ありがたくも、半世紀近くの舞台生活を続けさせていただいているのは、先代河原崎国太郎氏との出会いなくしては到底あり得ないものでした。

 私が入座した時、師は64歳。市川笑也として、猿之助一門で初舞台を踏まれたのが19歳。22歳で前進座創立に参加。翌年23歳で5代目河原崎国太郎を襲名。以後前進座一筋、女形(おやま)の中で筆頭の立女形(たておやま)の道を歩まれ、油の乗り切っていたこの時期に師にお会いすることが出来たのです。お亡くなりになるまでの16年間、身近にお仕えさせていただけたありがたさは言葉に尽くせるものではありません。

 私が、つくづくすごい役者さんだなぁと感じたのは、66歳で『東海道四谷怪談』(お岩)、67歳で『お六と願哲』(お六)、68歳で『絵本合邦衛』(うんざりお松)、69歳で『切られお富』(お富)と、それぞれ初役で挑戦され、悪婆物の女形をやらせたら当代一との名声を確固たるものにされたのが、まさに、この時期65歳を過ぎてからの国太郎師であった点です。

 踊りを師の次女・藤間多寿史さん(現在の國太郎・芳三郎さんのお母様)に教わっていたこともあり、稽古場のある三鷹のご自宅にも、しょっちゅう伺っていました。江戸っ子の国太郎さんと、宝塚出身の奥様、上方ナマリの重子さんとのやり取りが絶妙で、酒食をご馳走になりながら、時のたつのも忘れて聞き入っていたものでした。

 国太郎師は、独特のハイカラな部分をお持ちで、おしゃれな言葉もポンポン出てきます。「女形はルーツも大事だからねぇ。お前さんは、四国の田舎者だからチョットねぇ!」などと笑い飛ばされていたのを思い出します。

 当時は、その女方振りに圧倒されていて、「こりゃぁ女方を続けるにしても、絶対にかなわない存在だナァ無理だナァ」と、正直思っていました。後年、師の代表作の一つ、『芝浜の革財布』のお春役をやらせていただけるなど、本当に思いもよらないことだったのです。

 劇団創立50周年の年、1980年12月、東京歌舞伎座での記念公演が実現しました。松竹の片岡孝夫(現仁左衛門)さん、水谷良枝(現八重子)さんにも特別出演していただき、口上を含め、昼夜7本立て。誠に豪華な公演でした。

山崎辰三郎と改名した「四谷怪談」のお槙役、1982年

 松竹から飛び出して前進座を創立して半世紀、その松竹の本拠地・歌舞伎座での記念公演。翫右衛門、国太郎さん達の喜びもひとしおだったと思います。

 演目の一つ、舞踊『雪祭り五人三番叟』は、次代を担う劇団育ちの子共達での配役となり、民路(現矢之輔)・梅雀・ひのき(高瀬精一郎子息)・健太(いづみ子息)広也(現芳三郎)の5人が発表されました。せっかくの記念公演だし、養成所出身者にもチャンスを、との声があがり、オーディションの末、何と私と、増田君(現姉川新之輔)の2人がダブルキャストで

 歌舞伎座の所作舞台に立てたのです。劇団としては、勇気のいる決断だったと思いますが、まさに歌舞伎座のひのき舞台で踊る幸運をいただいたのでした。

 演劇の世界にバブルという言葉は不自然ですが、この頃、大都市の商業劇場は、おしなべて活況で、親子劇場・こども劇場運動も大きな広がりを見せてぃました。翫右衛門・国太郎両氏の『文七元結』と歌舞伎教室が、全国40ヶ所、特別企画おやこ劇場例会として実現したのも1981年のことです。

 「すごい事をやってたよね!」と、今でも語り草ですが、くしくもこれが、翫右衛門さんのおしまいの旅公演となりました。当時、満80歳。カーテンコールで子供達にエネルギッシュに呼びかけられていたそのお姿を、ハッキリ記憶しています。そして、翌年南座での『左の腕』の卯助役がおしまいの舞台となり、その年の前進座劇場オープンを待たずに亡くなられたのでした。

 舞台で直接教わったことは少ないのですが、松本清張さんが翫右衛門さんにあてて書かれた『たいこもち侍』の芝居で、カラミとして、翫右衛門さんに向かってトンボを切っていたのが自慢です。(この頃は、私もやせていて、いろんな舞台でトンボ返りをやっていたんですよ。)

徳島の友人たち開催の祝う会にて本人の余興『おてもやん』 三味線を弾いてくださったのは、床山の谷川氏

 1983年1月31日、独身に終止符が打てました。

 当時34歳。「ちょっと、マズイゾ」と実は焦っておりました。縁あって、若い劇団仲間の伴侶を得ました。女房が劇団育ちでしたから、お仲人が国太郎師ご夫妻、梅之助・いづみ・芳三郎・高瀬氏など前進座トップの面々に大勢出席していただいての結婚式でした。スピーチで、梅之助さんが、「世間一般の会社なら、会社役員がこれだけ揃っての結婚式。エリート出世間違いなしというところだろうけど、前進座はそうじゃないので、そのつもりで努めなさい。」と、温かく?おっしゃっていただいたのを覚えております。 ではまた。