上空から見た爆撃後の市街地=徳島市、県立文書館提供

 太平洋戦争末期の昭和20年7月4日未明、B29爆撃機が徳島市に襲来した。約2時間にわたって焼夷(しょうい)弾を投下し、一夜にして市街地の約6割が焼けた。当時の人口約11万人のうち、死者は約1千人、負傷者は約2千人、被災者は7万人に上った。

 大空襲から今年で76年。当時5歳で、家族と一晩中山の中を歩き、爆撃から逃げ延びた福良昭さん(81)=徳島市在住=に空襲前後の記憶をたどってもらった。※末尾にインタビュー動画あり
 

小松島市で菓子屋を経営 徴用令で兵庫県に

5歳で徳島大空襲を経験した福良さん=徳島市内

 私には4つ上の姉と2つ上の兄がいて、両親は空襲前、小松島市で菓子屋を営んでいた。まんじゅうやコンペイトーなどを売っていて、母親の話では小松島港に着いた海軍の兵隊がよく買いに来てくれていたらしい。私はその時2歳で、「父親に自転車の後ろによく積んでもらっていたよ」と母親から聞かされたが、父親の記憶はほとんどない。昭和16年の終わりに父親に徴用令に出た。若い人が戦争に行って働き手がいなくなった兵庫県尼崎市の日本発送電の工場で働くことになった。17年の夏頃に家族で引っ越した。
 

父親はフィリピンに出征 家族で徳島に帰郷

 尼崎市に移って1年ちょっと過ぎた頃、昭和19年に父親に召集令状、いわゆる赤紙が出た。父親は和歌山港から船でフィリピンに向かった。後から文献などを調べて知ったが、その頃のフィリピンは負けて負けてどころか、東南アジア一帯は敗戦に次ぐ敗戦で、輸送船はみな沈没させられたと知った。それでも当時は「お国のために」と、日の丸の旗をみな振って見送ったようだ。19年のはじめに父親が出征して尼崎には住めなくなったので、徳島に帰ろうという話になり、弓町に家を借りて住んだ。その後1年いたかいなかったかのうちに空襲になった。
 

 「訓練かな」 空襲解除の4時間後にたたき起こされ

防空訓練の模様=昭和17年、旧鷲敷町、県立文書館提供

 空襲の日は、夜中の12時半頃に「空襲、空襲」「起きなさい」と母親に起こされた記憶が残っている。お年寄りがメガホンを持って、街の中を「空襲警報発令―!」って叫んでいた声で目が覚めた。空襲警報が出ることはそれまでに何度もあったが、爆撃を受けることはなかったので、「また訓練かな」と思っていた。当時は消火訓練もよくしていた。あるいはどこか他へB29っていう飛行機が飛んで行ったんだろなと。逃げる用意をして外に出ても、またすぐ帰って寝たりしていた。
 ところが、7月4日はそうではなかった。前日の3日、午後8時頃に「空襲警報発令」とお年寄りが叫んで回っていた。逃げる用意をしかけたら、すぐに「解除」の声が聞こえてきた。今回もまた午後8時ぐらいに収まって母親が「早く寝なさい」と言うもんだから寝たら、今度は夜12時半ぐらいに「早く起きなさい」って。
 

夜通し山の中を逃げ回り

 徳島市は一番はじめに、秋田町の方から焼夷弾が落とされていったらしい。「ドダーン」と大きな音がして炎に照らされて家の中が明るくなるので、母親は「これはいかん。近い」と思って、慌てて起こしたようだ。父親の出征後に生まれた当時10カ月の妹を母親が背負い、わらじを履く間もなく、着の身着のままで家を出た。自宅近くの金比羅神社の横に観音寺というお寺があって、そこに付近の人と一緒にいったん逃げ込んだ。

 ところが、秋田町もどんどん燃え始めて爆弾がどんどん落ち始めた。観音寺から金比羅神社の方に向かい、さらに裏山を駆け上がっていった。上がっている途中、振り向くと、人が下の方までずらっと連なっていた。男の人は戦争に行っているので、おばあちゃんとか女の人ばっかりが山の上に逃げていった。夜中の2時半ぐらいになっていたと思うが、山は真っ赤で昼間みたいに明るかった。空から街の方に青や赤の光る物がいっぱい落ちてきて、それがやがて山の方にも降ってきだしたのが見えた。焼夷弾だけでなく機銃掃射による攻撃も行われていたようで、弾に当たったのか分からないが、私の後ろの方でおばあさんが「腰にあたった、助けて」と叫ぶのが聞こえた。山の中を逃げている途中、木も燃え始めて火の粉が落ちてきた。燃えかすは服に掛かったらいけないので、ちょうど側をちょろちょろと流れていた谷川で「服を濡らしなさい」と母親に言われ、兄と一緒にそこに入って服を濡らした。

 山頂の方に上がると、今でいう城南高校の方に田んぼがあって、稲がいっぱい植わっているのが見えた。その頃にはもう夜明けになっていたと思う。「田んぼがある所で水を飲みたいけん、そこに行こう」と言って、山を降りていった。夜通し歩いていたものだから、大人もみな「水!水!」と言っていた。田んぼのあぜ道に降りていって、足を入れたのを覚えている。お寺に行くのも山の上に行くのもずっとはだしで、足が痛かった。「足が痛い、足が痛い」って泣いたらしいが、「ここで止まったら死ぬよ」と言ったと、母親が記した体験記に書いてあった。
 

街は焼け野原 「なんでこんなことになるのか」

爆撃後の市街地=徳島市、県立文書館提供

 城南高校の方に降りてからまた歩いて、金比羅神社や弓町の方を見ても、家も何もなかった。みんな焼けてしまった。丸新とかいくつかのビルは所々立っていた。当時の住宅は木造ばかりだったので、降りてきたら見渡す限り焼け野原で、焼けた燃えかすが道路にいっぱい残っていた。それから今で言う大道を、眉山のロープウェイの下の方から新町橋の方へ歩いて行った。途中の新町橋の手前で、電柱が立ったままぼんぼん燃えていて、「うわ、電柱が燃えてる」と思った記憶がある。街中の橋を通ったときに橋の下をのぞこうとしたら「危ないから行かれん」と母親に怒られた。人がたくさん死んでいたんだろう、びっしりと横になっているのが見えた。まだ生きているのか、「助けてー」と言ってもがいてる人もいた。
 それから「田舎の方に帰ろう」と言って、母親の実家のある勝浦町に向かった。勝浦川沿いに約25キロ、ずっと歩いて帰った。途中、大八車で迎えきてくれた祖父と出くわした。その頃には昼前になっていたと思う。

爆撃で焼き崩れた建物=徳島市、県立文書館提供

 なんで爆弾が落ちて、なんで火事が起きているのか。わずか5歳半では「なんでこんなことになるんだろう」ぐらいにしか思わなかった。逃げている途中、私が母親にしがみついたと母親が言っていたので、「怖い」という気持ちはおそらくあったと思うが、記憶には残っていない。炎で明るく照らされた空から爆弾が落ちてきた光景は目に焼き付いている。
 

「平和の犠牲になったと思えば慰め」 抑圧されることのない社会を

写真を見ながら空襲を振り返る福良さん=徳島市内

 いろんな文献を見ても、昭和20年までの日本というのは本当に個人の人権のかけらもない、自由民主主義のかけらもない国であったんだなと思う。戦争が終わり、個人主義が尊ばれて自由民主主義ができた。それまでは政府の悪口を少しでも言うと、みな刑務所行きだった。それが今は自由にものが言える。新聞もそう。今の香港と同じようなことが昭和30年頃まで起きていた。ちょっとでも批判記事を書くと、刑務所に放り込まれていた。だから、そういうことがなくなったというのは大きい。多くの国民が犠牲になったが、その後の今までとは全く違う新しい平和社会が実現した。そのために犠牲になったのだと思えば、遺族として少しは慰めかなと。 
 戦争も終わり、新しい憲法もできて平和な国になった。徳島大空襲以降に生まれた人は今の平和を享受してきたし、戦争のない平和な社会で生涯を閉じた人もいる。今の人は昔を知らないが、こういう話も語り継いでいかないといけないと思う。こういう戦争は二度とあってはならんし、これから先も未来永劫(えいごう)あってはならない。不幸なできごとはあってはならない。
 こんな小さな同じ島で住んでいるのだから、特別な人を排除したりせず、それぞれの個人が尊ばれて自由にものが言える社会が壊れないようにしてほしい。個人が自由にものが言える、何を言うても抑圧されることのない社会が未来永劫続いてほしいと思う。私は残り少ないけど、孫はまだ20歳前後だから。今の平和な時代をずっと守っていってほしい。

福良さんの母親、竹治クニヱさん(享年101歳)が書いた体験記は  こちら

福良さんのインタビュー動画はこちら https://youtu.be/3BItY2pZjnE