永代供養墓を手がける株式会社アンカレッジが2017年に既婚女性242人に行ったアンケートによると、「誰と一緒に墓に入りたいか」の回答として、1番多かったのが「夫」で、全体の64.5%。次いで「子ども、孫」が33.9%。「自分の両親」が26.4%。「ひとりがいい」が16.5%。「ペット」が11.2%。「夫の先祖」が全体の5.4%。これらのことから、夫とは一緒の墓に入りたいが、夫の先祖代々のお墓には入りたくないと考える女性が多いという結果が出た。
犯罪者としての金嬉老のエピソード
昨今の終活ブームの「ゴール」のひとつである「お墓」の問題だが、自分の死後、永遠に誰と共にい続けたいかのみならず、「どこ」ということが重要になってくる。その、「どこ」の願いが叶わなかった、ひとりの男がいた。釜山生まれの両親を持つ静岡生まれの金嬉老(きん・きろう)こと、本名は権禧老(くぉん・ひろ)だ。1968(昭和43)年2月20日、静岡県清水市(現・静岡市清水区)内のクラブで金銭トラブルの果てに暴力団員2人を射殺した後、榛原郡(はいばらぐん)・寸又峡(すまたきょう)の温泉旅館に13人の人質を取って88時間籠城した人物だ。
その際、人質に対しては傷つけたり、脅したりするなど、恐怖を植えつけるようなことは一切せず、むしろ、「迷惑をかけてすみません」と深く詫び、「決着がついたら自殺する!」と固い決意を述べていた。それゆえ人質の中には、金の立てこもりに協力するべく、畳を上げて窓際に重ねた即席の「バリケード」作りを手伝った者さえいた。しかも、テレビ時代が始まった1960年代末期だ。現場の温泉旅館を取り囲む大勢の報道陣に対しても、少しも物怖じすることなく、「歯切れがよく、聞く者の心にすっと入ってくる」声色の魅力や頭の回転の早さ、そして天性のカリスマ性も手伝って、さながら俳優のように自らが受けてきた理不尽な「朝鮮人差別」への謝罪を、テレビカメラの前でアピールし、やはりテレビカメラの前で逮捕された男である。金が引き起こした一連の事件は、「劇場型犯罪」の元祖とも言えるものだった。
息子を愛してやまなかった金嬉老の母親 朴得淑
逮捕後、「死ぬのは瞬間だ。その瞬間だけ我慢すれば、その死にざまは永遠に残る」、「同胞に死を恐れなかった金嬉老という男の死にざまを永遠に残す」と、最高裁まで裁判を闘った金だったが、1975(昭和50)年に無期懲役が確定し、熊本刑務所に収監された。籠城中、「日本人だけではない。韓国の人も見ている。ヒロ、立派に死になさい」と、新品のパジ・チョゴリ(韓国の男性用の民族衣装)と下着を差し入れ、「絶対に無様なところを見せてはならない。お前が死んでも私が立派に生かします。誰かがいつかこういうことをしなければならないことを母は前から覚悟していました」と言った金の母・朴得淑(パク・トゥクスク)は、静岡から熊本まで、月に1〜2回、片道1泊2日をかけて、6年後、脳血栓で半身不随になるまで金に会いに行っていた。
差別と貧困の中で育て上げた朴得淑
当時、そして現在であっても、在日コリアンは「みんな」、日本人から差別され、辛い思いをし、それが心の傷となって、それが時折うずき、なおさら苦しくなる経験を多かれ少なかれ有している。しかし、涙もろく、苦しんでいる者がいたら真っ先に助けずにはいられない義侠心、その反面、自分を侮辱した警察官を憎み、暴力団を憎み、それを抹殺し、更には日本人が意識的・無意識的に行っていた民族差別を「糾す」ために一連の事件を駆り立てたのは、夫・権命術(クォン・ミョンスリ)の不慮の事故後、再婚するまでの3年間、くず拾いをしながら女手一つで金を含めたきょうだい4人を育ててくれた母・得淑の情の深さが、金に深く影響している。得淑を知る人は誰もが「仏さんのような人だった」と言うほど、自分たちも極貧の中にあるにも関わらず、ホームレスの母子を見るにみかね、家で体を洗わせてやった上に、シラミだらけの服を着替えさせた。そしてなけなしの金や食料を持たせてやり、お互いに涙を流し合いながら別れて行く姿を、幼少期の金はいつも目の当たりにしていたという。そんな得淑は常に金に「朝鮮人の誇りを忘れてはならない」と繰り返しつつも、決して、日本人を憎んだり、ひどく言ったりしたことはなかった。金のことを、人の痛みの分かる人間として育てようとしていたのだ。
母の遺言を叶えた金嬉老
そんな得淑は1998(平成10)年、静岡市内の老人ホームで亡くなった。服役中の金は当然、母の葬儀に出ることは叶わなかった。金を支援していた韓国人僧侶・朴三中(パク・サムジュン)師を通して得淑の「ヒロが出てきたら、どんなに貧しい生活になってもいいから、一緒に釜山に帰りたい」という思いを聞いていた金は、翌年、仮釈放が認められた際、母の遺骨を首にかけ、母の故郷・釜山に降り立った。心の中で金は、「オモニ。今、オモニの故郷、釜山に帰ってきたよ。これからはヒロと一緒だよ…」と母につぶやいたという。仮釈放の条件は、韓国送還後、日本へ再入国しないことだった。金は獄中で韓国語を独学したとはいえ、生まれたのは静岡県だ。しかも当時70歳だった金の人生の大半は、刑務所暮らしだったこともある。当初は不満と戸惑いがあったというが、朴師の説得に腹をくくり、了承した。
無事韓国に戻った金嬉老だったが
帰国した金は「日本の民族差別と闘った英雄」として韓国国民に迎えられ、取材攻勢や手記の版権競争が起こった。日本での体験を韓国国内での講演会で語ったり、果ては「スタミナドリンク剤」の広告塔になったりするなど、一種の「ブーム」の渦中に置かれてしまった。そんな金だったが、2000(平成12)年当時、釜山からソウルに向かう特急列車の中で、ひとりの日本人と出くわした。そこでしばらく日本語で話していたところ、車掌が「日本語で話さないでくれ」と注意した。それに対して金は、「言葉に国境はないんだ。大体日本語はけしからんということでは、視野が狭すぎる。もっと未来につなげる考え方をしてくれ」と言った。それに車掌はびっくりして、「わかった」と言ったエピソードを挙げつつ、「おれのことを民族差別を訴えた英雄という人も多いけど、お互いが愛情をもって話し合えば、韓日関係はよくなる。日本人だって、差別しない、いい日本人はいっぱいいるんだ」と作家の阿部基治に語っていた。しかし、金が「英雄」として、韓国で一生を全うすることは叶わなかった。
金嬉老が韓国で犯した過ち
もともとの激しい性格、刑務所という「閉じた」空間での生活が長かったこと、更に不慣れな韓国語や韓国社会での生活ゆえに、金は再び、トラブルに巻き込まれてしまう。獄中結婚していた女性に収監中の1993(平成5)年、母・得淑が金のために必死で貯めていた預金や、金の著書の印税、支援者からの支援金全てを持ち逃げされていたにもかかわらず、再び釜山まで訪ねてきたその女性と金は同居し、その2ヶ月後に口座から預金を勝手に引き出されてしまう。それからおよそ半年後、金を支援していた朴師の信徒であった女性が、夫からのDVに苦しんでいたことに同情し、恋愛関係となる。女性を救いたいと思った金は、2人の家に行き、夫と乱闘になり、家に火をつけてしまう。殺人未遂と放火容疑で逮捕拘束後、精神鑑定を受けた金は「性格障害」と診断され、公州の治療監護所に2年間収監されることになってしまった。
最期は日本で眠る母の墓に一緒に埋葬してほしいと願った金嬉老
2003(平成15)年に出所後の金は、「体を張って」守ろうとした女性と仲むつまじく過ごしつつ、釜山の、日本海を臨む丘で、対馬が見える、海で金が生まれた清水につながる場所をよく訪れるようになっていた。2008(平成20)年、テレビ朝日の『スーパーモーニング』の取材に、「思い出は清水に一番たくさんあったと思う。その清水の町の中で、日本の人たちにはずいぶんかわいがってもらったし、よくしてもらったし…何ヶ月も考えて我慢できなくて思いつめていくその過程というのは、そんだけ自分は日本が好きだ。日本の皆様が好きだという気持ちがやっぱり言葉では出せなかったけれど、どっちみちおれは死んだら行くところは日本しかないんだから、日本政府がお骨でも日本に入れてくれないっていうんだったら、日本の海の近くにお骨をばらまいてくれればいい…」と語っていた。
その2年後の2010(平成22)年2月、金が日本政府に渡日許可を求める嘆願書を出す意向であると報じられた。それは静岡にある母・得淑の墓に墓参りしたかったからだという。しかし金はその願いが叶わぬまま、そのわずか1ヶ月後の3月26日に、前立腺がんで亡くなった。
生まれた場所が「故郷」でありながら「異郷」ということの意味
ブルガリア生まれでフランス在住の思想家、ツヴェタン・トドロフは、「自らが親しんだ枠組み、環境、国から切り離され、異郷に生きる者は、最初はつらい思いをする。自分の仲間のところで生きるほうが心地よいものなのだ。しかし彼はこの経験から利益を引き出せる。彼は現実と理想をもはや混同しない術、文化と自然をもはや混同しない術を学ぶ。自分たちの目の前にいる人々が私たちと違ったふうに振舞うからといって、彼らが人間でなくなるわけではない。ときとして、自分を受入れてくれた人々の軽蔑や敵意のせいで生じた憎しみに閉じ籠ることもある。しかし、この憎しみを乗り越えるならば、興味深いことを発見し、寛容になる術を学べる」と語っている。
しかし、金のように自ら生まれた場所が「ふるさと」でありながらも、同時に「異郷」でもある。更に、自分のアイデンティティの源である「母国」でありながらも、結果的にそこも「異郷」だった人間は、自身をどのように定め、周囲との違和感や摩擦を抱えながら、それに抗うか、それとも自身をごまかしながら宥和するのか。そして最終的に、どこで死ねばいいのだろうか。
金の遺言は、「遺骨の半分を両親が生まれた釜山の海に散骨し、残り半分を母の墓に一緒に埋葬して欲しい」というものだった。金を支援し続けた朴師がそれを引き受け、粉状にした骨を釜山の海に散骨し、残りを母の墓所に埋葬された…はずだった。
しかし実は、釜山の海への散骨はなされたものの、金が望んでやまなかった、母の墓所に入ることは叶わなかったのだ。一部の身内の者が反対したためだった。日本に「帰り着いた」金の骨は、支援者らによって、籠城事件を起こした寸又峡でひっそりと散骨された。皮肉にも、あの時こそが、金の人生の最高潮だった。それを思うと、寸又峡で散骨されたことは、「ヒーロー金嬉老」を飾る「セレモニー」とも言えるが、金の遺志が半ば叶わなかったことが、金の置かれた人生そのものの悲哀を物語ってもいる。
犯罪者ではあったが・・・
金は確かに、2人の人間を殺し、13人の一般人を人質に、温泉旅館に立てこもった「極悪犯罪人」である。日本に暮らす、金の身内のひとりが、「見栄っ張りでずるくて極端な男」と評する通りの人間なのかも知れない。しかし、日本人/朝鮮人の枠を超え、「金嬉老」として唯一無二の存在として「生きた」人物でもある。日本と朝鮮半島に横たわる苦い歴史に翻弄された一生だったが、死して後も安住の地はなかった。彼には、「どこ」にも属することができなかった人物としての不幸はあるが、「オンリーワン」の人間として生きられたことの幸せを、金嬉老の魂があるとしたなら、苦しみや悩み、生きづらさ、しがらみから解放されている「今」こそ、かみしめて欲しい。少なくとも、古いしがらみや人間関係を死んでからも引きずりたくないため、「夫の先祖代々の墓に入りたくない」と思う日本人女性よりは、金は幸せだったと思う。
参考資料
■岡村昭彦『弱虫・泣虫・甘ったれ ある在日朝鮮人の生い立ち』1968年 三省堂
金達寿「金嬉老なる人間」武田清子(編・解説)『戦後日本思想大系 2:人権の思想』1970年(284–303頁)筑摩書房
■本田靖春『私戦』1978/1982/2002/2012年 河出書房新社
■山本リエ『金嬉老とオモニ −そして今』1982年 創樹社
■金嬉老『われ生きたり』1999年 新潮社
■阿部基治『金嬉老の真実 寸又峡事件の英雄の意外な素顔』2002年 日本図書刊行会
■『実録プロジェクト893XX 金嬉老 1、2、3 無期懲役拘禁52年 落ちた英雄』
■ツヴェタン・トドロフ 小野潮(訳)『異郷に生きる者』2008年 法政大学出版局
■「シリーズ 時空ミステリー:‘ライフル魔’40年目の告白〜金嬉老」『テレビ朝日 スーパーモーニング』2008年2月28日放送
■『実録ドキュメント893:日本にも裏切られ韓国にも裏切られた金嬉老最後の証言』2009年 株式会社GPミュージアムソフト
■奥村博史(編)『毎日ムックシリーズ 20世紀の記憶 新装版 1968年グラフィティ』2010年 毎日新聞社
■柳錫「金嬉老事件 韓国人妻が綴った夫婦ゲンカ日記」「文藝春秋」編集部(編)『私は真犯人を知っている 未解決事件30』2011年(128−132頁)株式会社文藝春秋
■鄭鎬碩「終わらない『金の戦争』 −近年における『金嬉老事件』の文化的専有をめぐって」『東京大学大学院情報学環紀要 情報学研究』No. 82 2012年 (21−42頁)東京大学大学院情報学環・学際情報学府
■青木理「解説 色褪せぬ本田靖春の憤りとメッセージ」本田靖春『私戦』2012年 (388−394頁)河出書房新社
■八木澤高明『日本殺人巡礼』2017年 亜紀書房