平安時代の重要用語

安倍晴明 
/ホームメイト

「安倍晴明」(あべのせいめい)についてご紹介します。「安倍晴明」(あべのせいめい)は10~11世紀に活躍した陰陽師(おんみょうじ:朝廷において占術を行う官職)。通常は「せいめい」と読みますが、平安時代にどのように呼ばれていたかは定かではありません。921年(延喜21年)に生まれ、天文・暦・報時などを学び、陰陽道(おんみょうどう)を成立させたひとりです。歴史的な事跡よりも、のちの物語などで不思議な力(呪術)を用いて様々な奇跡を起こした人物として描かれたことで有名になりました。今日でもその霊験にあやかろうとする人はあとを絶たず、安倍晴明ゆかりの場所には多くの人々が訪れます。

平安時代の重要用語

安倍晴明 
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「安倍晴明」(あべのせいめい)についてご紹介します。「安倍晴明」(あべのせいめい)は10~11世紀に活躍した陰陽師(おんみょうじ:朝廷において占術を行う官職)。通常は「せいめい」と読みますが、平安時代にどのように呼ばれていたかは定かではありません。921年(延喜21年)に生まれ、天文・暦・報時などを学び、陰陽道(おんみょうどう)を成立させたひとりです。歴史的な事跡よりも、のちの物語などで不思議な力(呪術)を用いて様々な奇跡を起こした人物として描かれたことで有名になりました。今日でもその霊験にあやかろうとする人はあとを絶たず、安倍晴明ゆかりの場所には多くの人々が訪れます。

安倍晴明の生涯

出生地

安倍晴明の生誕地は、諸説あります。有名な話として10世紀の中頃、阿倍野(あべの:現在の大阪府大阪市阿倍野区)に住む「阿倍保名」(あべのやすな)という人物が、追われていた白狐を助けたところ、その狐が女性に変身。阿倍保名は、「葛乃葉」(くずのは)と名乗るその女性と結婚し、生まれたのが「安倍童子」(あべのどうじ:安倍晴明の幼名)だという言い伝えが残っているのです。

この話によれば安倍晴明は大阪出身ということになります。他にも讃岐説・茨城説などもあり、はっきりとしたことは分かりません。

陰陽を学ぶ

安倍晴明

安倍晴明

幼い頃から、不思議な力を持っていた安倍晴明は、人には見えない鬼を見たり、鳥と会話できたりしたとされます。

成長した安倍晴明は、「大学寮」(だいがくりょう:貴族の子弟の学校で、終了して試験に合格すると太政官[だじょうかん:朝廷の最高行政機関]に推薦された)へ入学。天文・暦などを司る陰陽を学び始めます。

このときの「陰陽博士」(おんみょうはかせ:陰陽を教える教官)が、陰陽師「賀茂忠行」(かものただゆき)・「賀茂保憲」(かものやすのり)父子でした。

当時の賀茂氏と言えば、陰陽道における最高位の家系です。安倍晴明は2人の師に指導され、陰陽道の奥義をすべて習得。やがて「天文得業生」(てんもんとくごうしょう:陰陽道の1分野の天文を学ぶ、特に成績が優秀な学生)となります。

陰陽師として頭角を現す

記録によると、960年(天徳4年)、安倍晴明は62代「村上天皇」(むらかみてんのう)に命じられ、占いを行いました。決して出世は早くなかったものの、この頃には天皇から指名されるほど占いを得意としていたことが分かります。

また、同年に発生した「内裏」(だいり:天皇が住む御殿)の火災で焼けてしまった日本刀の修理に携わった功労で、翌年961年(応和元年)には安倍晴明は陰陽師に任じられました。そして977年(貞元2年)に師である賀茂保憲が没すると、陰陽師として頭角を現しはじめます。

またこの頃、安倍晴明の2人の息子が天文博士(てんもんはかせ:天文道の教官)や陰陽助(おんようのすけ:陰陽寮を統括する責任者補佐)に任じられるなど、安倍氏は師である賀茂氏に並ぶほどの名家となっていったのです。

なお、安倍晴明は1005年(寛弘2年)に死亡しました。その死因は未だに分かっていません。

陰陽師の仕事

映画や物語に登場する陰陽師は、呪術で敵と戦いますが、実際の陰陽師の仕事は、朝廷で重要な決断が行われる場面において、中国伝来の「陰陽五行説」(いんようごぎょうせつ)で天体観測や暦を作成して、決断の吉凶を占うことでした。

このとき用いる「式盤」(しきばん:占い用の盤)によって、陰陽師は「式神」(しきがみ:陰陽師が使役する鬼神)を自由に操ることができるものと当時より考えられたことから、後世に「呪術を用いて戦う官職=陰陽師」という誤ったイメージが形成されていったのです。

安倍晴明が起こした奇跡・伝説

陰陽師として卓越した知識を持っていたとされる安倍晴明は、天皇だけでなく多くの貴族から信頼され、その奇跡はのちの世まで伝説となって伝えられてきました。

賀茂忠行を鬼から救う

安倍晴明が、まだ陰陽道を学んでいた頃の話。師の賀茂忠行のお供をして出掛けたとき、安倍晴明は、鬼が近付いてくることに気づきます。あわてて賀茂忠行に伝え、自ら術を使って身を隠したために2人とも命は助かりました。このとき、賀茂忠行は安倍晴明の才能に惚れ込み、自分の術をすべて教え込もうと決意したのです。

花山天皇の命令で天狗を封じる

979年(天元2年)、当時の皇太子「師貞親王」(もろさだしんのう:のちの65代・花山天皇[かざんてんのう])の命令で、「那智」(なち:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)に住む天狗を封じる儀式を行います。

以降、安倍晴明は花山天皇から、たびたび陰陽道の儀式や占いを依頼されるようになりました。986年(寛和2年)に花山天皇が臣下の策略で出家させられた際、安倍晴明は天体の動きで察知。式神を使って花山天皇に、騙されていることを伝えようとしますが、残念ながら間に合いませんでした。

一条天皇の病気を治す

993年(正暦4年)、66代「一条天皇」(いちじょうてんのう)が病に倒れたとき、安倍晴明が禊(みそぎ:穢[けが]れを払う儀式)を行ったことで、たちまち病状より回復したと言われています。

藤原道長を呪術師から救う

1004年(寛弘元年)、深刻な水不足に悩む人々を救うため、時の権力者・「藤原道長」は、安倍晴明に雨を降らせるように指示。安倍晴明は雨ごいの儀式を行い、雨を降らすことに成功しました。

また別の日、藤原道長の可愛がっていた飼い犬が、藤原道長の外出を止めようとします。不審に思った藤原道長が安倍晴明に占わせたところ、呪術師「蘆屋道満」(あしやどうまん)が、藤原道長に対して呪いをかけようとしていたことが発覚。安倍晴明は「式神」(しきがみ:陰陽師の命令で動く霊的存在)を使って、蘆屋道満を追放しました。

「式神」の存在

安倍晴明の伝説として、式神を自由に操ることができた点も見逃せません。安倍晴明は必要に応じて様々な式神を作っていたとされ、掃除やお茶出しといった家の中の雑用もさせていたと伝わります。

式神に関する安倍晴明の伝説は、説話集の「今昔物語集」(こんじゃくものがたりしゅう)や「宇治拾遺物語」(うじしゅういものがたり)などに書かれました。

そのうちのひとつをご紹介すると、安倍晴明が寺院を訪れた際に、「式神を使えば人は簡単に殺せるのか」と問われます。安倍晴明は「力を入れれば殺せる。虫は少しの力で必ず殺せるが、生き返らせることができないので、罪となるだろうから無益だ」と答えました。

すると、蛙が池の方に跳ねて行きます。「あれを殺してみてほしい」と言われた安倍晴明は、草の葉を取って呪文を唱え、その葉を蛙に向かって投げました。葉が蛙の上に乗ると、蛙はなんとつぶれてしまいます。

人々が安倍晴明の術を見たがっていたこと、式神の恐ろしさなどが分かるエピソードです。

安倍晴明ゆかりの場所・物

一条戻橋

晴明神社の一条戻橋

晴明神社の一条戻橋

「一条戻橋」(いちじょうもどりばし)は、あの世とこの世の境にかけられたと伝わる小さな橋。

伝説では、安倍晴明の父・安倍保名が、この場所で呪術師・蘆屋道満に殺され、安倍晴明が呪術を駆使して蘇生させたとされます。

現在の一条戻橋は、京都の一条大通が堀川を横切る場所にありますが、これは近年になってかけなおされた物。以前の橋の欄干(らんかん)は、この場所に近い「晴明神社」(京都市上京区)に保存されています。

安倍晴明ゆかりの神社

京都の晴明神社は、平安時代に安倍晴明の屋敷があった場所に建てられた神社。一方、生誕地とされる、大阪市阿倍野区にも「安倍晴明神社」があります。また、安倍晴明が尾張国(現在の愛知県西部)で毒蛇を退治したとき、宿舎にした屋敷跡にあるのが「名古屋晴明神社」(名古屋市千種区)です。

他にも「熊野神社」(くまのじんじゃ:東京都葛飾区)など、安倍晴明に関係する神社は全国各地に点在。安倍晴明の人気の高さを裏付けています。

小惑星からアニメまで

陰陽師・安倍晴明は、古来より日本人の心をつかみ、これまでに多種多様な伝説が伝えられてきました。1976年(昭和51年)には日本人が発見した小惑星を、安倍晴明の名前を採って「晴明」(せいめい)と命名。今日でも安倍晴明に憧れる人は多く、様々なアニメ・演劇・映画・小説などに登場し、私達を魅了し続けているのです。

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