江戸時代の重要用語

井原西鶴 
/ホームメイト

1642年(寛永19年)、商業都市として著しく発展する大坂に、ひとりの人物が誕生しました。のちに、日本中を笑いで包むことになる「井原西鶴」(いはらさいかく)です。俳諧師(はいかいし:おかしみのある俳句の師匠)として人気を博したのち、当時の風俗・人情を面白おかしく書きつづった物語「浮世草子」(うきよぞうし)を発表。井原西鶴の作品は好色物・武家者・町人者などと多彩で、笑いのなかに理不尽な世の中への風刺が込められ、ときに涙を誘いました。現代につながる大阪のお笑い文化は、井原西鶴から始まったと言っても過言ではありません。

江戸時代の重要用語

井原西鶴 
/ホームメイト

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1642年(寛永19年)、商業都市として著しく発展する大坂に、ひとりの人物が誕生しました。のちに、日本中を笑いで包むことになる「井原西鶴」(いはらさいかく)です。俳諧師(はいかいし:おかしみのある俳句の師匠)として人気を博したのち、当時の風俗・人情を面白おかしく書きつづった物語「浮世草子」(うきよぞうし)を発表。井原西鶴の作品は好色物・武家者・町人者などと多彩で、笑いのなかに理不尽な世の中への風刺が込められ、ときに涙を誘いました。現代につながる大阪のお笑い文化は、井原西鶴から始まったと言っても過言ではありません。

井原西鶴の生涯

商家のお坊ちゃんとして誕生

井原西鶴

井原西鶴

大坂の裕福な商家に生まれた井原西鶴は、本名を「平山藤五」(ひらやまとうご)と言います。

早くに父親を亡くして家業を継ぎますが、典型的な坊ちゃん気質で自由奔放に育った井原西鶴は、少年時代から俳諧に夢中になり、商売を使用人に任せて14歳で俳諧の世界へ。

その実力は確かで、20歳の頃に俳諧の優劣を判定する点者(てんじゃ)に選ばれたほど。

当時、俳諧の本場は京都で、井原西鶴も初めは京都を拠点とする最大流派「貞門派」(ていもんは)に入門します。

しかし、堅い伝統的な歌風が性に合わず、大坂の俳人「西山宗因」(にしやまそういん)が始めた革新的な「談林派」(だんりんは)へ参加。井原西鶴は異風な俳句を詠んだことから「阿蘭陀西鶴」(おらんださいかく)と呼ばれ、談林派の代表的俳人として活躍します。

お笑いライブのはしり

井原西鶴が33歳の頃、一昼夜で何本の矢を的に当てられるかを競う「大矢数」(おおやかず)という競技が流行。井原西鶴はこれにヒントを得て、大勢の観客を前に24時間ひとりで俳諧を詠み続ける「矢数俳諧」(やかずはいかい)という前代未聞の句会を開いたのです。

このとき詠みあげたのは1,600句。およそ1分に1句の計算になります。次々と繰り出されるユーモアたっぷりの句に、観客はどよめきました。

今で言うお笑いライブのはしりとなった、このイベントは全国へと連鎖。奈良で1,800句、仙台で3,000句と記録を破る者が出てきたため、井原西鶴も負けじと「生國魂神社」(いくくにたまじんじゃ:大阪府大阪市)で4,000句を達成し、日本一を奪還したのです。

お笑い芸人からお笑い作家へ

やがて井原西鶴は、もっと多くの人を笑わせたいと思うようになり、当時庶民の間に広まりつつあった出版本に着目します。1682年(天和2年)、40歳にして初の著書「好色一代男」(こうしょくいちだいおとこ)を発表。浮世草子という、新たな小説ジャンルを確立します。

井原西鶴は物事を大げさに描写しながら、人間の本性を笑いに変換。そのあとも町人物・武家物・雑話物(ざつわもの:諸国の奇談を集めた物)と幅を広げます。浮世草子は大流行し、井原西鶴は元禄文化を代表する流行作家となりました。

空白の2年間

誓願寺

誓願寺

こうして人を笑わせ続けた井原西鶴の人生には、常に涙が付きまとっていました。

34歳のときに9歳年下の妻が、幼い3人の子どもを残し病気で他界。以後、生涯独身を貫きますが、残された3人の子ども達にも先立たれます。

矢数俳諧のパフォーマンスを行ったのも、1,000句を詠んで妻を追悼しようとの思いからであったと言われます。

そして井原西鶴49歳のときに突如筆が止まり、以後2年ほど、目立った活動は見られません。井原西鶴はこの空白の2年間で自らの人生を見つめ直し、次の作品に活かそうとしたのです。こうして生まれたのが、生前最後の出版となった「世間胸算用」(せけんむねさんよう)。

翌年の1693年(元禄6年)、井原西鶴は52歳で生涯を閉じ、「誓願寺」(せいがんじ:大阪府大阪市)に葬られました。「浮世の月 見過ごしにけり 末二年」(人生50年というのに、私は2年も余分に生きて月を眺めることができた)という辞世の句を残しています。

井原西鶴の作品

好色一代男

好色一代男は、大坂の裕福な商人の息子「世之介」(よのすけ)が繰り広げるドタバタ喜劇で、挿絵も井原西鶴が手掛けました。世之介の7歳から60歳までの54年間を、1年1章ずつ計54章で構成。世之介はわずか7歳にして女中を口説くなど早熟ぶりを発揮し、そのあとも数々の浮き名を流します。

反響は絶大で続々と版を重ね、1683年(天和3年)には江戸版が出版され、挿絵は当代きっての人気絵師「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)が担当しました。この作品を出発点に、浮世草子というジャンルは以後100年近く庶民の心をとらえ続けたのです。

武道伝来記

武士の美徳とされる敵討ち(かたきうち)をテーマにした、32話の短編からなる武家物・「武道伝来記」(ぶどうでんらいき)。実際の事件をモデルにした話もありますが、大部分は井原西鶴の創作と考えられています。

事件の発端が口論や誤解、主君の横暴などで、悲劇的な結末を迎える話がほとんど。面子、建前で成り立つ敵討ちのおかしさを皮肉り、武家社会の矛盾を浮き彫りにした異色作です。

世間胸算用

全20章の短編からなる世間胸算用は、町人物の代表作。1年の締めくくりである大晦日を舞台に、庶民の悲喜劇が描かれています。例えばあるお寺で法話(ほうわ:住職が聴衆の前で話すこと)が開かれた際、住職は多額のお布施を期待しますが、参拝者はわずか3人。

それでは灯りの油代にもならないと、住職は帰るよう促します。すると、ひとりの老婆が「今夜寺に参ったのは、怠け者の息子が借金取りから逃れる言い訳として、私が神隠しにあったことにするためです」と話し始めました。

さらに、隣の男が「自分は入り婿で、商いに失敗して女房から追い出された」と言い、最後の男は「参拝者の草履を盗もうとやってきたのにこの有り様だ」と打ち明けます。行き場のない3人と住職は顔を見合わせ、笑うしかなかったという話です。

井原西鶴の逸話

好色一代男のモデルは光源氏

好色一代男のモデルは、なんと「紫式部」(むらさきしきぶ)の名作「源氏物語」の主人公「光源氏」(ひかるげんじ)と言われます。天皇の皇子として生まれた光源氏は、多くの女性達と、華やかな恋愛模様を繰り広げました。

実は好色一代男が54章から成り立っているのは、54帖で構成された源氏物語に倣ったためだと言われています。井原西鶴は平安古典文学の傑作を、見事に取り込んでパロディー化してしまったのです。

200年後に人気再浮上

存命中に人気を得ていたとは言え、江戸時代末期になると井原西鶴の名は歴史の中に埋もれてしまいます。再評価されたのは、没後200年が経過した明治30年代に入ってから。文豪「幸田露伴」(こうだろはん)、「尾崎紅葉」(おざきこうよう)によって作品が見直され再流行。以後、近代の作家達にも様々な影響を与えることとなりました。

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