自国開催で悲願の金 4年前の失敗に胸中複雑 スキージャンプ男子・原田雅彦

2021年12月12日 12時00分

長野五輪スキージャンプ団体で金メダルを決めた船木に飛びつく原田、斎藤、岡部=1998年2月

<白銀の記憶③>
 視界を遮るほどの降雪の中、ノルディックスキー・ジャンプ男子の日本チームは喝采を浴びていた。1998年2月17日、長野五輪のラージヒル団体。船木和喜が金メダルを確定させるジャンプの着地を決め、駆け寄る仲間たちがもみくちゃにする。その輪の中で泣きじゃくっていた原田雅彦の胸中はしかし、複雑だった。
 4年前、94年リレハンメル大会。原田は「日の丸飛行隊」のエースだった。前年の世界選手権はノーマルヒルを制し「世界で戦えるようになってきた」という自信もあった。1チーム4選手が2回ずつ飛ぶ合計点で競う団体で日本は2位のドイツに大差をつけ、あとは原田がミスなく飛べば金メダルは確実だった。

はらだ・まさひこ 1968年生まれ、北海道上川町出身。踏み切りから高く飛び出す豪快な飛行で、90年代の日本をリードした。リレハンメル五輪団体銀、長野五輪は団体金、個人ラージヒル銅。雪印メグミルクスキー部総監督で、北京冬季五輪は日本選手団総監督を務める。

 しかし「経験のない重圧があった。それをはね返すことができなかった」。踏み切りのタイミングがわずかに早くなった。97・5メートル。結果は銀メダル。着地後、うずくまったまま動けなかった。
 当時のメンバーは原田のほかは岡部孝信、葛西紀明、西方仁也。挽回を期した4年後の長野で岡部とは再び団体で飛んだが、葛西は団体メンバー外となり、西方は代表落ちだった。原田は「西方選手や葛西選手が(94年に)金メダリストになっていれば、違う人生を歩んでいたのかな。考えていくと、私のやったことは取り返しがつかない」。長野で手放しで喜べなかった理由だ。

現在は雪印メグミルクスキー部の総監督を務める

 自身は最後の五輪となった2006年トリノではスキー板の規定違反で失格となり、記録なしだった。「私の特徴は三振かホームランか。波瀾(はらん)万丈のスキー人生だったが、後悔はない」。一方で近年の日本ジャンプ界は、日本選手初のワールドカップ(W杯)個人総合優勝を果たした小林陵侑(土屋ホーム)や女子の高梨沙羅(クラレ)らが安定的に結果を残し、原田は「金メダルの実力はどの選手もある」とみる。
 その力をいかに100パーセント発揮するか。「自信を持って、断固たる自分というものを大いにアピールする。自分のジャンプの確立しかない」と期待する。(敬称略、中川耕平)

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