「2人で1人」だから藤子「不二雄」だった コンビ解散後も互いに手放さなかったペンネーム

2022年4月8日 12時00分
 7日、死去したことが分かった藤子不二雄Ⓐ(本名安孫子素雄あびこもとお)さんが、コンビの藤子・F・不二雄(藤本弘)さん=1996年死去=とのペンネームに「不二」の漢字を当てたのは、〝2人で1人〟の意味を込めたからだった。コンビを解散しても互いにこの名前を手放すことはなかった。(森本智之)

1983年、仕事場で取材に応じる藤子不二雄Ⓐ(安孫子素雄)さん㊧と、藤子・F・不二雄(藤本弘)さん=東京・新宿で

◆「2人なら何とかなる」

 運命の出会いは、小学5年生。転校先の休み時間、教室で一人、ノートにチャンバラを描いていた安孫子さんに「おまえ、絵がうまいのう」と声を掛けたのが藤本さんだった。共にひ弱ないじめられっ子。漫画が何より大好きで、母子家庭という境遇も重なり、すぐに打ち解けた。
 安孫子さんは、高校卒業後、新聞社に就職したが、2年足らずで退社、漫画に専念するため上京する。きっかけは、藤本さんの「東京へ出よう」というひと言だった。仕事は順風満帆で、何のあてもない生活に飛び込むことが本当は怖かった。だが「2人なら何とかなるかも」と賭けてみることにした。
 解散を切り出したのも藤本さんだ。生前の安孫子さんによると、87年のある夜、近くに住む安孫子さんの自宅を突然訪れ、「もう別れよう」と告げた。このころ藤本さんは大病を患っていた。「もしかしたら僕や周りの人に迷惑をかけられないと思ったのかもしれない」
 藤本さんの申し出に「少し考えさせてほしい」と引き取っただけで、理由も問わなかった。「大事なことはいつも彼の判断に従ってきた。その彼の決めたことなら」。後日、電話で「分かった」と告げた。

◆白の藤子と黒の藤子

 もの静かな藤本さんと社交的な安孫子さん。素顔の2人は対照的な性格で、違いは作品にも表れた。「ドラえもん」に代表される藤本さんの優しいタッチと、「笑ゥせぇるすまん」のように陰影の強調された安孫子さん。それぞれ「白の藤子」「黒の藤子」と呼ぶ人もいた。
 トキワ荘時代からの友人で、2人のアシスタントも務めた漫画家の永田竹丸さんは「藤本氏は毎日、決まった時間に出退勤し、予定通りに原稿を描く。安孫子氏は、ゴルフだ、お酒だ、と事務所を抜け出すけど、締め切りが近くなると、どこで描いたのか突然、ドサッと原稿を渡してくる。それも完璧な内容で。全く正反対だけど、2人とも天才でした」と話していた。
 安孫子さんは「尊敬する漫画家」を問われると、必ず手塚治虫さんと藤本さんの2人を挙げてきた。2013年に取材した際には「僕にとっての彼は、友人とか家族とかそういう普通の関係を超えた特別な存在なんです」と話した後、ちょっと考えてこう言った。「僕は彼に会わなかったら漫画家になっていなかった。彼も僕に会わなかったら漫画家になっていなかったと思います」

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