葛飾北斎と言えば、江戸時代を代表する浮世絵師。日本国内のみならず世界でも高評価を受け、「ジャポニズム」という現象まで巻き起こしました。そんな天才と呼ばれた葛飾北斎について、その生涯や作品についてなど、様々なエピソードをご紹介します。
「葛飾北斎」(かつしかほくさい)が生まれたのは、今から約260年前(死後170年)。
2020年(令和2年)に刷新される予定の日本国パスポートは中面のデザインが北斎に決定し、現代アーティストをも凌駕する、圧倒的な才能を今もなお見せ付けています。北斎は、画号(画家が付ける名前)を変えること30回。引越しは93回。売れっ子のわりには貧乏で、寝食よりも絵の道具を買うことを優先し、90歳で他界するまでに約3万点もの作品を描き続けました。好きなことを仕事にし、最期まで新しい表現を追い求めた姿は、圧巻。ここでは画狂の天才、北斎の生涯に迫ります。
「葛飾北斎」は、1760年(宝暦10年)、本所割下水(現在の東京都墨田区北斎通り付近)生まれ。本名は「川村時太郎」。のちに「鉄蔵」と改名。
母は吉良上野介家臣、小林平八郎の孫娘。父は川村某氏ですが、4歳頃に江戸幕府御用鏡師「中島伊勢」の養子となり「中島八右衛門」と名乗っていたと言われています。
「己六才より物の形状を写す癖ありて」と、本人が言っている通り、6歳の頃には絵を描くことに強い関心を持っていました。
家業の鏡師は継がず、12歳のときに貸本屋の丁稚(でっち:下働き)になり、そこでたくさんの本を見て独学。14歳のときには、木版彫刻師の徒弟となり木版印刷の技術を習得します。しかし、18歳になった北斎は「自分がしたいことは彫りではなく絵を描くことだ」と分かり、彫刻師のもとを離れ、絵師になることを決意します。
1778年(安永7年)、19歳のときに当時トップの浮世絵師「勝川春章」(かつかわしゅんしょう)に入門し、本格的に絵画の修業を始めます。「浮世絵」とは、江戸時代に発達した風俗を描いた版画のこと。プロの絵師が描く絵画はたいへん高価で、一部の裕福な人しか見ることができませんでしたが、版画にすることで大量生産が可能になり、庶民でも手にできる娯楽として親しまれました。
入門してすぐに「勝川春朗」の画号をもらい、翌年デビュー。師匠には、早くからその実力を認められ、黄表紙の挿絵や、錦絵(多色刷の浮世絵版画)、洒落本、春画の挿絵、肉筆美人画も経験。「透視遠近法」を用いて建物や風景を描く「浮絵」も描きます。
20歳前後に、最初の妻(名前不詳)と結婚。一男「富之助」、二女「お美与」、「お辰」を授かります。一見、順風満帆に思えますが、この時代は師匠の勝川春章はもちろん「鳥居清長」や「喜多川歌麿」といった巨匠が黄金時代を形成。
しかし、北斎は画壇での地位も人気も収入も二流止まり。しかも、兄弟子の「春好」(しゅんこう)からは絵を下手だと罵倒され、目の前で破られるなどかなりのパワーハラスメントを受けて耐える日々でした。晩年、北斎は「自分の画法が進歩したのは、実に春好が自分を辱めたことにはじまる」と語るほど。北斎は、とにかく絵が上手くなりたい一心で、浮世絵以外の他派の絵画「狩野派」、「堤等琳」、「土佐風」や、司馬江漢に就いて「西洋画」や「明画」も学び、猛勉強します。
1793年(寛政5年)に、師匠春章が67歳で死去。北斎は「勝川派」を離れます。
※一説には、他流派を学んだことで、勝川派を破門されたとも言われている。
1795年(寛政7年)、北斎は「琳派」(りんは)に加わり、「三代目 俵屋宗理」を襲名。琳派とは、尾形光琳・俵屋宗達を租とする一流の画派です。北斎は、特に「美人画」に注力し、顔が細くスラリとした優美な美人「宗理美人」を完成します。またこの頃、「洒落本」に代わって「狂歌絵本」(社会風刺や皮肉を盛り込んだ短歌と挿絵の本)や「狂歌摺物」(狂歌絵本の自費出版物)が流行し、北斎も積極的に手掛けたのです。
しかし、私生活ではちょうどこの頃、最初の妻が死去。人気のわりにはお金がなく「七味唐辛子」売りなど副業を始めますが、それでも足らず、1798年(寛政10年)、「宗理」の画号をたった4年で門人の「宗二」に売ってしまいます。
※北斎は画号が売れることに味をしめ、以降、お金に困ると弟子に売り付けたと言われている。
そんな北斎ですが、五月幟(のぼり)に「鍾馗」(しょうき:中国の魔よけの神)を描くことで2両(現在価値に直すと約16万円)という大金を得て、志を一転。流派には属さず、生涯画工を貫くことを誓い、1798年(寛政10年)から「北斎宗理」、「北斎辰政」(ほくさいときまさ)の号を用います。この名前は、北斎が崇高した「北辰妙見菩薩」という、北極星を神格化した菩薩にちなんで付けられました。
私生活でも、この頃に後妻「こと」を娶り、のちに一男「多吉郎」、一女「お栄」(葛飾応為)を授かります。
1799年(寛政11年)には「不染居北斎」、1804年(文化元年)には「画狂人北斎」の号を用いて、のちに重要文化財となる「二美人図」を発表。宗理期とは違った妖艶な美人画を肉筆画で手掛けます。また、本格的な「読本」の挿絵も手掛けるようになり「曲亭馬琴」(きょくてい ばきん)、「柳亭種彦」(りゅうてい たねひこ)、「十辺舎一九」(じっぺんしゃいっく)と組み、一世を風靡するのです。
この時期から「パフォーマンス・アート」も行ないます。「音羽護国寺」では、本堂前に広さ120畳の大達磨を描いた「大画」を披露。江戸幕府第11代将軍「家斉」の前では、唐紙を横にして、刷毛で長く藍色を引き、鶏の足に朱肉を付けて紙の上を歩かせ「これ立田川の風景なり」とお辞儀をして立ち去る「席画」を披露しました。
北斎が画面の大きさや観賞者の貴賤にとらわれず工夫を凝らしたことで、北斎の名前は江戸中に轟きます。そして、ついに1805年(文化2年)、「葛飾北斎」の号を用いるようになるのです。
北斎は還暦を迎えると心機一変「為一」、「北斎為一」の画号を用います。また後妻との娘、お栄(葛飾応為)が離婚し出戻り。お栄とは、そろって川柳「柳多留」に積極的に参加するなど、晩年まで絵も一緒に描くようになります。1826年(文政9年)には、オランダの商館長やシーボルトの依頼による絵画を制作。1827年(文政10年)、北斎は「脳卒中」になりますが、柚子を使った自家製の薬を作って回復。しかし、1828年(文政11年)に後妻「こと」が死去してしまうのです。
それから北斎は、まるで悲しみを振り払うかのごとく、精力的に作画を開始。1831年(天保2年)、代表作となる「富嶽三十六景」を発表します。その後、追加で10図加え全四十六景となります。また、行楽・旅行ブームが起こり、北斎の富嶽三十六景、歌川広重の「東海道五十三次」が大流行し、この2人によって浮世絵に「風景画」が確立されることとなりました。
同時期に、怪奇を主題とした「百物語」も発表。また、1832年(天保3年)に「琉球八景」、1833年(天保4年)に「諸国瀧廻り」、「千繪の海」などの「風景版画」や、1834年(天保5年)「富嶽百景」などを連作します。絵手本の時代には、洋風表現を大胆に使用した作例もありましたが、この時代にはより洗練した方法で洋風表現を使い、中国の「南蘋派」(なんぴんは)の表現も採用。花鳥画など、現在も有名な「錦絵」の名作が多数生み出されました。
北斎は、1834年(天保5年)頃から川柳で使った「卍」、「画狂老人」を画号として晩年まで使用します。
天保の大飢饉(1833~1837年:天保3~7年)が起きたことにより、江戸市中でも餓死する人が多く、錦絵を出版することがなかなかできませんでしたが、北斎は肉筆画帳を絵草紙屋に並べてもらい、餓死から免れていたようです。
また、放蕩孫(最初の妻の子、お美与の長男)の借金取りに悩まされることも。北斎は、親戚を頼って浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に身を隠しますが、江戸に戻った1839年(天保10年)、80歳にして初めて「火事」に巻き込まれます。生涯かかって写し貯めた画図も消失。その様子はまるで「乞食の如きありさま」だったと言われています。
80歳半ばになると、また脳卒中になり、効き手の自由が奪われる危機に見舞われることに。しかし、「獅子の略筆画」を日課として描き続けたことで、驚異の回復を見せました。
1844年(天保15年)と翌年の2回、北斎門人で豪商の「高井三九郎」が住む「小布施」(こぶせ:現在の長野県上高井郡)への旅行が実現。東町祭屋台の天井画「龍図」、「鳳凰図」と上町祭屋台の怒濤図「男浪」、「女浪」の4枚の大作を描き上げます。
そして1849年(嘉永2年)正月、肉筆画の最高傑作「富士越龍図」を描きますが、ほどなくして床に臥せ、4月18日に永眠。数え90歳でした。
※法名は、南牕院奇誉北斎居士。貧乏と言われた北斎だが、葬儀は友人や門人がお金を出し合って、立派に行なわれたと言われている。
北斎は、富嶽百景の跋文(後書き)で、こう述べています。
「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳から数々の画図を描いてきた。とは言っても、70歳までに描いた物は本当に取るに足らない物だ。73歳になって、少し動植物の骨格や生まれと造りを知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕が上達し、90歳には奥義を究め、100歳には本当に神妙の域に達するであろうか。100歳を超えれば、私が描く一点はひとつの命を得たかのように生きた物になるだろう。このような私の言葉が世迷い言などではないことを、長寿の神には、ご覧頂きたく願いたいものだ。」
そして葛飾北斎伝では、北斎最期の言葉として「天の神が、あと10年長生きさせてくれたら、いやあと5年長生きできたら、真正の画工となれるのに」と言って死んだ、と書かれています。
北斎は、もっとすごい画家になろうとしていたのです。私たちには想像もつかないほどに。彼は、間違いなく、真正の天才絵師でした。
西暦 (年号) |
年齢 | 事歴 |
---|---|---|
1760年 (宝暦10年) |
1歳 | 9月23日、武蔵国葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区)に生まれる。幼名は「太郎」、のちに「鉄蔵」と称す。 |
1763年 (宝暦13年) |
4歳 | 幕府御用鏡磨師「中嶋伊勢」の養子となる。 |
1765年 (明和2年) |
6歳 | この頃より好んで絵を描くようになり、画道を志す。 |
1778年 (安永7年) |
19歳 | 勝川春章に入門する。 |
1779年 (安永8年) |
20歳 | 「勝川春朗」の号を得る。 |
1795年 (寛政7年) |
36歳 | 「宗理」の画名を得る。 |
1798年 (寛政10年) |
39歳 | 「宗理」の号を門人・宗二に譲り、「北斎辰政」と号す。 |
1799年 (寛政11年) |
40歳 | 肉筆画「加藤清正公図」を制作。 |
1805年 (文化2年) |
46歳 | 「葛飾北斎」を使用。また、「九々蜃」の号を用いる。肉筆画「鏡面美人図」を制作。 |
1810年 (文化7年) |
51歳 | 「戴斗」の号を用いる。 |
1812年 (文化9年) |
53歳 | 絵手本「略画早指南 前編」を発刊。 |
1814年 (文化11年) |
55歳 | 「北斎漫画」の初編を発刊。絵手本「略画早指南 後編」を発刊。 |
1818年 (文政元年) |
59歳 | 大々判錦絵「東海道名所一覧」を刊行。 |
1819年 (文政2年) |
60歳 | 大々判錦絵「木曽路名所一覧」を刊行。 |
1820年 (文政3年) |
61歳 | 「為一」の号を使用。 |
1823年 (文政6年) |
64歳 | 川柳に「卍」の号を用いる。絵手本「今様櫛きん雛形」を刊行。 |
1827年 (文政10年) |
68歳 | 中風(脳卒中)を患うが、自ら調合した薬で回復する。 |
1828年 (文政11年) |
69歳 | 後妻「こと」が死去。 |
1830年 (天保元年) |
71歳 | 1844年(弘化元年)にかけて2種類の横大判錦絵の花鳥画シリーズを刊行。1830~1832年(天保元年~3年頃)に、風景画「凱風快晴[赤富士]」、「山下白雨[黒富士]」、錦絵「神奈川沖浪裏」を制作。 |
1831年 (天保2年) |
72歳 | 「富嶽三十六景」シリーズの刊行がはじまり、1833年(天保4年)に完結。風景画を中心とした活躍が始まる。中判錦絵「百物語」を発表。 |
1832年 (天保3年) |
73歳 | 大判錦絵「琉球八景」「諸国瀧廻り」を刊行。 |
1834年 (天保5年) |
75歳 | 「卍」、「画狂老人」の号を用いる(没年まで)。「富嶽百景」初編刊行。 |
1842年 (天保13年) |
83歳 | 翌年にかけて「日新除魔[日を新たに魔を除く]」の略筆画を日課として描く。 |
1849年 (嘉永2年) |
90歳 | 肉筆画「富士越龍図」制作。4月18日、浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅にて没する。 |
一般的に、対象物を見て絵を描くよりも、想像して描くほうが自由な分難しいのではないでしょうか。「武者絵」(歴史絵)、「聖獣絵」、「妖怪絵」は、すべて実際に見て描くことができない物。葛飾北斎のハイレベルな想像力に魅了されましょう。
「武者絵」とは、歴史に登場する英雄や合戦の場面を描いた絵のこと。戦がなく、平和な時代が長く続いた江戸時代では、「芝居の演目」、「故事伝説」、「子どもへの教育」として、主に鑑賞されました。
北斎は、「勝川春章」(かつかわしゅんしょう)に入門し絵師になると、黄表紙の挿絵、役者絵、春画の制作まで何でも挑戦します。
1797年(寛政9年)豊臣秀吉一代記の「太閤記」が流行し、武者絵ブームが招来。しかし1804年(文化元年)徳川幕府の禁令によって、徳川家や天正年間以降の大名家を描くことが禁止されます。実際に喜多川歌麿は、1804年(文化元年)「絵本太閤記」を描いたことで処罰、手鎖刑50日を科されています。
「加藤清正公図」は北斎の1799年(寛政11年)の肉筆画で、規制の前に注文により制作された1枚です。署名は「不染居北斎画」、落款は「北斗一星高」。この絵の題材になった加藤清正(1562~1611年)は豊臣秀吉の家臣で、戦国武将。朝鮮出兵の際、虎退治をした勇猛果敢な逸話が有名で、当時たいへん人気がありました。
鎧の下に着た鎧直垂(よろい・ひたたれ)には桔梗、鎧の上に着けた陣羽織には蛇の目と2つの家紋が施され、加藤清正を特徴付けています。落款北斗一星高を用いた作品は、財団法人信州小布施北斎館が所蔵する「寿老人」と本作の2例のみ。北斎の肉筆画研究において、大変貴重な作品と言えます。
北斎は、お金がなく副業ばかりしていた時代、「鍾馗」(しょうき:中国の魔よけの神)」を五月幟に描くことで大金を得て、生涯画工を貫くことを誓ったというエピソードもあります。歴史や古典文学に造詣が深く、特に「読本」の挿絵を描くようになってから、和漢の古事や伝説、「源為朝」や「関羽」などの武将像制作に数多く携わっています。
この葛飾北斎筆の「加藤清正公図」は、刀剣ワールド財団(東建コーポレーション)にて所蔵しており、愛知県名古屋市中区栄に開館予定(延期中)の刀剣博物館、名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」にて展示予定です。東京都墨田区にある「刀剣博物館」で、2018年(平成30年)10月13日~12月24日まで開催された企画展示「諸国漫遊 -多彩なるお国拵と日本刀五ヶ伝を巡る旅-」にて展示されました。
また2017年(平成29年)、宝島社で発行された『北斎 肉筆画の世界』では、この「加藤清正公図」がカラー2ページにわたって掲載され、詳しく解説されています。特に、加藤清正が身に付けている兜や鎧の質感について言及されている点が見どころです。
他にも、美人画では「二美人図」や「鏡面美人図」、鳥獣画では「鶏竹図」や「桜に鷹図」、名所・風景画では「暁の富士」や「富士越龍図」など、肉筆画のみで70点以上を網羅。版画とはまた違う、繊細で絶妙で力強い北斎の肉筆画の凄みが存分に味わえる1冊です。
妖怪とは、人間が理解できない不思議な現象や不気味な物体のこと。江戸の文化文政時代、一大怪談ブームが訪れました。北斎は、錦絵や読本挿絵で様々な鬼や化け物、幽霊を描きます。
1788~1792年(天明8年~寛政4年)頃には「新板浮絵化物屋鋪 百物語の図」を発表。百物語とは、夜中から順に怪談を語りはじめ、話が終わるたびにロウソクを消していき、それが100本目になったときにお化けが現れるという逸話です。この絵は、百を語り終えたあと、化け物達が現れた様子を描いています。遠近法「浮絵」を使い、化け物達がウヨウヨと浮き出てくる臨場感が表現された物です。
1831年(天保2年)、70歳前半には中判錦絵の百物語を発表。これが、また大流行しました。
題名通りの百ではなく実際には5点しか存在しませんが、「百物語 さらやしき」は人形浄瑠璃や講談でよく知られる話で、皿を割って惨殺されたお菊の首が井戸から出てくるシーンを表現。
他にも、鶴屋南北「東海道四谷怪談」のお岩さんや、幽霊役が得意な旅役者「小はだ小平二」など、画面から飛び出すようなおどろおどろしい迫力と、北斎漫画に通じる独特のユニークさが反響を呼びました。非現実的な世界と北斎の奇才が見事に融合しています。
晩年になると、北斎は日蓮や空海という「聖人」や、「龍」、「虎」、「獅子」などの「霊獣」を好んで取り上げるようになります。
その理由として、67歳で脳卒中になり、68歳で後妻を失い、80歳半ばにまた脳卒中になり、利き手の自由が奪われる危機に見舞われるなど、不安が多かったためではないでしょうか。
獅子は、高麗から伝わったというライオンに似た伝説上の生き物。悪魔を圧する霊力があると考えられていました。
北斎は「日を新たに魔を除く」ため、として1842年(天保13年)83歳から1年間、獅子の略筆画を描くことを日課とし、その祈り通り、驚異の回復を遂げるのです。
龍は、中国から伝わる想像上の生物。頭にはシカの角、口には長いひげ、胴体はヘビ、背には81枚の堅い鱗(うろこ)を持つ巨大な爬虫類として描かれます。仏教では、龍が仏法を守護する八部衆のひとつとされていることから、法堂の天井によく描かれ、法の雨(仏法の教え)を降らすと言われています。また、北斎自身も「龍年」生まれでした。
北斎は、死の3ヵ月前にも、富士山を越えて昇天する迫力のある龍、「富士越龍図」を描いています。そこに描かれた龍は神妙で、まるで生きて絵の中から飛び出してきそうなほど、生命力を感じる物。
「富嶽百景」の跋文(後書き)で、「九十歳にして猶(なお)其(その)奥意(おうい)を極め、一百歳にして正に神妙ならん歟(か)百有(いう)十歳にしては一点一格にして生(いけ)るがごとくならん」と書いていますが、そうなる自信が本当にあったのかもしれません。
絵が上手な人は、総じて写実画がものすごくうまい。北斎も「己 六才より物の形状を写の癖ありて」と「富嶽百景」跋文に書いていますが、きっとその頃から観察眼が鋭く、キラリと光る才能を見せていたのでしょう。幼少期の作品は残っていませんが、「三代目俵屋宗理」を襲名した「琳派」の時代において、その実力と技量を私たちに見せつけています。
1795年(寛政7年)、北斎は琳派に加わり、三代目俵屋宗理を襲名します。琳派は「花鳥画」を得意としていたため、北斎もこのテーマを強く意識。「尾形光琳」(おがたこうりん)の「梅」に興味を抱き、「芙蓉」や「牡丹」など狂歌本の挿絵や摺物、肉筆画に多く取り入れます。
花鳥画とは、東洋美術で「山水画」、「人物画」と並ぶ一部門。花、鳥獣、虫、藻魚などを描いた物を言います。「鶏竹図」(肉筆画 1804~1818年[文化元~15年])は、写生的な技術はもちろん、今にも雄叫びを轟かせようとする鶏の躍動感がみなぎる作品。つがいの鶏の表情も豊かで、晩年の肉筆画の礎となるのです。
1830~1844年(天保元~15年)には、2種の花鳥画シリーズを刊行します。横大判で「花のみ」の5図と、「花と虫」の調和を描いた5図の全10図。
「杜若にきりぎりす」(錦絵1831~1832年[天保2~3年]頃)は、細い線で緻密に杜若の花と葉を表現。花瓶ではなく根から咲く花を生き生きと描き、西洋の印象派達に大きな影響を与えました。
「富士山」と言えば、日本一高く日本一美しい山。富士山がある静岡県、山梨県に行かなくても、何と220km先からでも眺めることができると言います。
北斎にとっても、富士山は特別な山。代表作となる「富嶽三十六景」では、全46作品に富士山をあしらい、「名所絵」(風景画)というジャンルを確立しました。北斎ならではの斬新な構図と共に、季節、天候、場所などの違いで見え方の異なる富士を発見し、描写したのです。その後も「富嶽百景」と題する絵本や、晩年は「暁の富士」、「松に富士」、「富士越龍図」の肉筆画を発表します。北斎にとって、富士山を眺めて描くことは、ライフワークであり生きている証だったのかもしれません。
「凱風快晴」(錦絵 1830~1832年[天保元~3年]頃)は、俗に「赤富士」と呼ばれる1枚です。
凱風は南風のことで、夏の晴れた日の明け方、富士山が赤く染まる現象が起こる一瞬をとらえた貴重な風景。
朝日を浴びた雪が残る赤い富士と、鱗雲を帯びた青い空のコントラストが爽やかな作品です。
「山下白雨」(錦絵 1830~1832年[天保元~3年]頃)は、俗に「黒富士」と呼ばれている物です。
白雨とは夕立のことで、山頂は快晴でも、中腹には積乱雲が現れ、山下部には真っ黒い闇と赤い稲妻が。
ドローンのない時代にこの現象をとらえ、夏の富士山の天気が荒れやすいことを伝える、北斎の知恵と力量を感じる1枚です。
「波」とは、水面の高低運動。風によって起こる波を「波浪」(はろう)と呼び、地震によって起こる波を「津波」(つなみ)と呼びます。
江戸っ子の北斎にとって、海は身近な物だったに違いありません。勝川春朗の時代から、狂歌本の中で数々の波の絵を描いています。
波を描いたもうひとりの天才と言えば、尾形光琳。35歳のときに北斎は琳派に入門し、尾形光琳・俵屋宗達の画を極めます。「神奈川沖浪裏」(錦絵 1830~34年[天保元~3年]頃)を描き、その実力が開花するのは、北斎が70歳になってからでした。
神奈川沖浪裏は、波のしぶきがダイナミックで、まったく写実的でないと思われるかもしれません。しかし、この波の絵が描かれた180年後の現代、ハイスピードカメラで波をとらえると、かなり似通っていることが分かったのです。鋭い観察眼を持った北斎の眼には、このハイスピードカメラと同じように、波の真髄が映っていたのではないでしょうか。
異性を描こうと思うとき、誰しも好きな人を1度は思い浮かべるものではないでしょうか。
北斎にとっても、母親だったり、妻だったり……。2番目の妻「こと」の死後、北斎が美人画を描くことはなくなります。「こと」なしに、北斎の美人画完成はなかったかもしれません。
北斎は、「勝川春朗」(かつかわ しゅんろう)と名乗った時代から、錦絵や黄表紙の挿絵で数々の「美人」を描いてきました。けれども「美しい女」というよりも、「美しい人間」。
「風流男伊達八景 文七の落雁」(錦絵 1785~1790年[天明5~寛政2年]頃)の伊達男と呼ばれる「美しい男」と比べても、女性の顔の特徴はあまり変わりません。
男も女も美しい人は美しく、卑しい人は卑しく、ただそんな風に描かれているのみです。
北斎が「女性」を意識して「美人画」を描くのは、「俵屋宗理」(たわらや そうり)を名乗るようになってから。実は宗理襲名時に、ちょうど最初の妻(名前不詳)を亡くし、2番目の妻「こと」を娶るのです。
北斎の美人の特徴は、「己未美人合之内 浄瑠璃本」(摺物1799年[寛政11年])のように、顔が細くてスラリとした優美な女性。目や口は小さく繊細で、儚げ。これが「宗理美人」と持て囃されます。錦絵の美人画はとても少なく、肉筆美人画に活動の基盤を築きます。
宗理の名前は1798年(寛政10年)に門人に売り、「北斎宗理」、「北斎辰政」、「画狂人北斎」を名乗りますが、その後も細面の容貌の宗理美人を描き続けます。1801~1804年(享和元~文化元年)にかけて、艶やかさと優美さと品格をかね備えた、華麗な美人画を確立。上質な絵の具を惜しまず使用し、北斎の充実期を迎えます。
「二美人図」(肉筆画 1801~1804年[享和元年~文化元年])は、ひとりの遊女が物憂げな表情で立ち、横座りをした女性が振り返る、簡潔な構図が美しい作品です。
1805年(文化2年)になると、ついに「葛飾北斎」を名乗ります。
美人画はさらに進化し、宗理美人にあった儚さが消えて、強くしなやかな肢体を持つ、存在感のある女性が描かれるようになります。首を直角に曲げ、体を極度にひねる、少し不自然なポーズが定番に。北斎の個性が光り出します。
「鏡面美人図」(肉筆画 1805年[文化2年])は、体のうねりを強調した大作。ヘアスタイルを気にして身支度を調える、後ろ姿美人を描きながら、鏡面に顔が映る趣向をこらした作品。お歯黒をしてほおずきを噛んでいる様子から、美しい人妻が逢い引きに出掛けるのかもしれない、という想像を掻き立てられます。
1812年(文化9年)、「戴斗」(たいと)を名乗ると、美人の肉体がふくよかになり、衣装にちりちりとした縮れが表現されるなど変化が起こります。
「擣衣美人図」(とういびじんず:肉筆画 1811~1813年[文化8~10年]頃)は、「擣衣」(生渇きの洗濯を打ってアイロンのように伸ばすこと)の道具を背景にした美人。女性の日常生活の一端をとらえ、敬意をも感じる作品です。
北斎が描いた美人画は「為一」(いいつ)まで。それ以降は関心の外になったようで、ほとんど描かれなくなります。実は、1828年(文政11年)に後妻「こと」が死去。描かなくなった時期と一致するのです。
「団扇と美人図」(肉筆画 1818~1830年[文政元~文政13年])は、「北斎為一筆」の落款が入る数少ない為一時代の貴重な一枚。帯揚げをする不自然なポーズと縮れた衣装が、戴斗期の特徴を継承しています。
美人画で遊女や花魁を描くことが多かった北斎ですが、モデルとしたのはすべて「こと」だったのではないでしょうか。北斎にとっての美人は「こと」以外にはいないことが分かり、「こと」が亡くなることで、美人画を描く意味がなくなってしまったのかもしれません。
1810年(文化7年)、北斎にはすでに弟子が200人もいて、とても1対1で教えることができなくなっていました。そこで、「絵手本」(絵の描き方を習う本)の制作に傾注。1812年(文化9年)から13年をかけて10種類以上を出版し、北斎はその技術を惜しみなく披露します。その結果、ほとんどが大ヒット。特に「北斎漫画」(ホクサイ・スケッチ)は、海外に「ジャポニズム」を巻き起こすまで影響を与え、大ベストセラーと化すのです。
北斎漫画(ほくさいまんが)は全15編で、カット数は約4,000点。タイトルの漫画とは「漫(そぞ)ろに描いた絵」の意味で、北斎自らが命名しました。北斎が亡くなる1849年(嘉永2年)に13編が刊行されていることからも、北斎漫画の制作が彼のライフワークになっていたと言っても過言ではないでしょう。
北斎漫画初編(第1巻)は、1814年(文化11年)に出版。北斎が名古屋に住む弟子、尾張藩士「牧 墨僊」(まき ぼくせん)宅に逗留した際に描いたスケッチをまとめた物。版元は名古屋の「永楽屋東四郎」で、これが大ヒット。続編の2~10編は、1814年(文化11年)から5年の間に江戸の版元「角丸屋甚助」から刊行され、こちらもベストセラーになります。
さらに1856年(安政3年)、北斎漫画が日本から送る陶磁器の梱包として使用されているのを、フランスの版画家フェリックス・ブラックモンが見付けたことからヨーロッパでジャポニズムが起こり、北斎漫画は「ホクサイ・スケッチ」と呼ばれ、海を越えて大ベストセラーに。
彼はモネやドガ、セザンヌなど、印象派の画家達にかなりの影響を与えます。特に、エドガー・ドガ(1834~1917年)が描いた「踊り子たち・ピンクと緑」という作品は、「北斎漫画11編」の力士と構図がそっくり。また、クロード・モネ(1840~1926年)は北斎が描く大地から生える花に感銘し、あの有名な「睡蓮」を描いたのではないかとも言われています。
1812年(文化9年)、江戸の版元角丸屋甚助から刊行されたのが、「略画早指南 前編」(りゃくがはやおしえ)です。北斎は、コンパスや定規を使って、簡単に絵を描く方法を図解しています。
江戸時代に活躍した北斎がコンパスを使用していたとは驚きですが、コンパスは1624~1643年(寛永元年~寛永20年)に南蛮人によって日本に伝わり、古くから「ぶんまわし」(規)と呼ばれ、測量や製図で用いられていました。
2年後の1814年(文化11年)には「略画早指南 後編」を発表し、今度は、ひらがなや簡単な漢字を使って絵を描く方法などを伝授する内容でした。
一筆画譜(いっぴつがふ)は、1823年(文政6年)に出版。絵手本の中でも初級者用で、いわゆる「一筆描き」の手引書です。何度もなぞって真似ていくうちに、一筆でスラスラ絵が描けるようになり、上達を目指せるという物。
実はこちら、北斎が名古屋に逗留した際、その30年前に名古屋で早世した文人画家「福善斎」(ふくぜんさい:1786年[天明6年]没)が描いた一筆描きを見たのだそう。福のアイデアを埋もれさせてしまうのは惜しいと、北斎流にアレンジして、名古屋の版元永楽屋東四郎から出版することになったのです。
猫や鳥、江戸の町民など、北斎タッチの可愛らしいイラストが100カット以上も掲載されています。見ているだけでもおもしろく、こちらも思わず描いてみたくなるほど。もちろん大ヒットとなりました。
70歳になった北斎は、まるで生まれ変わったかのように、代表作となる「富嶽三十六景」をはじめ、「百物語」、「琉球八景」、「千繪の海」、「諸国瀧廻り」、「諸国名橋奇覧」、「詩歌写真鏡」などの錦絵を、わずか5年の短期間で精力的に発表します。そのすべてが高評価。それまで「美人画」や「風俗画」の背景に過ぎなかった風景が、「風景画」というジャンルとして確立されたのです。
北斎は、67歳のときに「脳卒中」で倒れるも、1年後に見事に回復。しかし、後妻「こと」と死に別かれます。北斎は、まるで悲しみを打ち払うかのように「富嶽三十六景」を制作。名所の景物に過ぎなかった対象を中心にとらえ、斬新な「構図」を魅せる手法で、大絶賛を浴びるのです。
本来「名所」とは、和歌に詠まれた土地のこと。神仏ゆかりなど史跡と密接な関係がありました。それが、江戸時代後期の経済的発展と共に人の移動が盛んになり、行楽・旅行を楽しむブームが到来します。メディアがない時代、「どこかに行きたい」という欲求を満たす物として、北斎の「風景画」は売れに売れました。
「甲州石班澤」(こうしゅうかじかざわ:錦絵 1831年[天保2年]頃)は、現在の山梨県鰍沢(かじかざわ)。荒川の岩場から体を曲げて網を引く漁師と富士山が相似形となる、安定感のある三角形の構図が素晴らしい一枚です。富嶽三十六景の初版10作品は、「ベロ藍」(べろあい)と呼ばれる、プロシア製の染料を用いた青一色の濃淡で刷られました。江戸の庶民は、初めて見るベロ藍色の絵の美しさを「北斎ブルー」と呼び、賞賛します。
また、2版以降は多色刷りで、富士の雲間に引かれた橙色がとても綺麗。どちらも手元に欲しいと思わせる、版元の創意工夫がみなぎります。
「瀧」は高いところから垂直に、急角度に落下する水。「千変万化の水」をテーマに、 名瀑(めいばく)というよりも、瀧の水の流れのおもしろさで選ばれたと言われています。
「諸国瀧廻り」は全8図。奈良県の「和州吉野義経馬洗瀧」、東京都の「東都葵ヶ岡の瀧」、神奈川県の「相州大山ろうべんの瀧」、岐阜県の「美濃国養老の瀧」、栃木県の「下野黒髪山きりふりの瀧」、長野県の「木曽海道小野ノ瀑布」、岐阜県にある「木曽路ノ奥阿弥陀ヶ瀧」、三重県にある「東海道坂の下清瀧くわんおん」の8つの瀧。
「和州吉野義経馬洗瀧」(錦絵 1832~1833年[天保3~4年])の「和州」とは、現在の奈良県のこと。鎌倉幕府将軍「源頼朝」の弟「義経」が、吉野から逃れる際に馬を洗ったという伝説の瀧です。義経の姿は描かれず、江戸の庶民が馬を洗う風俗画として描かれています。
「木曽路ノ奥阿弥陀ヶ瀧」の場所は、現在の岐阜県郡上市。今も「日本の瀧百選」にも選ばれている、名瀑です。室町時代、白山中宮長瀧寺の僧が護摩修行中、阿弥陀如来が現れたことからその名が付いたそう。
実際には見えない瀧の落ち口を、視点を変えて、まるで太陽のように丸く描いているのが見事。江戸時代に賑わった「白山詣で」の一行も描かれ、その楽しそうな様子から、一度は訪れたくなってしまいます。
北斎は、富嶽三十六景のことを「三十六景としたが、百以上出したい」と語っていました。
その言葉通り、すぐに「裏富士」と呼ばれる10図が追加で刊行され、「富嶽」は四十六景に。さらに2年後、「富嶽百景」(1834~1835年[天保5~6年])という絵本を全3編刊行します。
富嶽百景は冊子という形式なので、その特性を活かして、富士山の誕生秘話である神話や伝説がストーリーで展開されるなど、次のページをめくりたくなる構成。
初編1ページ目に登場する「木花開耶姫命」(このはなのさくやひめのみこと)。神話上の富士山の女神で、背後に富士山を携え、空に浮いているかのような姿が神々しく美しく描かれています。二編で描かれている「登龍の不二」は、富士の裾野から這い登る龍の姿が大迫力の作品です。
また、二編「海上の不二」は、富嶽三十六景で大好評を得た波の表現を存分に活かした構成。大波のしぶきから生まれ出てくるかのように飛び立つ千鳥は、まるで動く絵、アニメーションのよう。
奇才・北斎のとてつもない想像力に感服します。
北斎の弟子は200人以上で全国各地にいたと言われています。なかでも有名なのが、実の娘「お栄」(葛飾応為:かつしかおうい)。そして、門人筆頭と言われた「蹄斎北馬」(ていさいほくば)、北馬と共に双璧と言われた「魚屋北渓」(ととやほっけい)。こちらでは、偉大過ぎる北斎の影に隠れた3人の弟子達の、秀逸な作品をご紹介します。
北斎は、先妻との間に、1男富之助、2女お美与、お辰。後妻との間に、1男多吉郎、1女お栄の5人の子どもを授かっています。
富之助は北斎の代わりに家業の鏡師「中島伊勢」の後継者となるものの、早世。お美与は画才があり、北斎弟子の柳川重信と結婚し長男を産みますが、離婚してすぐに他界してしまいます。お辰にも画才がありましたが、やはり早世。
多吉郎は、なぜか武士の養子になり御家人に。結果、お栄が北斎の家督を継ぐことになりました。
そんなお栄は、北斎と容貌も、強情な性格もよく似ていました。北斎と違った点は、酒と煙草を嗜好するところ。「アゴが突き出た不美人」と紹介する書物もありますが、北斎が描いたお栄を見ると、強情そうですが容姿は美しく整っています。自分似の娘を素直に美人と呼べない、江戸っ子北斎の言葉を真に受けて、そう伝わってしまったのかもしれません。
プライベートでは堤派、堤等琳の門人「南沢等明」と結婚しますが、夫の絵を拙いと指摘したことが原因で離縁されて、出戻り。以降、北斎が死ぬまで共に暮らし絵を描きます。
画号「葛飾応為」の「応為」は、北斎から「おーい、おーい」と呼ばれていたからという説があります。
お栄は小さい頃から絵が上手く、北斎からも「美人画にかけてはお栄にはかなわない」とお墨付きを得ていました。特に、「月下砧打美人図」は秀逸で、北斎の作品に引けを取らないでき映えです。実際、お栄は北斎の名前で世に出したほうが高く売れることから、お金欲しさに北斎名で発表した作品もいくつか存在するよう。
また「唐獅子図」のように、唐獅子は北斎が描き、周囲の花はお栄が描いたというように、合作を公表している作品もあります。お栄は色彩感覚に長け、特に光の明と暗を描く作風は、北斎にないオリジナル。「吉原格子先之図」は、まさに見事。その卓越さから、のちに「日本のレンブラント」と言われるようになるのです。
北斎の死後、67歳のときに家出し行方不明に。仏門に入ったとか、加賀前田家の加護を受けて金沢で没したとか、お栄の最期は謎に包まれています。
蹄斎北馬は、1771年(明和8年)生まれ。北斎門人の筆頭で、本名は「星野光隆」。通称は「有坂五郎八」です。
御家人の家に生まれますが、当時の武士は貧しかったことから、1800年(寛政12年)、家計を助けるために家督を弟に譲り絵師になることを決意。北斎に憧れて入門し、絵がうまくすぐに狂歌本、読本の挿絵を担当。やわらかく優しいタッチが特徴でした。
1813年(文化10年)刊行の「戯作者と浮世絵師の見立相撲番付」では、小結に。これは、歌川豊国、国貞についで第三位という意味。当時、すでに実力も人気も高かったことが分かります。1830年(天保元年)になると、北斎風から離れて独自の画風を確立。美人画で大成します。
「この右手は北斎の用にのみ供すべし」と言って、タニマチの文人画「谷文晁」(たに ぶんちょう)の手伝いをするときは、左手で筆を取ったという逸話が有名です。49歳で仏門に入り、1844年(弘化元年)75歳で没します。
魚屋北渓は、1780年(安永9年)生まれ。蹄斎北馬と共に、北斎門人の双璧と言われた人物です。本名は、「岩窪辰行」または「初五郎」。
「魚屋」というユニークな屋号は、生家が魚屋さんを営んでいたことに因んでいます。
はじめは狩野派7代目絵師「狩野惟信」(かのうこれのぶ)に学びますが、のちに北斎門人に。
1800年(寛政12年)、20歳のときに狂歌本の挿絵でデビュー。挿絵をメインに活躍し、実力が高く「北斎の画風に忠実な弟子」と言われてきました。
常に師である北斎を追いかけ、オマージュした「諸国名所シリーズ」、「北渓漫画」を刊行し、有名に。1850年(嘉永3年)北斎が亡くなった翌年に、あとを追うように71歳で亡くなります。
北斎は愛知県の名古屋とは縁が深く、生涯で2回この土地に来ています。それは1812年(文化9年)と1817年(文化14年)。「北斎漫画」のスケッチを描き溜めたことは有名ですが、「だるせん」(ダルマ先生)というあだ名で親しまれていたことはご存知でしょうか。ここでは、北斎と名古屋の関係をご紹介します。
1812年(文化9年)、北斎は関西旅行に行く途中、門人で尾張藩士の「牧墨僊」(まき ぼくせん)宅がある愛知県名古屋に半年間逗留し、約300カットの絵を描きます。
牧墨僊の本名は「牧信盈」(まき のぶみつ)。尾張藩家臣の家に生まれ、「御書院番」(ごしょいんばん:江戸幕府の役職名。江戸城の警護や将軍外出時の護衛などを行なった)を勤めた立派な人物です。参勤交代の際、江戸で「喜多川歌麿」の門人になり、歌麿死後に北斎門人になったと言われています。画号は「北僊」(ほくせん)、「百斎」(ひゃくさい)。
墨僊宅は、名古屋の一等地・栄駅にある商業複合施設「LACHIC」(ラシック)のあたりにありました。北斎は名古屋を大変気に入り、「おれは、もう江戸には帰らぬよ、この名古屋はまことに良い所で、おれの身体には時候も飲食物もよく合っているから名古屋は死場所」と語っていたそう。この名古屋で描いた約300カットの絵が、名古屋の版元(出版社)「永楽屋東四郎」の目に留まり、1814年(文化11年)「北斎漫画 初編」が刊行されます。
名古屋がある愛知県は、今も寺院の数が日本一(文化庁:宗教年鑑 平成29年版)で、北斎はユニークなお坊さんをたくさん描いています。また、麺を食べる男やうなぎのカットも。「きしめん」や「ひつまぶし」など、北斎も名古屋飯を食べていたかもしれませんね。
1817年(文化14年)北斎は、北斎漫画 初編の宣伝のため、再び名古屋を訪れます。10月5日、名古屋市大須にある「西本願寺掛所」(現在の本願寺名古屋別院)で、紋付袴にたすき掛けをした北斎が、120畳(縦18m×横11m)の大紙の上に大筆を使って「だるま」の絵を描くというパフォーマンス・アートを行なったのです。
だるまとは、達磨大師のこと。禅宗の開祖で、面壁9年の座禅(壁に向かって座禅すること)を行なって手足が壊死し、悟りを開いたことで有名。座禅姿を模した物が人形にもなり、手足がない起き上がり小法師は、倒れても一人で起き上がる「七転八起」ので縁起が良い物として宗派を問わず人気がありました。
地面で描いていた大紙が引き上げられだるま絵の全貌が現れると、名古屋の人々は大喚起。イベントは大成功で本も売れ、北斎はだるせん(だるま先生)と、名古屋の人に親しみをこめて呼ばれます。
この10日後、北斎は永楽屋に2両2文の借金を申込み。パフォーマンスが成功し本も売れたのだから、借金よりも出演料の催促を行なえばいいのにと思うのですが。お金を得た北斎は約1年名古屋に滞在し、年末頃に大阪、伊勢、紀州、吉野へ旅したと言われています。
1831~1835年(天保2~6年)にかけて、北斎の名前を一躍有名にした「富嶽三十六景」を発表します。好評のため、追加で10図加え全四十六景に。「尾州不二見原」はその追加の中のひとつです。
大きな丸い桶の中から、小さな三角形をした富士山を望む、大胆で奇抜な構図がおもしろい作品。また桶屋のスケッチは、「北斎漫画 3編」に描かれています。
尾州不二見原は、現在の愛知県名古屋市中区富士見町の景色。江戸時代の人は、とりわけ富士山を好み、富士山が見える場所や見たいと願う土地に「富士見」という名前を付けました。いろいろな人が検証した結果、残念ながら当時も不二見原から富士山は見えなかったとのこと。
実は、名古屋を旅したときの恩人であり弟子である牧墨僊は、1824年(文政7年)、50歳の若さで急死します。
きっと北斎は、大好きだった名古屋の人々が、名古屋から富士山を見たいと言っていたことを覚えていたのでしょう。見えない場所に富士を描き、名古屋人の夢をそっと叶えてくれたのです。
北斎漫画よりも、いっそう大きく描かれた桶の輪は、北斎から名古屋の人々への感謝の気持ちの表れにも思えます。