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浮世絵師「鈴木春信」の生涯
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「浮世絵」と聞いて現代人の多くが思い浮かべるのは、「錦絵」(にしきえ)と呼ばれる多色刷りの木版画です。錦絵の誕生や発展に大きく寄与した人物として、浮世絵師の「鈴木春信」(すずきはるのぶ)は欠かせません。鈴木春信は錦絵の技術を利用して、可憐な美人画を描き、高い人気を博しました。また、絵の中に当時の暦を隠す「絵暦」(えごよみ)などユーモアのある作品も残し、庶民から愛されていたのです。しかし鈴木春信の作品は、アメリカにある「ボストン美術館」など、海外では多く所蔵されていますが、国内にはあまり残されていません。これは明治時代の海外で起きた、浮世絵を始めとする日本絵画ブームの際に、多くの作品が流出したことが原因です。江戸時代中期に活躍し、謎も多く残されている鈴木春信の生涯について解説します。

鈴木春信の生涯

謎の多い生涯

鈴木春信

鈴木春信

詳細は不明である鈴木春信の生涯ですが、現在までの研究では、1725年(享保10年)生まれ、1770年(明和7年)死没とされています。初めは京都で「西川祐信」(にしかわすけのぶ)に師事し、その後、拠点を江戸に移しました。

江戸の神田白壁町(現在の東京都千代田区)に居を構えた鈴木春信は、近所に住む発明家「平賀源内」(ひらがげんない)と親交を深めながら、ともに錦絵の技術研究を行ったと言われています。錦絵が誕生する以前の鈴木春信は、「紅摺絵」(べにずりえ)の技法を用いて、浮世絵を制作していました。

紅摺絵とは、紅色や緑色などを主として、わずか数色で墨摺絵に着色する板摺版画です。鈴木春信による紅摺絵の一例には、7枚揃の「風流やつし七小町」(ふうりゅうやつしななこまち)があります。これは、錦絵へ移行する直前の期間に制作された紅摺絵の中でも、最高傑作と評される作品です。

また、同時期に鈴木春信は、「水絵」(みずえ)と称される技法も用いています。水絵とは、輪郭に墨線を使わず、緑色や黄色といった淡色のみの色版で摺る浮世絵の技法です。鈴木春信による浮世絵の中では、紅摺絵、水絵共に、30点以上が現代にまで伝わっています。

紅摺絵や水絵の作品を手掛けるなかで、鈴木春信は、「版元」(はんもと:浮世絵の企画を立てる人)などからの資金的な援助もあり、錦絵の手法を発展させることに尽力しました。鈴木春信のデビュー作は1760年(宝暦10年)に発表されているため、1770年(明和7年)が正しい没年だとすれば、浮世絵師としての活動はわずか10年程度であったと考えられています。

活躍年数が短いだけでなく活躍年代も古いため、鈴木春信の現存作品は少なく貴重です。しかし、その功績は当時から高く評価され、多くの追随者を生み出しました。鈴木春信の門人としては、「鈴木春重」(すずきはるしげ:のちの司馬江漢[しばこうかん])や「鈴木春広」(すずきはるひろ:のちの礒田湖龍斎[いそだこりゅうさい])などが知られています。

また、「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)の「虚無僧姿の男女」は鈴木春信の没後20年頃に、鈴木春信による同名作品をオマージュして描かれました。このように、鈴木春信が浮世絵に与えた影響は、錦絵技術の開発だけではなかったのです。

錦絵誕生への貢献

絵暦の流行

錦絵の開発に先鞭(せんべん:他に先駆けて着手すること)を着けたのは、富裕層の文化人達。多色刷りの技術を開発するために、金に糸目を付けない3人の文化人が集まったことで、その基礎的な技術が実現します。ひとり目の文化人は、俳人で浮世絵師でもある旗本「大久保巨川」(おおくぼきょせん)、2人目は同じく俳人の「阿部八之進」(あべはちのしん)、そして3人目は、薬種商(現在の薬屋)の「小松屋百亀」(こまつやひゃっき)でした。

この3人が開発した技術は「見当法」と呼ばれます。多色刷りは、異なる色を付けた版木(はんぎ:刷るために、絵や文字などを彫った木板)を色数分だけ正確に重ねて、印刷する必要があります。このとき、複数ある版木の四隅や四辺に、位置を正確に合わせるための小さな彫りを、目印として付けました。

これを「見当」(けんとう)と呼んだことから、この技法は見当法と呼ばれるようになったのです。なお、この頃、複数回の刷りに耐えられる丈夫な紙が普及したことも、多色刷りの実現に大きく貢献しました。基礎的な多色刷りの技術は、当時富裕層の間で流行っていた絵暦交換により発展します。

絵暦とは、その年の暦を添えた絵のこと。富裕層の間では、意匠を凝らした風流な絵暦を配ることが、一種の流行となっていたのです。江戸時代は「太陰暦」(たいいんれき)を用いていたため、30日ある「大の月」と29日ある「小の月」が、年によって異なります。

その大の月を示す文字を、絵の中に組み込んだのが絵暦でした。金払いの良い富裕層の娯楽と言うこともあり、「彫師」(ほりし:浮世絵師が描いた下絵を版木に彫る人)や「摺師」(すりし:版木に色具を付けて紙に摺る人)が協力して、木版多色摺りの技術開発を行い、色彩表現の可能性を追求。様々な意匠の絵暦を作ったのです。

そんな中で鈴木春信もまた、多くの絵暦を手掛けました。そのうちのひとつである「夕立図」では、夕立の中で風に吹かれながら、干した浴衣を取り込もうとする女性が描かれています。干された浴衣の模様に数字や文字が記されており、これが、1765年(明和2年)の大の月を示していました。風に煽られる浴衣と女性が、ユーモラスに描かれています。

錦絵の誕生

絵暦が流行する中で鈴木春信は、浮世絵師としての才覚を磨き上げていきました。同時に、富裕層とのコネクションを活かした豊富な資金を後ろ盾としつつ、色鮮やかな摺物を追求し、多色刷りの技術向上を続けていたのです。その中で版元は、鈴木春信の描いた絵暦の版木を譲り受け、暦や依頼者の名前を削り取って印刷して販売しました。

これが「錦織」(にしきおり:金銀など様々な色糸を用いて、華やかな文様を織り出した織物の総称)のように美しい絵であったことから、錦絵と名付けられます。これ以降、錦絵は多色刷りの絵として、流行することになったのです。その例のひとつが、「見立孫康」(みたてそんこう)と題した作品です。

絵暦のほうでは、遊女が読んでいる手紙に「小の月 むつき 卯の花月 文つき きくつき 霜ふり月 しわす」と文字が記載されていました。しかし、版元から売り出された錦絵では、手紙から文字が削り取られている他、絵暦より濃い色を用いてインパクトを強めているのが分かります。

なお「孫康」(そんこう)とは、家が貧しかったために灯火用の油が買えず、雪明かりで勉強したと伝わる人物です。蛍の光を灯火代わりにして学んだと言われる「車胤」(しゃいん)と共に、「蛍雪の功」(けいせつのこう)と並び称され、非常に苦労して学問に励み、それが報われて身を立てることの例えとされました。鈴木春信によるこの作品は、孫康の故事を江戸時代の遊女に見立てて描かれていたのです。

空摺の技法

鈴木春信はたびたび、「空摺」(からずり)と呼ばれる技法を用いています。空摺は、写真などでは確認しにくいですが、絵具が乗せられていない版木を紙に押し付けて強く擦り(こすり)、彫り跡通りに凹凸を付ける技法です。この空摺に鈴木春信は、高級な絵具を用いていただけではなく、上質で厚みがある「奉書紙」(ほうしょがみ)を使っていました。普通の紙では用いることのできない技法でしたが、奉書紙の風合いならば、空摺は印象的な効果を生み出します。

例えば「官女」と題した作品では、着物の柄を表現するのに、空摺の技法が使われました。現物を観る際には、紙に施されたこの凹凸も着目ポイントとなると言えるのです。この他に鈴木春信が空摺の技法を用いた作品には、「坐舗八景 塗桶の暮雪」(ざしきはっけい ぬりおけのぼせつ)があります。こちらは、大久保巨川の依頼で制作された8枚の連作です。

山水画の伝統的な画題として知られる中国の「瀟湘八景」(しょうしょうはっけい)を、室内の様子に変換して描いた作品。女性が作る塗桶の白い綿を、瀟湘八景の「江天暮雪」の雪に見立てています。綿の部分に凹凸を施すことにより、この見立てを強調しているのです。紙の白を活かすのが空摺の基本ですが、「雪中相合傘」(せっちゅうあいあいがさ)と題した作品で鈴木春信は、さらに手を加えました。

この作品では、黒色を擦ったあと、空摺によって凹凸を付けたことが見て取れます。こちらに描かれているのは、若い男女がひとつの傘に寄り添って雪道を歩く様子。衣装の白と黒が対照的に配置され、その構図も美しく仕上がっています。空摺の技法が用いられているのは、その白黒の衣装。女性の白い着物はもちろん、男性の黒い着物にも空摺が施されています。一見するとシンプルな作品に思われますが、実際には、非常に手の込んだ作品だったのです。

鈴木春信による美人画・画風の特徴

美人画の特徴

鈴木春信は、美人画や若い男女の恋を描いて人気を博しました。その画風の特徴として、男女共に華奢(きゃしゃ)な姿で描かれていたことが知られています。また、当時の江戸にはなかった上方文化や、中国美人画の影響が見受けられた画風であったことも特徴のひとつです。

構図や構成は、京都で師事した西川祐信を参考にしていた一方で、人物の描き方については、中国の王朝「明朝」(みんちょう)時代に活躍した版画家「仇英」(きゅうえい)に、影響を受けていたと推測されているのです。鈴木春信による傑作のひとつに、1770年(明和7年)に出版された彩色摺絵本、「青楼美人合」(せいろうびじんあわせ)が挙げられます。

この作品では、実在した吉原の遊女166名の姿をひとりずつ多色摺で描きました。この大作の制作に際して鈴木春信は、摺師と共に、実験的に様々な色を作り出します。そして、この作品でしか見られない貴重な色や、後世の浮世絵になくてはならない色を完成させたのです。

また美人画において鈴木春信は、遊女だけではなく町人の娘も描きました。「柳屋見立三美人」(やなぎやみたてさんびじん)と言う作品で描かれているのは、左から楊枝屋「本柳屋」の娘「お藤」、女形歌舞伎役者「二代 瀬川菊之丞」(せがわきくのじょう)、「鍵屋」の娘「お仙」です。

この中でも特に江戸で評判の美人だったお仙とお藤は、鈴木春信作品の主題に何度も取り上げられています。この作品におけるモデルのひとりとなったお仙は、「笠森稲荷」(かさもりいなり:現在の東京都台東区)の門前にあった水茶屋鍵屋の看板娘でした。紅い唇に艶やかな目元、そして薄くのった化粧が良く似合うと評判の美人でした。

「お仙の茶屋」や「浮世美人寄花 笠森の婦人 卯の花」(うきよびじんはなによする かさもりのふじん うのはな)にも、お仙が描かれています。お仙をモデルとする場合、その背景には、鳥居や水茶屋が描かれ、着物の袖に蔦(つた)の紋があしらわれていました。

鳥居はいつも一部だけが描かれており、風景と言うよりは、お仙であることを示す記号として用いられていた意匠であることが分かります。鈴木春信による錦絵のモデルとなったことで、お仙の人気はさらに高まりました。ついには、お仙の人形や手ぬぐい、双六などのグッズまで売り出されることに。お仙は、鈴木春信の錦絵を通じて、江戸時代の「会いに行けるアイドル」になったのです。

美人画の傑作

鈴木春信による「風流四季哥仙 二月・水辺梅」(ふうりゅうしきかせん にがつ・みずべのうめ)は、季節感に富んだ美人風俗画の傑作として有名です。古典和歌の「風流四季哥仙」から着想を得つつ、1月から12月までの人々の姿を描いたシリーズでした。なかでも2月の作品は、数々の美人画の中でも傑作として知られています。

この作品の上部に添えられているのは、原題となった和歌です。「末むすぶ人の手さへや匂ふらん 梅の下行(したゆく)水のなかれは」と詠まれたこの和歌は、平安時代中期の貴族「平経章」(たいらのつねあき)による1首。暗い夜に梅の枝を折ろうとしている少年の傍で、少女がその様子を見つめています。夜の闇に白く佇む白梅の花は、少年と少女の純粋な愛を称えるモチーフとして選ばれました。

美術史学者の「小林忠」(こばやしただし)氏は、著書「江戸の浮世絵」の中で、「末むすぶと言う言葉には、下流で水をすくって飲む意味と、将来を約束する意味がかけられており、この和歌では恋の成就が願われている」と解釈しています。このように花の枝を手折る(たおる)場面は、鈴木春信が好んで描いた主題のひとつでもありました。

この構図は、「桃の小枝を折り取る男女」や「寄菊 夜菊を折り取る男女」にも見られます。「風流四季哥仙 二月・水辺梅」では、女性は男性を少し離れたところから見つめており、男性がリードして梅の花を手折っています。その一方で「桃の小枝を折り取る男女」では、枝を手折ろうとする男性と女性の目が合っており、共犯関係にあることが窺えるのです。

さらに「寄菊 夜菊を折り取る男女」では、女性が男性の手元に明かりを差し出しており、男性は振り返って女性を見ています。この作品に添えられているのは、室町時代中期の公家「八条為敦」(はちじょうためあつ)による和歌「待えしと おもふ夕へもとふ人の 袖の色なるしらきくの花」です。このように、花を折る男女のモチーフは共通していますが、その関係性は様々でした。

これらの作品に共通する表現として、男女共に華奢で可愛らしい姿で描かれていることが挙げられます。15~16歳の若い男女の恋を描く中で、現実的な生々しさや肉感は、ことごとく排されているのです。これは、1603年(慶長8年)に江戸幕府が開かれたことにより、太平の世がすでに150年は続いていた明和年間(1764~1772年)においては、戦国武将を思わせる男性的な力強さではなく、華奢で優美な表現が好まれていたことが背景にあります。

また鈴木春信は、庶民の様子もその作品に描きました。「風流五色墨 宗瑞」(ふうりゅうごしきずみ そうずい)で描いたのは、子どもが初めて立ったことを喜ぶ情景です。衣替えのために着替えさせようとした場面であり、「これはこれは 這子(ほうこ:ハイハイする子どもを象った[かたどった]人形のこと)立ちたりころもがへ」と言う一句が、当時の句集から引用されました。後ろに立つ女性の足元には、猫がじゃれついており、子どものへその辺りには、お灸の跡もあります。当時の日常生活が、細かく丁寧に描かれた心温まる作品です。

鈴木春信による見立絵・やつし絵

見立絵・やつし絵とは

浮世絵は庶民の娯楽として知られていますが、初期の錦絵は、むしろ富裕層や文化人をターゲットにしていました。絵暦がもとになっていた錦絵は、文化人の娯楽だったのです。そのため鈴木春信の錦絵には、鑑賞の際に、知識が必要な作品が多々見られます。それらは一見すると風俗画のようですが、古典や故事の名場面が密かに表現されていました。

こうした作品は、「見立絵」や「やつし絵」と呼ばれます。異なる2つの題材を連想によって結び付ける表現方法が見立絵であり、歴史上の人物などを当代風の姿に変えて描く表現方法がやつし絵です。なお、本来は別であるこれら2つの呼称は、近年では、混同されて用いられることが往々にしてあります。

「浅野秀剛」(あさのしゅうごう)氏と「吉田伸之」(よしだのぶゆき)氏による共編著「浮世絵を読む・1 春信」では、見立と「やつし」は、春信作品の中に、「すでに混同される要因が内包されている」と指摘しました。現在では、見立絵とやつし絵の両方を見立絵と見なすことが一般的です。

平家物語を見立てた作品

鈴木春信の良く知られている見立絵のひとつに、いわゆる「源平合戦」をモチーフにした2枚連続の作品があります。それは、「見立玉虫 屋島の合戦」(みたてたまむし やしまのかっせん) と 「見立那須与一 屋島の合戦」(みたてなすのよいち やしまのかっせん)です。見立てられたのは、「平家物語」のハイライトとも言える船上の扇を射抜く一幕でした。

屋島の合戦」の際、「平氏」側が戦場で竿に扇を挟んで掲げ、挑発された「源氏」側が、弓の名手「那須与一」に、これを射落させたと伝わる逸話です。しかし、鈴木春信が描いたのは戦場の様子ではありません。「見立玉虫」では、女性が船に乗って日の丸が配された扇子を掲げ、「見立那須与一」では、男性が手紙を付けた矢を構えています。

ここでもモチーフは若者の恋であり、これから始まる恋を予感させているのです。これらの中で鈴木春信は、源平合戦の見立絵であることも、しっかりと描いています。よく観れば、女性の着物には平氏の舟を連想させる模様があり、男性の背後には、那須与一を連想させる茄子畑が描かれているのです。

これらの作品でも鈴木春信は、人物を男女とも華奢で可愛らしく描いています。一見しただけでは性別が分かりませんが、女性の半襟や、男性の着物に透ける脚など、細かい部分で男女差が表現されているのです。

和歌を見立てた作品

鈴木春信による浮世絵の中で、世界で1点しか確認されていない作品も見立絵です。それは、初期に制作された紅摺絵である「見立三夕 定家 寂蓮 西行」。本来は3分割されるはずでしたが、分割されずに現存している同作は、極めて貴重な資料と言えるのです。「三夕」(さんせき)とは、夕暮れの様子を和歌に詠んだ①「藤原定家」(ふじわらのていか/ふじわらのさだいえ)と②「寂蓮」(じゃくれん)、③「西行」(さいぎょう)の3名を指します。

本作の右から、
①「みわたせは 花も紅葉もなかりけり 裏のとまやの秋の夕暮れ」(藤原定家)
②「さびしさは その色としもなかりけり 槙(まき)たつ山の秋の夕くれ」(寂蓮)
③「心なき きみにもあはれは知られけり 鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮」(西行)
と言う和歌を、3人の女性に見立てて表現しています。

伝承を見立てた作品

「流れのほとりで菊を摘む女 見立菊慈童」(みたてきくじどう)は、伝承をもとにした見立絵です。川のほとりで若い娘が、菊の一枝を手折ろうとする姿が描かれています。画題となったのは、中国の仙童である「慈童」が菊の露を飲んだことで不老不死となり、いつまでも美少年の姿を保ったと言う伝承でした。

しかし、本作では慈童が可愛らしい娘の姿に置き換えられており、優しく穏やかな印象を受けます。それでも娘の着物の袖には、不老長寿の祈りを表す折鶴の模様が描かれており、慈童の見立てであることが伝わるのです。

能を見立てた作品

「夜雨宮詣美人図」(よさめみやもうでびじんず)も、鈴木春信が手掛けた作品として、1枚しか確認されていない貴重な浮世絵です。女性が願いごとをするために、大雨の中で神社に駆け込む様子を描いています。

しかしこれも、浮世絵研究家の「鈴木重三」(すずきじゅうぞう)氏の指摘によれば、能の演目「蟻通」(ありどおし)の見立絵であると考えられています。この女性は、宮守(みやもり:神社を守って管理する人)の姿をした「蟻通明神」であると解釈されているのです。

蟻通は、平安時代の歌人「紀貫之」(きのつらゆき)の説話を題材にした演目でした。旅の途中、夕暮れの大雨で馬が歩みを止めてしまいます。すると宮守が現れ、「ここは蟻通明神を祀った社(やしろ)である。その神前であるにもかかわらず下馬しなかったため、天罰が下ったのだ」と告げます。これを反省した紀貫之が、「雨雲の 立ち重なれる夜半なれば 蟻通とも思うべきかは」と和歌を詠むと、宮守がそれを高く評価し、馬が動くようになったと言う筋書です。

浮世絵師としての活躍年数は、わずか10年程度の鈴木春信ですが、その功績は極めて重要です。錦絵の草創期を支え、のちの浮世絵界に様々な影響を残しました。

その作品からは、様々な技法やモチーフ、構図などを試していた様子が窺えます。鈴木春信による浮世絵の多くは、海外で収蔵されているだけでなく、劣化を防ぐために展示期間が限られていることから、実物を観る機会には滅多に恵まれません。

しかし、空摺や鈴木春信自ら開発した絵具の色合いは、画像などではなく実物を観ることで、その凄さがより深く分かるのです。そのため、美術館や博物館などで鈴木春信の展示会がある場合には、そのチャンスを逃さず、ぜひ足を運んでみることをおすすめします。

浮世絵師「鈴木春信」の生涯

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