「大鎧」(おおよろい)は、平安時代中期頃にそれ以前まで主流だった「短甲」(たんこう)、「挂甲」(けいこう)に代わって登場する武具です。平安時代に起きた合戦には、武芸を生業とした武士が鎮圧に向かう機会が増えるようになります。そして回数を重ねるごとに戦闘形式に合う甲冑が作られるようになりました。大鎧が誕生した背景と基本構造、各時代の大鎧をご紹介します。
「大鎧」(おおよろい)は、平安時代中期頃に戦闘形式が変化するなかで誕生しました。大鎧が誕生する以前は、古墳時代から使われていた「短甲」(たんこう)や「挂甲」(けいこう)といった甲冑が主流でした。
使用する武器も直刀(ちょくとう)の太刀(たち)や矛(ほこ)、弓矢など。
801年(延暦20年)に「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)率いる朝廷による蝦夷征伐の頃もおそらくまだ短甲と挂甲といった武装でした。
それが平安時代中期の「平将門の乱」(たいらのまさかどのらん)や「藤原純友の乱」(ふじわらのすみとものらん)の頃になると武器や武具が新しい形式に変化したと考えられています。
刀剣は直刀から湾刀(わんとう)の太刀に変わり、矛から長刀(薙刀:なぎなた)となりました。そして刃物と共に弓も変化しています。弓は木のみで作られた「丸木弓」(まるきゆみ)から、木と竹を組み合わせた強力な「伏竹弓」(ふせだけのゆみ:合成弓、強化弓とも)が誕生しました。
大鎧は、騎射戦に対応するために誕生した背景から、弓を引く動作と、敵からの攻撃にいかに対抗するかが重要視されました。
大鎧は、兜(かぶと)、胴(どう)、脇楯(わいだて)、大袖(おおそで)、草摺(くさずり)。胸上部を防護する栴檀板(せんだんのいた)と鳩尾板(きゅうびのいた)があります。
そして手を防護する籠手(こて)、足を防護する臑当(すねあて)などが基本の構成です。
素材は、鉄、牛生革、鹿鞣(なめし)革、絹糸、染料などで制作。それも所有者の身分が高ければ高いほど、高い技術を結集して作られています。
そして、矢をなめらかに放つという点で、大鎧を構成する部品のひとつ「小札」(こざね)が重要な働きをしているのです。小札は挂甲にも使用されていた部品であり、大鎧にも同じくこの手法を継承しています。
小札は主に鉄板か胴板を用い、長さは7~8cmで幅は4cmほどが一般的。名刺大の小札を1組の大鎧に4,000枚近く使用します。
小札を「縅毛」(おどしげ)と呼ばれる絹や革などでできた紐で縅して(おどして:小札を結び付けること)、大袖や草摺などを制作。
小札の組み合わせにより大鎧は伸縮性を備え、動作に合わせた弓の扱いや、場合によっては太刀の扱いをより活動的にすることができます。
また動きを良くするのと同時に、小札は鉄または銅で作られていることから丈夫で、敵から身を守るにも最適な部品でした。それらの甲冑は、戦闘形式の変化に合わせて下級武士も誂えることのできる安価な物や、軽量化した物などが登場するようになります。
「厳島神社」(いつくしまじんじゃ:広島県廿日市市)は国宝の大鎧「紺糸縅鎧」(こんいとおどしよろい)を所蔵しています。
本大鎧は、「平清盛」(たいらのきよもり)の子「平重盛」(たいらのしげもり)によって奉納されたと伝わる1領(りょう)です。
本大鎧は、平安時代当時の原形を留めたまま現存している数少ない甲冑です。作風には、幅の広い小札や太い縅毛、狭い胸板(むないた)など平安時代後期の趣向がはっきりと表れています。
兜は鉄黒漆塗二十間張で、鉢(はち)は鍍銀(とぎん:銀メッキ)の二方白十八間の厳星となった重厚感のある作り、同じく黒漆塗の小札で縅して制作されています。小札を結び付けていく縅毛に傷みがあるものの、ほとんど欠けた部分は見られません。
厳島神社は、瀬戸内海に位置する社であり、古来より海上の交通を守る神として信仰されていました。平清盛は宋との「日宋貿易」によって日本経済を支え、財を成した人物です。その平清盛も一族繁栄を祈って、経典(きょうてん)の奉納や社殿の整備など、厳島神社を厚く信仰したと言います。
「赤糸縅鎧」(あかいとおどしよろい)は、「春日大社」(奈良県奈良市)に所蔵されている大鎧であり、「源義経」(みなもとのよしつね)によって奉納された逸話がある1領です。
鮮やかな赤色の縅毛が目を惹く本大鎧は、兜に竹と雀を基調とした飾金物が施され、大袖には大きな虎の金物細工(かなものざいく)が添えられています。また、金物細工いっぱいに装飾された雀の数はなんと合計96羽。その他にも、藤、桐、菊、蝶などの精緻な彫金技術で制作された金物を配置しています。細工の美しさ、制作当時の状態をほとんど留めていることなどから、日本一豪華な鎧ともうたわれ、国宝にも指定されました。
そして本大鎧は源義経が奉納した逸話を持ちますが、想定される制作年は、源義経が没したあとの鎌倉時代後期から南北朝時代だとされています。また、華やかな意匠を凝らしていることなどから、実戦というよりも奉納用に制作された物だと考えられているのです。
「紫糸縅肩白浅黄鎧兜」(むらさきいとおどしかたしろあさぎよろいかぶと)は、江戸時代に現在の青森県を治めた南部氏が所有した大鎧です。
南部氏とゆかりのある「櫛引八幡宮」(くしひきはちまんぐう:青森県八戸市)に国宝「白糸縅褄取鎧」(しろいとおどしつまどりよろい)とともに奉納されました。
重要文化財にも指定されている本大鎧は、兜の前立鍬形や胴の弦走韋(つるばしりのかわ)は欠損しているものの、南北朝時代の特徴ある優れた甲冑です。大袖は7段からなり、1段目は白、2段目は浅黄、3段目以下を紫糸で縅しています。そして大袖には八重菊の金物を、鳩尾板と吹返(ふきかえし)には菊文金物が据えられているなど、職人の確かな腕を感じることができる1領となっています。
「練革空小札白糸威大鎧」(ねりかわからこざねしろいとおどしおおよろい)は、江戸時代の大名家である田沼家が所有した大鎧で、現在は「刀剣ワールド」が所蔵しています。
田沼家は、「田沼意次」(たぬまおきつぐ)が江戸幕府の老中(ろうじゅう:幕政の最高責任者)に抜擢されたことで、一旗本から遠江国(現在の静岡県西部)の相良藩初代藩主に取り立てられました。
本大鎧は、草摺や袖を白糸で縅し、さらに胴の練革なども白で統一するなど華美になりすぎない上品な作りとなっています。
そして随所に「丸に一引両紋」(まるにひとひきりょうもん)を配置。この丸に一引両紋は、田沼家の家紋が「七曜紋」(しちようもん)に変わる以前に使用していた家紋となります。
本大鎧が制作されたのは太平の世となった江戸時代の頃。平和な時代に甲冑が実戦で使用されることはほとんどなく、大鎧は廃れ、軽量で身動きしやすい「当世具足」(とうせいぐそく)が浸透していた頃でした。けれど当世具足も戦いの防具ではなく、武家の家格を示す飾り甲冑として制作するのが当時の流行。そのなかにあって古式の大鎧は、「復古調」の飾り甲冑として再評価されるようになったのです。
本大鎧の「練革金小札紅糸威胴丸具足」(ねりかわきんこざねくれないいとおどしどうまるぐそく)も、復古調の流れを汲み明治時代に制作されました。
兜には獅子を象った「獅子噛鍬形」(ししがみくわがた)の前立と、さらに兜上には龍の前立が飾られています。
そして籠手は鯰の頭のように手甲の先端が丸くなっている「鯰籠手」(なまずごて)です。または、源義経が兄「源頼朝」(みなもとのよりとも)に追われた際に立ち寄った寺に残して去った甲冑の籠手も鯰籠手だったことから、別名「義経籠手」とも言います。
明治時代は、武士の時代が終わり、甲冑だけではなく日本刀の作刀なども次第に衰退し、市場は国内から海外に移行する過渡期にありました。
本大鎧は、全体的に欠損が少なく、贅沢な素材をふんだんに使用していることから海外への輸出用だったとも考えられます。