大正時代の重要用語

美濃部達吉 
/ホームメイト

「美濃部達吉」(みのべたつきち)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した法学者、憲法学者、政治家です。兵庫県に生まれ、「東京帝国大学」(現在の東京大学の前身)を卒業後、内務省へ入省。ヨーロッパ各国に留学する機会を得て、広く外国憲法を研究します。帰国後は、母校・東京帝国大学で教鞭を執り、のちに名誉教授となりました。1912年(大正元年)には、「統治権の主体は国家にあり、天皇はその最高機関とする」という「天皇機関説」を発表。軍、右翼から強く非難され、政権を巻き込んだ大問題に発展し、貴族院議員の職を辞職。「第2次世界大戦」後の憲法改正の際には、顧問として再度活躍することになります。「日本国憲法」施行の翌1948年(昭和23年)、憲法施行を見守るように死去。75歳でした。

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美濃部達吉 
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「美濃部達吉」(みのべたつきち)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した法学者、憲法学者、政治家です。兵庫県に生まれ、「東京帝国大学」(現在の東京大学の前身)を卒業後、内務省へ入省。ヨーロッパ各国に留学する機会を得て、広く外国憲法を研究します。帰国後は、母校・東京帝国大学で教鞭を執り、のちに名誉教授となりました。1912年(大正元年)には、「統治権の主体は国家にあり、天皇はその最高機関とする」という「天皇機関説」を発表。軍、右翼から強く非難され、政権を巻き込んだ大問題に発展し、貴族院議員の職を辞職。「第2次世界大戦」後の憲法改正の際には、顧問として再度活躍することになります。「日本国憲法」施行の翌1948年(昭和23年)、憲法施行を見守るように死去。75歳でした。

美濃部達吉の生涯

美濃部達吉

美濃部達吉

美濃部達吉は1873年(明治6年)、兵庫県加古郡高砂町(ひょうごけんかこぐんたかさちょう:現在の兵庫県高砂市)に誕生。

漢方医の次男として生を受け、「旧制高砂小学校」、「小野中学校」(現在の兵庫県立小野高校)では優秀な成績をおさめ、幼少の頃から神童とされました。

その後、「第一高等中学校」(現在の東京大学教養学部の前身)、1894年(明治27年)には、「東京帝国大学」法科大学政治学科(現在の東京大学法学部の前身)へ進学し、天皇機関説を論じる「一木喜徳郎」(いちきとくろう)に師事。東京帝国大学卒業後は、高等文官試験(こうとうぶんかんしけん:高級官僚の採用試験)の行政科に合格し、内務省に入省しました。

1899年(明治32年)に、ドイツ、フランス、イギリスへ留学し、ヨーロッパ諸国の法制度を学び帰国。翌1900年(明治33年)には、東京帝国大学の助教授、1902年(明治35年)に東京帝国大学の教授へ就任しました。1912年(大正元年)に発表した「憲法講話」で天皇機関説を論じ、「天皇主権説」(国家の主権は天皇にあるとする説)を唱える憲法学者「上杉愼吉」(うえすぎしんきち)と、論争へ発展。しかし、美濃部達吉の天皇機関説は、123代「大正天皇」、「裕仁親王」(のちの124代・昭和天皇)、政治家達にも受け入れられました。また同年、東京帝国大学法科大学長へも選任されます。

1931年(昭和6年)には、貴族院(華族[旧公家・大名層]から成る国会議員)の勅撰議員(ちょくせんぎいん:政府の推薦によって天皇が任命する終身議員)に選出。1934年(昭和9年)、長く勤めた東京帝国大学を定年し、名誉教授の称号を受けます。

翌1935年(昭和10年)には、議会で美濃部達吉の天皇機関説が非難され、不敬罪(ふけいざい:天皇、皇族への名誉を傷付ける罪)を疑われることに。同時に「憲法撮要」(けんぽうさつよう)など、美濃部達吉の著書の一部が発禁処分となり、貴族院議員を辞職へ追い込まれます。さらに、翌年の1936年(昭和11年)には、右翼の暴漢に襲撃され負傷しました。

第2次世界大戦後は、内閣の憲法問題調査会顧問、枢密顧問官(天皇の憲法に対する疑問へ答える諮問機関・枢密院の一員)として憲法改正問題にかかわりますが、日本国憲法による「国家の主権は国民にある」との考えに美濃部達吉は、「国体の変更である」として批判的な態度を取り、国内の世論から非難されます。1947年(昭和22年)には、日本初の大学通信課程を「法政大学」(東京都千代田区)に設立し、初代部長に就任。その後も憲法の研究を積み、著書、論文を書きますが、日本国憲法施行の翌年1948年(昭和23年)、尿毒症のため自宅で75歳の生涯に幕を下ろしました。

政争にまで発展した「天皇機関説」

1889年(明治22年)に公布された「大日本帝国憲法」では、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬……」(総攬[そうらん]:政治を掌握すること)と定められており、天皇主権の原則が明確化されています。そして、大日本帝国憲法の解釈としては、美濃部達吉の東京帝国大学法科大学長の前任者「穂積八束」(ほづみやつか)らによる「天皇主権説」が主流でした。

これに対し、美濃部達吉が師事した一木喜徳郎は、天皇の神格的存在を否定し、「天皇は国家の機関であって主権を持つものではない」とする天皇機関説を唱えたのです。教え子である美濃部達吉もこの考えを論じ、1920年代には天皇機関説が、ほとんど国家公認の憲法学説となっていました。

しかし、1930年代に入り、自由主義(自由と平等な権利に基づく政治哲学)勢力を排除しようとする、軍及び右翼の動きが活発になると、1935年(昭和10年)に、政治的主導権を握ろうと軍、右翼による「国体明徴運動」(こくたいめいちょううんどう)が起こり、天皇機関説を提唱する美濃部達吉を排撃したのです。

そして、貴族院本会議の場で、貴族院議員の「菊池武夫」(きくちたけお)が天皇機関説非難の演説を行い、政争へ発展する「天皇機関説事件」が勃発。菊池武夫に対して美濃部達吉は、のちに名演説と称される「一身上の弁明」で反論します。

「天皇主権を否定した訳ではない。天皇機関説を反逆的思想と言っているが、それは勘違いだ」と分かりやすい内容で弁明し、他の貴族院議員から拍手が起こるほど、攻撃してきた菊池武夫をはじめ人々の心に強く訴えたのでした。

しかしながら、「岡田啓介」(おかだけいすけ)を内閣総理大臣とする当時の内閣は、2度「国体明徴声明」(軍部の圧力によって出された政府声明)を出さざるを得なくなり、「天皇機関説は日本の国体に反する説である」と公式に宣言させられます。

その後、美濃部達吉は貴族院を辞職に追いやられ、天皇機関説も排除という結果になりました。その後、美濃部達吉は、第2次世界大戦後の憲法改正作業のなか、憲法問題調査会顧問、枢密(すうみつ)顧問官として関与することになります。

華麗なる同期、弟子、親族達

東京帝国大学に学び、教職に就いていた美濃部達吉の周辺には数多くの著名人がいます。東京帝国大学の同期には、東京帝国大学の教授となった国際法学者「立作太郎」(たちさくたろう)、公法学者の「筧克彦」(かけいかつひこ)。

東京帝国大学の門下生には、憲法学の「清宮四郎」(きよみやしろう)、「宮沢俊義」(みやざわとしよし)、「鵜飼信成」(うかいのぶしげ)、「柳瀬良幹」(やなせよしもと)、「松岡修太郎」(まつおかしゅうたろう)、「中村哲」 (なかむらあきら)、行政法学では「田中二郎」(たなかじろう)、「宇賀田順三」(うがだまさぞう・じゅんぞう)ら名だたる面々がおり、なかでも清宮四郎と宮沢俊義は、戦後日本の憲法学界を代表する権威として広く知られています。

また親族にも著名人は多く、美濃部達吉の長男は、経済学者であり東京都知事を3期12年務めた「美濃部亮吉」(みのべりょうきち)、妻「美濃部多美子」の父である「菊池大麓」(きくちだいろく)は、東京帝国大学、京都帝国大学(現在の京都大学の前身)の総長を歴任した人物です。

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