大川小遺族 10年の記録「生きる 大川小学校 津波裁判を闘った人たち」など 3.11ドキュメンタリー公開

2023年2月23日 07時57分

映画「生きる 大川小学校 津波裁判を闘った人たち」から。震災で津波にのまれた大川小学校の校舎(現在は閉校)©2022 PAO NETWORK INC.

 東日本大震災から12年。津波からの避難が遅れ、多くの児童が犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校(現在は閉校)、福島第一原発の事故で住み慣れた土地から離れた人、戻った人、残った人…。「被災者の10年」を追ったドキュメンタリー映画が、今年の「3・11」の前後に相次いで上映される。 (上田融)
 「生きる 大川小学校 津波裁判を闘った人たち」は十八日から公開中。二〇一一年三月十一日、児童たちは地震発生から校庭に約五十分とどまり、避難先が決まり移動する途中、津波にのまれた。児童・教職員計八十四人が死亡、校長は不在だった。
 映画は、児童の親たちの十年間を記録。避難がなぜ遅れたかをただす遺族と、組織の判断ミスを隠そうとはぐらかす学校・市教育委員会の姿を映し出した。
 「多くの方に、遺族の立場になって見ていただきたい」と寺田和弘監督(51)=写真。児童の親が撮影したビデオ映像が中心だ。
 保護者説明会で、校長は、「防災計画に基づく避難訓練をしていたか」という遺族の問いに「やっていなかった」、一人だけ助かった教務主任からの震災当日の報告メールは「削除した」と答える。市教委も「『裏山に逃げよう』と話す児童がいた」との生存した子どもの証言が報告書に未記載なことを指摘され、答えに窮する。避難が遅れた理由は十分な説明がなく、遺族は不信感を募らせる。
 一四年三月、亡くなった児童二十三人の十九家族が、市と宮城県を相手取り約二十三億円の賠償を求め提訴。一八年四月、仙台高裁が、市教委や校長らの「平時からの組織的過失」で避難が遅れたと認定し勝訴。一九年十月に最高裁で判決が確定した。
 寺田監督は、映画化した目的の一つを「裁判に至るまでの事実を知ってもらうことだった」と話す。遺族には裁判中、「カネが欲しいのか」などの中傷や脅迫があり、逮捕者も出た。そうした誤解も解こうと「本当は裁判なんてしたくなかった」「子どもに値段を付けるのがつらかった」などの言葉で、裁判に踏み切らざるを得なかった遺族の心情を丁寧に表現した。
 裁判後、津波被害の語り部となった遺族の女性は「(亡き)娘とともに生きて行く決意をしました」と涙ながらに語る。寺田監督によると、取材した遺族の多くが、こうした言葉を口にしていた。子どもが生きるはずだった人生を生きなければいけない葛藤を抱えつつ、前を向き始めた親たち。その姿から、タイトルを「生きる」としたという。
 上映は東京・新宿の「K’s cinema」=(電)03・3352・2471=で。

◆「べこや~」飯舘の女性を追う 「ナオト~」富岡に残る男性は

「飯舘村 べこやの母ちゃん」の場面 ©Mizue Furui 2022

 「飯舘村 べこやの母ちゃん」(古居みずえ監督)は、福島第一原発の事故で避難を余儀なくされた福島県飯舘村の三軒の酪農家の家族を、女性たちを主人公に追い続けた作品だ。
 酪農をあきらめ、花き栽培に変更した家族、百キロ離れた村に移り住んで酪農を続ける家族、飯舘村に戻りそば作りを始めた家族−。決断はさまざまだが、十年の間、家族の病気や老いに向き合い、悲しい出来事も襲う。

「劇場版 ナオト、いまもひとりっきり」から

 原発事故で無人地帯になった福島県富岡町に一人残る男性の姿をとらえ続けたのが「劇場版ナオト、いまもひとりっきり」(中村真夕監督)。男性は、避難できずに残された牛や馬、犬や猫、果てはダチョウまで世話をする。一五年に映画化された「ナオトひとりっきり」の続編で、国が盛り上げようとした「復興五輪」を、男性が覚めた目で見る姿などを描く。
 「劇場版ナオト…」は二十五日から東京・渋谷の「シアター・イメージフォーラム」=(電)03・5766・0114、「飯舘村 べこや…」は三月十一〜十七日、同・中野の「ポレポレ東中野」=(電)03・3371・0088=で上映。

関連キーワード


おすすめ情報

芸能の新着

記事一覧