく)という言葉を残しています。

これは「四箇格言」(しかかくげん)と呼ばれ、他の宗派を徹底的にこきおろした悪口でした。宗教家と言えば穏やかで争いを好まないというイメージがありますが、日蓮は他宗派へ敢然と戦いを挑む、極めて過激な思想の持ち主だったのです。

4つの法難

浄土宗門徒に殺されそうになる

北条時頼

北条時頼

日蓮の過激な思想をよく表しているのは、1260年(文応元年)に日蓮が鎌倉幕府へ送った「立正安国論」(りっしょうあんこくろん)です。

これは、5代執権だった「北条時頼」(ほうじょうときより)へ日蓮が提出した「建白書」(けんぱくしょ:上の者に対して意見を記した文書)。

このなかで日蓮は、「日本に平和が訪れないのは、法華経が大切にされていないからだ」と批判。そして「念仏(浄土宗のこと)は捨てて、法華経を拠り所とせよ。さもないと外国から侵略されて国が亡びるぞ」と主張しました。

熱心な禅宗門徒であった北条時頼は、この意見を黙殺。しかし、浄土宗の門徒達は怒りが収まらず、日蓮が暮らしていた「草庵」(そうあん:小さく粗末な住まいのこと)に火を放ちます。

日蓮は弟子に助けられて、辛うじて脱出。日蓮は生涯で4度の大きな災難(四大法難[しだいほうなん])に遭遇しましたが、この放火事件が最初の法難だと言われています。

刑場で九死に一生を得る

殺されそうになっても、日蓮は他宗派の非難をやめませんでした。1261年(弘長元年)には鎌倉へ戻り、再び街頭で他宗派を非難する説法を開始。浄土宗門徒は、日蓮の行動を鎌倉幕府へ訴えます。日蓮の説法は、「御成敗式目」(ごせいばいしきもく:鎌倉幕府が定めた法律)の12条「悪口を言ってはいけない」に違反していると浄土宗門徒は通報したのです。

鎌倉幕府は日蓮を逮捕し、伊豆国(いずのくに:現在の静岡県伊豆半島)への流罪を命じました。これが四大法難の2つ目です。そのあと、1263年(弘長3年)に流罪を赦免。

1264年(文永元年)に母の看病のため、故郷・東条御厨(とうじょうみくりのみや:現在の千葉県鴨川市)へ戻った日蓮は、東条御厨の地頭(じとう:荘園の管理職)「東条景信」(とうじょうかげのぶ)から襲撃され、重傷を負います。

これが四大法難の3つ目でした。1268年(文永5年)、「元」(げん:13~14世紀に中国を統一したモンゴル帝国)の皇帝「フビライ」から、日本へ服属を求める国書が届きます。これは、まさに日蓮が予言した「外国が攻めてくる」という事態。

日蓮は、再び鎌倉幕府に立正安国論を提出すると、今回も逮捕されました。御家人(ごけにん:鎌倉将軍と主従関係を結んだ武士)の筆頭「平頼綱」(たいらのよりつな)の取り調べに対して、日蓮は「鎌倉の寺を焼き、浄土宗の僧の首をはねるべし」と主張。

平頼綱は、佐渡国(さどのくに:現在の新潟県佐渡市)への流罪を申し付けます。しかしこれは表向きで、実際は龍口(たつのくち:現在の神奈川県藤沢市にあった鎌倉幕府の刑場)にて、日蓮を斬首する段取りでした。

ところが刑場に着くと、不思議な光の球が現れ、首をはねようとする武士の目がくらむほどの事態になったため、処刑は中止。日蓮は、予定通り佐渡へ流されることになりました。これが四大法難の4つ目でした。

四大法難は法華経の正しさの証明

なぜ日蓮は、これだけ迫害を受けても信念を曲げなかったのでしょうか。答えは、日蓮が信奉した法華経のなかにありました。法華経には「この経を広めようとする者は、それを理解しない者から迫害に遭うであろう」という一節があるのです。

つまり日蓮から見れば、迫害を受ければ受けるほど法華経の正しさが証明され、引いては自分の信念が正しかったことを確信していったのでした。

法華経への信仰を貫く

法華経のために命を捨てる覚悟

佐渡国へ流されてから、日蓮は自身の思想をますます深めていきます。日蓮の独自の教えをまとめた「観心本尊抄」(かんじんほんぞんしょう)も、佐渡国で書かれた物でした。1274年(文永11年)2月、流罪を赦免された日蓮は、鎌倉幕府へ呼び出されます。

実はこの時、元が侵攻する直前であり、鎌倉幕府はこの状況を以前から予言していた日蓮の力を借りようとしたのです。再び日蓮の前に現れた平頼綱は、「寺院を与えるから、元軍を追い払うための祈祷を行ってほしい」と依頼。

しかし日蓮は「そのためには日蓮宗以外の宗派を認めないことが条件である」と答え、依頼をきっぱりと拒否します。そして鎌倉を去ると、身延(みのぶ:現在の山梨県南巨摩郡身延町)に住む門弟の屋敷へこもってしまいました。

自分の予言の正しさを信じて疑わない日蓮は、このとき日本とともに自分の命が果てることを覚悟していたのではないかと言われています。

半分だけ当たった予言

1274年(文永11年)10月、ついに元軍が襲来。しかし鎌倉幕府軍の奮闘により、元軍は撤退せざるを得ませんでした。1281年(弘安4年)に、2度目の襲来がありましたが、奇跡的に台風が直撃し、このときも鎌倉幕府軍は元軍を撃退しています。

つまり、日蓮が予言してきた「外国が攻めてきて日本が滅びる」は、前半部分は当たったものの、後半部分の「日本が滅びる」は外れてしまったのでした。日蓮にとって、これはあり得ない結果。蒙古軍全滅の知らせを聞いた日蓮は「そんなはずはない。これは私をだまそうとする嘘に違いない」と叫んだと言われます。

しかし、それが真実だと知って気を落とした日蓮は重病を患い、翌年の1282年(弘安5年)に死去。「久遠寺」(くおんじ:山梨県南巨摩郡)へ葬られました。

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