日記読み、事実を書く 内田百閒没後50年、初の評伝を刊行 山本一生(いっしょう)さん(近代史家、競馬史家)

2021年10月9日 13時16分
 六月に出た『百間、まだ死なざるや−内田百間伝』(中央公論新社)は、没後五十年を迎えた作家内田百閒(ひゃっけん)(一八八九〜一九七一年)の初の評伝だ。執筆したのは、「日記読み魔」とも呼ばれる山本一生(いっしょう)さん(72)。百閒の日記と作品を中心とする文献から、家族や友人、先輩・後輩、弟子たちとの交わりを丹念に追って、明治、大正、昭和を生きた人間・内田百閒を浮き彫りにした。
 三島由紀夫が「現代随一の文章家」と評した百閒。幻想的な小説『サラサーテの盤』や『東京日記』、ユーモアあふれる『百鬼園随筆』などで知られる。その人物像はといえば、気難しくて涙もろく、借金が絶えない、といったイメージが強いかもしれない。
 「今までと違うこと、言われてなかったことは書きたいと思いました」と山本さんは振り返る。参考文献だけで二十五ページに及ぶ約五百七十ページの本書には、百閒と関わる多くの人物が登場する。とりわけ印象的なのは、ドイツ語を教えた法政大学の学生や弟子たちとの関係だ。
 一年生がゲーテの「ファウスト」のドイツ語劇をやりたいと訴えると、百閒は驚きながらも<折角やると云ふものを止めろと云ふにも当たらないし>と受け止める。授業後にせりふの読み方や意味を教え、練習後には夕食にも連れ出した。
 直接、指導した学生以外にも慕う者は多かった。法政大を卒業してそのままフランス語の教員になった大井征は、百閒の自宅を訪ね、一緒に上野動物園でライオンを眺めたこともあった。大井が病気になった時、百閒は入院費や家族の生活費まで支援を惜しまなかった。同様に、他の弟子や元学生の遺児らの学費を援助していたという。
 「百閒さんはすごく面倒見がいいですよね。借金してその金を弟子にやったり、特に苦しい時に助けてやる。なぜ、それを作品に書かないかというと、面倒を見たことは物語にならないから。彼の本質、人間性は、学生たちとの交流を抜きにして語れないんじゃないかと思う」
 山本さんが綿密に調べるのは、「事実だけを書くのはとても大事じゃないか」と考えるからだ。百閒が祝言をあげたのは一九一二年九月ではなく七月、二〇〜三四年とされる法政大学教授の在職期間のうち二年間、大学を離れた時期があったなど、新たな発見も本書で明らかにした。
 百閒が借金をした高利貸の名前は当時の新聞で割り出した。婚約の仲介を頼んだ大阪の牧師桑田繁太郎という人物をようやく突き止めた。空襲で焼け出された百閒の自宅新築に尽力した編集者上田健次郎が、翻訳家村岡花子の実弟だと判明するまで一週間かかった。
 「日記というのはね、固有名詞の森じゃないですか。その森に一つ一つ明かりをつけるんですよ。そうすると、その中で時々ふっと強い明かりがあって、そこで物語ができるんです」
 小学生の頃から歴史に夢中だった。東大闘争が始まった六八年に東大に入学。近代史を学び、卒業後は石油精製会社へ。仕事の傍ら、三十代半ばから競馬の記事を書き始め、競馬の血統や歴史の翻訳を手掛けるうちに「歴史をやりたい」という思いがよみがえった。
 九七年にフリーになり、約二十五年ぶりに大学の恩師を訪ねた。競馬の「有馬記念」に名を残す有馬頼寧(よりやす)(一八八四〜一九五七年)の日記の編集に参加。「日記読み」としての第一作『恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記1919』(二〇〇七年)は、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。
 主に手掛けるのは、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの時期。特に、日本人だけでも三百万人以上が亡くなった昭和十年代は多くの日記があり、掘り起こすことで新たな視点から時代を伝えられるのでは、と考える。
 二年がかりで書き上げた本書。百閒が戦中の日本文学報国会に加わらなかったり、雑誌掲載が二段組みと知って「雑文の扱いだ」と怒り、深夜に編集長宅に押しかけ原稿を取り返したりしたエピソードがお気に入りという。百閒に対する印象の変化を問うと、少し間を置いて「かなり好きになってしまいましたよね」と愉快そうに笑った。 (北爪三記)

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