「破戒」が90年前、世界で初めてソ連で翻訳された理由とは… 島崎藤村が部落差別問題描いた代表作

2021年10月13日 17時00分
 作家・島崎藤村の「破戒」は1931年、世界に先駆けソ連で翻訳された。背景を探ると、部落差別の問題を描いた「破戒」が、マルクス主義の進歩史観の観点から評価されたことがうかがえる。(モスクワ・小柳悠志)

ソ連で1931年に刊行されたロシア語版の「破戒」=モスクワのロシア国立図書館で(小柳悠志撮影)



◆ソ連の文学史観に合致した「破戒」

 モスクワの文学・芸術文書館には、「破戒」を翻訳したソ連の日本学者フェリドマンに宛てた藤村自筆の手紙が残っている。
 「日本の詩も小説も戯曲も、ロシアや欧州で知られる機会がなかった。われわれの考え方、感じ方が外国の人たちに知られ、われわれの文学がもっと無遠慮に批判されてもいい」(一部要約)
 この直筆の手紙は熊本学園大の太田丈太郎教授が確認し「藤村の文学観を伝えるもの」として、日本の全国紙で2013年に紹介された。だがその後、ソ連が「破戒」に重大な関心を寄せていたことが明らかになりつつある。

島崎藤村=藤村記念館提供

 
 ロシア語版「破戒」の序文で、訳者フェリドマンは被差別部落出身者が「資本主義国家日本で奴隷のような状態にある」と解説。ソ連当局が、部落差別の告発を社会的格差を克服するための「階級闘争」と捉えていたことを明かした。
 「ソ連的なこじつけの解釈だが、文学の受容のあり方として興味深い」とみるのは、モスクワ大学専任講師の佐藤雄亮氏(60)。佐藤氏によると、「破戒」はソ連の文学史観に合致したと説明する。
 フェリドマンの夫で日本学者コンラッドも「破戒」について、「社会的視点を備え、虐げられた人々の問題に取り組む作品」と自著で高く評価。同時に「破戒」にはロシア帝政期の作家ツルゲーネフやドストエフスキーの影響があると指摘した。
 藤村は、明治時代に始まった言文一致運動(話し言葉に書き言葉を近づけること)にも取り組んでいたが、フェリドマンらはこれを「古い言語空間の解放」と捉えた。

◆翻訳に持ち込んだ日本の共産主義者

 ソ連は、ほとんど知られていなかった日本人作家の中から、どうやって島崎藤村を見いだしたのか。「破戒」の翻訳の実現に大きな役割を果たしたとみられるのが、藤村と同郷の共産主義者勝野金政(きんまさ)だ。

若き日の勝野金政=グラーク史博物館提供

 勝野は1928年にモスクワに入り、コミンテルンの片山潜の秘書になった。藤村との関係は伏せていたが、ともに木曽地域の旧家出身で付き合いが深く、身内同然の仲だった。
 勝野は1930年頃、モスクワで行われた日本文学の選書委員会に参加し、藤村の「破戒」とプロレタリア作家数人を推挙。委員会では「藤村はプロレタリア作家ではない」と反対の声も出たが、最終的には翻訳に持ち込んだ。
 勝野の長女稲田明子さん(80)によると、勝野はこうした翻訳の内幕を生前に書き残していた。稲田さんは「父は藤村からさまざまな支援を受けており、『破戒』の推挙は藤村への恩返しの意味もあった」と証言する。
 ただ勝野は「破戒」の推挙から間もなく、スターリン体制下の粛清に巻き込まれ、スパイの汚名を着せられ強制収容所に送り込まれた。逮捕がもう少し早かった場合、「破戒」は日の目を見なかった可能性もある。
 勝野は強制収容所を出て帰国後、ソ連の強権体制を暴露する著書を発表し、現在のロシアでは藤村よりも知名度が高い。

 島崎藤村 1872〜1943年。岐阜県中津川市(旧長野県神坂村)出身。主な作品に詩集「若菜集」、小説「破戒」「夜明け前」など。藤村がソ連の日本学者フェリドマンに宛てた手紙によると、海外での翻訳本は最初に中国・上海で「新生」が、次にソ連で「破戒」が刊行された。

 勝野金政 1901〜84年。長野県南木曽町出身。愛知県の旧制中学や早稲田大などで学ぶ。ソ連のソルジェニーツィン、フランスのアンドレ・ジッドに先駆け、スターリン体制を告発した作家として、ロシアでは「日本のソルジェニーツィン」と呼ばれる。

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