徳島市の内藤佐和子市長に対するリコール(解職請求)運動を進める「内藤市長リコール住民投票の会」(代表・久次米尚武元市議)による署名集めが始まりました。選挙で選んだ代表を辞めさせるのがリコールという制度です。なぜ、この制度が設けられているのでしょうか。吉野川第十堰(ぜき)の可動堰化を巡る住民投票に関わり、直接民主制に詳しい武田真一郎・成蹊大教授(行政法)に、民主主義におけるリコール制度の意義を聞きました。

 ―そもそも、リコールとはどんな制度ですか。

 リコールというのは、直接民主制の住民投票の一つです。では、住民投票とは何か。選挙は住民投票とは言いませんよね。つまり、間接民主制の代表を選ぶ投票(選挙)ではなく、住民が直接政治に参加して意思を表明するための投票を住民投票と呼んでいます。

 住民投票には「表決」「発案」「リコール」の3種類があります。世界のどの国でも、この3種類が住民投票と呼ばれています。「表決」は、ある争点に賛成か反対かを問います。吉野川第十堰の可動堰化の是非を問う投票はこれに当たります。「発案」は住民が法律案や条例案を提案し、その賛否を問うものです。日本では実例がありませんが、米国の州レベルで一番多く行われている住民投票です。そして「リコール」は、公職にある者が無能・不適格な場合に辞めさせる制度です。 

 ―間接民主制の選挙があるのに、直接民主制の住民投票がなぜ必要なのでしょう。

 間接民主制が機能不全を起こすことが必然的にあるためです。まず、選挙で争点にならなかったことについては民意が反映されにくい。候補者が選挙の時にわざと争点に触れない「争点隠し」をすることもありますよね。

 また、実にしばしば起きているのが、選挙で選ばれた代表が民意を反映しないということ。可動堰はまさにそうでした。行政・議会と住民の意思があまりにも乖離(かいり)したときに、住民投票が求められます。誰かにお任せするのではなく、自分たちが考えて行動していくのが民主主義です。

 ―「乖離」はよく見られる気がしますが、住民投票になることはまれです。

 日本は住民投票後進国なんです。先進国で一番遅れていると言っていい。手続きがきちんと決められているのは「リコール」だけです。提案型の「発案」はおろか、「表決」についてすら、手続きが整備されているのは憲法改正の国民投票など限られたものだけです。

 リコールの手続きが整備されているのは、選挙と裏腹だからでしょう。選挙で代表を選ぶのは大事なことだけれど、選んだ人が変な人だと困るからリコールの制度はつくっておこうと。発案と表決に関する手続きの整備が不十分なのは、戦前は地方自治はなかったから。だから戦後、地方自治法ができた時に「住民に任せたら不安」という意識があったんですよね。

 ―そこから成熟しないままなんですか。

 そうなんです。止まっちゃってるんです、地方自治法は。手続きが決まっているのがリコールだけなので、「あの首長のこの政策がよくないから辞めさせよう」という使い方がされることがあります。でも、これは本当はおかしい。特定の政策について賛否を問う場合は「表決」をすればいい。愛知県の大村秀章知事に対するリコール運動(2020年)は、県が関わる美術展に天皇制や慰安婦をテーマにした作品を展示すべきかどうかという議論が発端です。本来はこれに争点を絞った「表決」にすべきでした。

 今回の徳島市長のケースは、特定の政策ではなく適格性が問われているようなので、「リコールの目的外使用」との印象は受けません。

 ―愛知県知事のリコールで起きた署名偽造事件の影響は。

 リコールや住民投票で不正がはびこると、この制度への信頼感が損なわれてしまいます。しかし、選挙でも買収などの不正はあります。それでも「不正があるから選挙をやめよう」とはなりませんよね。住民投票も同じです。信頼を損なわないよう、住民が賢くなって制度を運用しないといけません。

 ―政治的な対立がリコールに絡む場合をどう考えればいいでしょうか。

 政治的対立が起きるのはある意味で健全です。何でも満場一致の方がおかしい。対立そのものが悪いわけではありません。対立が起きても感情的で不毛なものに終わらせず、市民が望むことは何なのかをきちんと議論する。「あんなの単なる政争じゃないか」という声が出ても、そこで議論を止めずに論点や是非を考えていくことが大切です。

武田真一郎(たけだ・しんいちろう) 1959年、東京生まれ。徳島大助教授時代に吉野川第十堰の可動堰化を巡る住民投票の実現を支援した。愛知大助教授などを経て現職。著書に「吉野川住民投票・市民参加のレシピ」(東信堂)。