黒田杏子さん死去 84歳 「平和の俳句」選者

2023年3月18日 08時53分

2021年、「平和の俳句」に応募されたはがきを手に句を読む

 本紙「平和の俳句」の選者を務めた俳人の黒田杏子(くろだ・ももこ)さんが十三日、脳内出血のため死去した。八十四歳。東京都出身。葬儀は近親者のみで行った。後日、お別れの会を開く。喪主は夫で写真家の勝雄(かつお)さん。
 十一日に山梨県笛吹市で開かれた「飯田龍太を語る会」に出席した翌朝、宿泊先で倒れ、甲府市内の病院に入院中だった。
 東京女子大在学中、俳句研究会で出会った山口青邨(せいそん)に師事。博報堂に勤めていた一九八二年、第一句集「木の椅子」で現代俳句女流賞と俳人協会新人賞を受賞し「キャリアウーマンの俳人」として注目。全国の桜の名所で句を作り「桜の俳人」と呼ばれた。九〇年に「藍生(あおい)」を創刊。九五年、「一木一草」で俳人協会賞、二〇一一年、「日光月光」で蛇笏(だこつ)賞。二〇年、現代俳句の発展に寄与したとして現代俳句大賞を受賞した。
 大学の先輩の瀬戸内寂聴さんや哲学者梅原猛さん、社会学者鶴見和子さんらと交流。中でも俳人金子兜太(とうた)さんとの親交は深かった。
 戦後七十年の一五年から本紙に毎日連載された「平和の俳句」では、金子さんに代わって一七年九月から十二月の連載終了まで選者を引き継いだ。翌年以降も毎年八月に「平和の俳句」が掲載される際や、二一年三月の「平和の俳句〜震災十年」で選者を務めた。
 主な著書に「黒田杏子歳時記」「季語の記憶」「証言・昭和の俳句」など。「脱原発社会をめざす文学者の会」の会員でもあった。

◆金子兜太さんと心の親交

<評伝> 「俳句の基本はオブザベーション(観察)です」。俳人の黒田杏子さんは、大学在学中に聞いた師の山口青邨の言葉を信条にしていた。「まこと<観察>は森羅万象あらゆる存在との出合いの原点でした」と著書でつづっている。代表句の<白葱(ねぎ)のひかりの棒をいま刻む>には、日常の光景が様変わりする瞬間を捉えた観察眼が光る。
 「季語の現場に立つ」という姿勢にこだわったのも、そんな教えあってのことだった。三十歳から二十七年を費やした日本列島桜花巡礼のほか、西国、坂東、秩父の百観音霊場巡礼や四国八十八カ所遍路にも挑戦した。二〇一五年に脳梗塞で倒れたが、再起。「韋駄天(いだてん)が杖(つえ)をついているだけ」と笑い、移りゆく季節の現場で詠むだけでなく、出版にイベントにと最後まで精力的に活動を続けた。
 青邨は俳句の伝統を重んじた高浜虚子の直弟子。黒田さんも季語を入れた「有季定型」にこだわったが、特に親しくしたのは季語にこだわらない前衛俳句の旗手、金子兜太さんだった。金子さんも講演の相方にいつも黒田さんを指名。「平和の俳句」では、金子さんから「あんたがやってくれるなら何も心配はしない」と後任を託された。
 三年間の連載が終了した翌一八年八月、黒田さんはひと月限定で復活した「平和の俳句」の選考に、主宰する「藍生」会員の夏井いつきさんと臨んだ。夏井さんに「師匠との選句の心境は」と水を向けると、黒田さんはすぐさま「私は師匠じゃないわよ」と打ち消した。一般の俳句愛好者に直接その魅力を伝えている夏井さんの活動にふれて「私はこの人から勉強しているの」と言い切った。
 学びの姿勢を大切にする「生涯一女書生」もまた、黒田さんが貫いた信条の一つだった。(小佐野慧太)

◆才能や局面見いだす天才

<黒田さんと「平和の俳句」選者を務めてきた作家いとうせいこうさんの話> あまりに突然のことでぼうぜんとしている。黒田さんは自ら素晴らしい句を作りながら、同時に常に新しい才能や新しい局面を見つけ出してはそれをつなげる天才であった。つまり自身が輝かしいメディアだった。そして発見した対象の、いつまでも誠実なファンでい続ける愛の人であった。

関連キーワード


おすすめ情報