<絵に潜む男の視線 永澤桂>舞台への期待を誘う「オフ」の表情を描いたロートレック

2023年1月12日 06時00分

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン・ルージュに入るラ・グーリュ》1891〜92年 ニューヨーク近代美術館

 両肘を抱えられるようにして腕を組んで歩く女性。酔っているのだろうか。寄り目のようにも見えて、化粧っ気もない。これは19世紀後半の画家ロートレックの油彩画である。彼女は「ラ・グーリュ(大食い)」と愛称をつけられていた。常連客にお酒をおごってもらい、底なしに飲むのがその由来だ。しかし彼女はこう見えて、花形のダンサーなのである。この絵は、彼女が付き人を伴ってダンスホールに入るところをとらえている。
 彼女の得意技は、スカートをまくって足を高く蹴り上げるカンカンの変形、カドリーユという踊りである。地面から180度真っすぐ上に足を蹴り上げることができるほどの踊り手なのだ。その彼女が踊るのは「ムーラン・ルージュ」。1889年、モンマルトルにできたダンスホールを持つキャバレーで、その名の通り屋根に赤い風車がある非日常的な外観を持つ。妖しい人工の光に照らされた夜の街を愛する人々が集い、享楽的な雰囲気を作り上げた社交場だ。
 ロートレックはこの店の常連になった。そこで見た、ラ・グーリュのダイナミックな体の動きを他の作品でも表現している。場を圧倒する彼女の踊りに心底見惚みほれていたのだろう。
 ところが、この絵の彼女は踊るどころか、素のような表情。右側の女性は、同性の恋人とされる付き人だが、彼女の厚化粧や華やかな表情に比べ、スターはなんとも素っ気ない。一方、彼女のトレードマークでもある高く結い上げられた髪形は完成され、装飾品もつけ、ギャップがある。肩からウエストまでV字型に切り込まれた大胆な衣装からは、力を失いつつある垂れた胸がのぞくのだが、これが私には、崩れた美しさに感じられて魅了されてしまうのだ。彼女の姿はムーラン・ルージュの退廃的な魅力を象徴するかのようだ。
 その彼女は、今まさにホールに入ろうとしている。「入り」は、オンとオフが入り混ざる瞬間だ。衣装や髪は整っているが、表情にはまだ素の部分が残る。彼女を見たくて集まる客は、そんな表情を一目見ようものなら、ますます踊りへの期待感が高まり一気に高揚するだろう。到着した時から楽しみは始まっているのだ。そんな瞬間に目を留めたロートレックのまなざしからは、画家として彼女を観察しながらも、何よりも彼女の熱心なファンであったことが伝わってくる。

ながさわ・けい=西洋美術史・ジェンダー論研究、横浜国立大学非常勤講師


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