「南海トラフ地震はえこひいき」証言が始まりだった 発生確率「80%」が水増しと暴いた小沢慧一記者に菊池寛賞

2023年12月1日 20時01分
 第71回菊池寛賞(日本文学振興会主催)の贈呈式が1日、東京都内で開かれ、受賞した東京新聞(中日新聞東京本社)社会部の小沢慧一記者(38)が、正賞の置き時計と副賞の100万円を受け取った。

◆政府が科学を都合よく使っている。伝えねば

 報道機関の受賞で単独の記者が選ばれるのは44年ぶり。本紙の受賞は3度目。「30年以内に70〜80%という南海トラフ地震の発生確率が、水増しされた数字であり、予算獲得などのために科学がゆがめられている実態を、丹念な取材で明らかにした」と評価された。

第71回菊池寛賞を受賞し、スピーチする小沢慧一記者

 小沢記者はあいさつで、取材の端緒を得た5年前を「政府が科学を自分たちに都合がいいように使っていると分かり、報道しなければと思った」と振り返り「これからも目を光らせ、民主主義社会に役立つ取材をしたい」と述べた。
 選考顧問の阿川佐和子さんは「個人で、1人でひたすら問題を追いかけた。専門家という言葉、政府の発表に、私たちが惑わされやすいことに大いなる警鐘を鳴らしている」と評した。
 他の受賞者は、作家の東野圭吾さん(65)、歌舞伎俳優で人間国宝の片岡仁左衛門さん(79)、アニメ「ドラゴンボール」主人公の孫悟空などを演じる声優の野沢雅子さん(87)、野球日本代表「侍ジャパン」で監督を務めた栗山英樹さん(62)。

 南海トラフ地震 静岡県の駿河湾から九州沖にかけての、フィリピン海プレートとユーラシアプレートが接する溝状の「トラフ」で起きるとされる巨大地震。政府の地震調査委員会は30年以内の発生確率を70〜80%としている。また政府の中央防災会議は1000年に一度か、それより頻度の低い最大想定クラスの地震が起きた場合、死者約32万人、経済被害は220兆円に上ると予測している。

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 第71回菊池寛賞を受けた小沢慧一記者の書籍「南海トラフ地震の真実」は、発生確率の「水増し」という事実を、サスペンス映画さながらに調査報道で次々と明らかにした。見どころや著作に込めた思いを、筆者が紹介する。(小沢慧一)

◆議事録では地震学者が慎重論を唱えていた

公開請求した地震調査委員会議事録

 ウォーターゲート事件を追うワシントン・ポスト紙の記者を描いた映画「大統領の陰謀」。作中では謎の人物「ディープ・スロート」が重要な情報を記者に伝え、それをヒントに取材が進む。名古屋大の鷺谷威教授への取材は、私には映画と重なって思えた。教授はこう告げる。「南海トラフ地震の確率だけ『えこひいき』されている」と。
 「本当なら大変だ」。政府の会議の議事録を開示請求して確かめると、南海トラフの確率だけが特別な計算式「時間予測モデル」で算出されていた。このモデルには科学的な問題があるとして、地震学者らが会議で、確率計算に使わないことを提言していた。他の地域と同じ計算式では、確率が20%に落ちることも判明した。

◆行政側委員は「まずお金を取らないと」

 確率低下が予算獲得に影響するとみた行政側の委員は「まずお金を取らないと動かない。こんな(確率を下げる)ことを言われたら根底から覆る」と猛反対。今の確率が発表された。本書では議事録と関係者20人以上への取材から、それぞれの思惑が交錯し、緊迫する会議を再現している。
 時間予測モデルの信ぴょう性については、東京電機大の橋本学特任教授らと調査した。地震学者らの言うモデルの問題点を、明確に指摘した論文はない。「完全に間違っている」とも言い切れなかった。

◆古文書を調べると「確率の根拠は破綻」

 そこで、モデルの根拠とされる高知県室津港の江戸時代の地震での隆起に伴う、水深の変化を探った。その記録は港を管理する役人らが代々秘蔵してきた古文書から引用されている。一次資料で変化を確認しようと、高知に飛んだ。

高知県立高知城歴史博物館に寄贈された久保野家の史料

 古文書を調べると、港では当時、数千人を動員し、海底を掘り下げる工事を施した可能性が浮上した。この発見で、確率の計算に使われたデータは地震による変化の記録ではない恐れが強まり、確率の根拠は破綻しているという結論を導き出した。発見のヒントは偶然、港で見かけた観光案内板。本書では、なぜ案内板から結論に至ったのかも詳しく描いた。

◆メディア不信をぬぐいたい 取材の内幕を記事に

 ドラマ調で書いたのは、記者が一つの事実を世に出す上で、どのようなチェックをしているか関心を持ってもらいたかったからだ。フェイクニュースが問題視される背景には、既存メディアへの不信感がある。あまり表に出ない取材の内幕を明かすことが、既存メディアへの理解の一助になればと願った。
 報じるべきかどうか、当初は迷った。「防災のためなら水増しでも…」という考えも頭をよぎった。そんな時、2018年の北海道地震で家が倒壊し、家族3人を亡くした男子高校生に出会った。「新聞やテレビは、次は南海トラフ地震だと言っていたのに」と話す彼の涙に、ドキリとした。確率の問題を知りながら報じず、他の地域で地震の被害が続けば、報道の責任が問われるのではないか。

◆生煮えの科学が他地域での油断につながる

 南海トラフには最大限備えるべきだ。ただ、地震の予測精度は低く、政府の狙いとは裏腹に、確率の低い場所でばかり起きる。生煮えの科学が他地域での油断を生み、被害を拡大させているのなら、確率は「百害あって一利なし」だ。日本中どこでも地震は突然起きるという基本に立ち返り、全ての人が備えることが、減災への近道のはずだ。

久保野家の子孫、久保野由起子さん。

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 自身も確率検討時の政府委員でありながら、確率評価に批判的な取材に協力した鷺谷氏と橋本氏。その理由は、科学に政治的判断が介入した経緯を明かさないまま、確率が発表されていることへの危機感だった。

◆「落とし前を付けねば」と学者の委員も協力

 問題を「告発」した鷺谷氏。理由を聞くと、笑い交じりに「告発を意図したわけではないが」と前置きし「さまざまな議論を経て成立した(確率の)報告を、表面的になぞっただけの『報道』をされることは不本意だった」と説明した。一緒に古文書を調べた橋本氏は、調査した理由について「確率問題の『落とし前』をつけなければと考えた」という。
 時間予測モデルに問題があるとの訴えは委員会で受け入れられず、鷺谷氏は「防災関係者は地震学的な知見を、市民をせき立てるための道具としてしか見ていないことを思い知った」と振り返る。一連の問題の背景には「お上」に弱く、国の決定を変えたがらない日本人の性格があるとみる。「モデルは学問的問題が多い。なのに国が一度採用したということで、取り下げられなくなっているのは大変危うい」

◆「権威を疑え」ジャーナリズムへの要求

 地震学の実情について橋本氏は「国の予算を得てきた成り立ち上、役に立つことだけを求められる。学問の実力は、その期待に追いついていない」と明かす。「われわれは数万、数億年の地震活動の一瞬を見たに過ぎず、地震がどういうものか、研究者もよく分かっていない。その程度のものと理解してほしい」
 両氏にジャーナリズムに求めることを問うた。鷺谷氏は「嫌がられても問いを繰り返し、政府の発表の垂れ流しでなく、納得できたことを報道してほしい」と記者の自律性の重さを強調した。橋本氏は「権威を疑い、おかしいことにはおかしいと声を上げること」。そして「それは科学者も記者も同じ」と付け加えた。
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◆12月5日に小沢記者トークショー

「南海トラフ地震の真実」

 5日午後7時半からジュンク堂書店池袋本店で小沢記者のトークショーが開催される。先着30人で予約と書籍購入が必要。問い合わせは同店=03(5956)6111=へ。

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