<芸人 今昔ものがたり 西条昇>萩本欽一編(2) 「コント55号」の誕生

2022年8月3日 07時43分

若き日のコント55号。右が萩本、左が坂上=1968年3月、東京・有楽町の日劇楽屋で

 東洋劇場の支配人から階上の浅草フランス座への出向を命じられた萩本欽一は、そこで若手コメディアンのトップ格だった坂上二郎と出会う。2人は幕間(まくあい)コントで相手がオチの笑いを取ったまま終わらせてなるものかと、熾烈(しれつ)なアドリブ合戦を繰り広げた。
 萩本は半年後にフランス座を退座すると、自らが座長の「劇団浅草新喜劇」を結成し、浅草松竹演芸場で公演を重ねた。
 ある時、舞台を見たTBSのディレクターに声をかけられ、萩本は歌番組のコントのレギュラーに抜擢(ばってき)される。続いて公開コメディー番組での生CMに起用されたが、緊張のあまりセリフをトチって19回もNGを出し、先輩コメディアンに「おまえなんか、役者やめちまえ!」と怒鳴られた。結局、テレビでは持ち味を発揮できず、浅草に戻ると、仲間から静岡県熱海市のホテル宴会場での司会の仕事を紹介された。連日、海を眺めて温泉につかるうち、萩本の頭の中にコント「机」のアイデアが浮かんだ。
 3カ月間の仕事を終えて浅草の下宿に帰った日、坂上から電話があった。坂上はフランス座を辞めてからキャバレーの司会の仕事をしており、舞台で激しくやり合った萩本のことを思い出して、何げなくマージャンに誘ったのだ。再会した坂上に萩本がコントのアイデアを話すと、それは2人でやったほうがいいという話になり、その場でネタがふくらんだ。
 1966(昭和41)年10月、浅草松竹演芸場の支配人に頼んで開演前の出番をもらうが、最初の3日間はあまりウケず、2人の役柄を交代すると爆発的にウケた。コンビ名は「コント55号」に決まった。
※次回は31日掲載予定。

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