かつて、木曽三川(木曽川・揖斐川・長良川)の河口近くには数多くの中州があり、その中で長島は複数の州で構成された地域で、陸地から隔絶されていました。
1501年(文亀元年)、その長島に真宗本願寺派の「願証寺」(がんしょうじ)が創建されると、本願寺門徒が多く住むようになり、周辺には数十の寺院や道場が集まりました。本願寺門徒は、やがて武装集団として、およそ10万の大きな勢力に成長していきます。
織田信長が尾張を統一したとされる1561年(永禄4年)の時点では、織田信長の支配が長島まで及んでいませんでした。
この頃は、織田信長と本願寺派が敵対することはなく、1567年(永禄10年)に織田信長が「稲葉山城」(のちの岐阜城)を落とし、斎藤龍興が長島に逃げ込んだときも、織田信長と本願寺派との間に大きな争いは起こりませんでした。
状況が一変したのは1570年(元亀元年)9月でした。浄土真宗本願寺派法主の「顕如」(けんにょ)が長島の本願寺門徒に対して織田信長への一斉蜂起を呼びかけます。
織田信長は、天下統一のため、大坂の「石山本願寺」が位置する地域を手に入れるべく、門主の顕如に土地の明け渡しを要求。この理不尽な要求に顕如が激怒したことから、長島でも反織田信長への蜂起の機運が高まったのでした。これに加え、「北勢四十八家」(ほくせいしじゅうはちけ)と呼ばれる小豪族も呼応して、反織田信長勢力に加わります。
「長島城」は、「伊藤重晴」が城主を務めていましたが、数万にも及ぶ本願寺門徒に攻められ城を奪われました。以後、長島城は本願寺の拠点となります。織田信長は本願寺門徒への備えとして、尾張・小木江城(古木江城)に弟の「織田信興」を置き、これを守らせましたが、同年11月、織田信長が近江国の比叡山で「浅井長政」・「朝倉義景」軍と対峙している間に、本願寺門徒から攻撃を受け、織田信興は自害させられます。
織田信長は、浅井氏・朝倉氏と和睦を結び、1571年(元亀2年)5月12日、長島攻めを開始します。
織田信長は50,000の軍を率い、津島(現在の愛知県津島市)、中筋口(現在の愛知県愛西市森川町周辺)、太田口(現在の岐阜県海津市)の3方向から攻撃しますが、本願寺軍は堅固な守りの砦を十数ヵ所も有しており、なかなか攻め落とすことができません。
織田信長は砦近くに火を放ち、攻撃開始から4日後の5月16日に退却を始めます。土地をよく知る本願寺軍は、山中の狭い道筋で弓矢と鉄砲隊を配備して、退却する織田の軍勢を待ち受けました。
織田信長の本隊と「佐久間信盛」が率いる隊は脱出に成功しましたが、しんがりを務めた「柴田勝家」の軍は苦戦。本願寺軍の追撃をまともに受け、柴田勝家は負傷し、旗指物(はたさしもの)も奪われてしまいます。柴田勝家に代わり、しんがりとなった「氏家卜全」(うじいえぼくぜん)の隊も、多くの死傷者を出し、氏家卜全は戦死。第一次長島攻めは、織田信長の完敗に終わります。
1573年(天正元年)8月、織田信長は浅井長政・朝倉義景を討ち果たすと、一息つく間もなく、9月には第二次長島攻めに着手。織田信長は、前回の失敗を踏まえ、あらかじめ水路を抑えようと準備をしていました。次男の「北畠具豊」(織田信雄)に命じて、伊勢大湊の船を調達する手はずでした。
ところが、大湊の自治組織である会合衆(えごうしゅう)が、なかなか承諾しません。織田信長は、交渉成立を待たずに、9月24日、第二次長島攻めに出陣します。長島本城を直接攻めるのではなく、周囲の拠点をたたく戦法です。
9月26日には佐久間信盛、「羽柴秀吉」(のちの「豊臣秀吉」)、「丹羽長秀」、「蜂屋頼隆」が西別所城を、10月6日には柴田勝家、「滝川一益」が坂井城を攻略しました。さらに、近藤城の奪取にも成功。萱生城や伊坂城、赤堀城、桑部南城、千種城、長深城も降伏します。しかし、大湊からの船は一向に来る気配がなく長島への直接攻撃は断念。
そして、織田軍は退却の帰路で、またしても待ち受けた本願寺軍に追撃されます。筆頭家老「林秀貞」の息子である「林新二郎」以下の犠牲を出しながらも、なんとか振り切り、岐阜に帰還することができました。今回は多くの敵城を落としはしましたが、第二次長島攻めも失敗に終わります。
3度目の長島攻めは、1574年(天正2年)です。前年の1573年(天正元年)は、「武田信玄」が亡くなっており、織田信長が最も恐れる「甲斐の虎」に対する不安が解消。長島攻めに本腰を入れるときが来ました。織田の領土全体から集められた兵の数は80,000。織田の戦の中でも破格の規模です。それを率いる武将も、越前にいる羽柴秀吉、畿内の「明智光秀」以外は、ほぼ全員が参陣しています。
今回は、大湊の取り締まりを強化し、船団の準備も怠りません。7月14日、まずは長島の北西・香取口、北東の市江口、北側早尾口の3方向から攻撃が開始されます。翌日の15日には、大湊からの船団も到着。長島を陸上と海上から、蟻の這い出るすき間もないほどの大軍で包囲しました。
対する、10万の本願寺門徒達は、長島、篠橋、大鳥居、屋長島、中江の5つの砦に分かれて立て籠ります。織田軍は8月3日に大鳥居、12日に篠橋の砦を落とし、残る3つの砦に門徒を集めると、兵糧攻めの戦法に移りました。長く続く兵糧攻めに耐えられなくなった長島城の門徒達は降伏し、長島から出ようとしますが、織田信長はここぞとばかりに鉄砲で撃ち殺します。
降伏を承諾したと見せかけて殺傷するという暴挙に怒った本願寺軍は、決死の覚悟で反撃に出ました。激しい斬り合いの中で、織田軍も多くの兵を失うこととなります。怒り心頭に発した織田信長は、残る中江、屋長島の砦の周囲に柵を築き、そのまま火を点けました。逃げ出すことのできない20,000もの人々が、その場で焼死したと言われています。
この戦いで織田信長は、庶兄の「織田信広」や弟の「織田秀成」、叔父の「織田信次」をはじめ、多くの織田一族の命を失い、相当な怒りが沸き起っていたに違いありません。それだけに、降伏して出てきた人々を20,000人も焼き殺すという残酷な結末となりました。
しかし、本願寺派との抗争はその後も終わらず、越前一向一揆、天王寺砦の戦い、そして石山合戦と続いていくことになります。
激戦の地、長島城は現在面影があまり残っていません。木曽川と長良川、揖斐川に囲まれた「輪中」と呼ばれる中州も、その多くが埋めたてなどによって様相が変わっています。
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