小林 誠(第8期)

中国、パキスタン、刑務所そして少年院

多摩少年院 医務課長
小林 誠(第8期)

 

小林 誠(第8期)

 高校1年の時、『マザーテレサとその世界』というドキュメント映画を全校生徒で観た。インドのカルカッタの路上で衰弱したホームレスを、マザーテレサとその仲間の修道女達が助けていた。この映画に衝撃を受け、途上国の貧しい人々のために働きたいと考え、将来医師になることを決めた。大学時代は長期休みを使ってフィリピン、中国を旅行し、途上国で働きたい気持ちがますます強くなった。
 平成元年(1989年)に大学を卒業し、東京女子医大 東医療センター(当時は第二病院)で研修を受け、その後同センターの検査科に入局し、消化器内視鏡の仕事をした。卒後8年目(1997年)からJICA(国際協力機構)が中国で行っている小児予防接種事業プロジェクトに2年間参加し、国際協力に手応えを感じ、帰国後(1999年)国立国際医療研究センター(身分は国家公務員)に転職し、本格的に国際協力の仕事を続けた。パキスタンでも小児の予防接種のプロジェクトが始まり、2003年から2年間赴任した。少数民族、貧しい家庭、親が読み書き出来ない家庭の子供達が、予防接種を受けられず、麻疹などで亡くなっていた。途上国の中でも格差があり、社会的弱者がいることが分かった。2004年は日本政府の対パキスタンのODA(政府開発援助)50周年だったので、パキスタン政府が記念切手を発行することになった。アフガニスタンに近いパキスタンの山間部の、子供が誰も予防接種を受けていない村で、子供に経口ポリオワクチンを投与している写真が記念切手の図柄として採用された(写真)(「切手 ポリオ 小林」で検索すると外務省のホームページの説明文にアクセスできる)。
 2006年から2年の予定で再びパキスタンに赴任したが、各地でテロが頻発するようになっていた。ある晩、同じプロジェクトで働く日本人の同僚とその家族と私の家族で首都イスラマバードにあるイタリア料理店に行くことになっていた。当日、同僚が体調をくずし、その店に行かなかった。そしてその晩、その店で爆弾テロが起こり、多くの外国人が死傷した。この事件で私は大きなショックを受け、治安の悪い途上国での仕事を続けることを断念し、国立国際医療研究センターを辞める決意をした。
 当時3人の子供は0才から5才で、日本で妻と共に子育てを一緒にしたいと考え、(1)国家公務員、(2)転勤がない、(3)ワークライフバランスが良い、平たく言えば「仕事がきつくない」という条件で仕事を探した。法務省が管轄する刑務所や少年院で医師が不足していることを知り、厚労省から法務省に異動(転勤)することにした。
 受刑者のイメージは、体や声が大きく、全身入れ墨の強面(こわもて)だったので、配属先の医療刑務所の出勤が近づくにつれて、緊張した。ところが実際に医療刑務所に入所(入院)している受刑者達の多くは、生活苦で万引きを繰り返したり、無銭飲食をした身寄りがない中年男性や高齢者だった。忘れられない患者がいる。進行した肝細胞癌で軽度の知的障がいを持つ50代の男性受刑者だった。肝動脈化学塞栓療法(TACE)の適応があり、服役前に数回この治療を受けていた。同じ治療を受けるように勧めたが、「生きて出所しても、社会で生きていく自信がないから、治療は受けたくないです」と言って、治療を拒んだ。そして数か月後、私と看護師と刑務官が見守る中、静かに亡くなった。家族に連絡を取ったが、「あの人とは縁を切っているので、もう連絡しないで下さい」とのことだった。お金がなかったり、社会に居場所がなかったり、生きずらさを抱えた人が刑務所には流れてくる。日本の中にも社会的弱者がいることが分かった。
 その後法務省内で転勤することになり、現在は少年院で働いている。少年院には知的障害や発達障害を持つ者、虐待やいじめを受けた者などもおり、加害者である前に、被害者だった者も多い。中国、パキスタン、刑務所そして少年院と、働く場所は異なるが、偶然にも同じ方向を向いて仕事をしているように感じている

 

 

 

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