フェルメールという静かな変態(オランダ・フェルメール展に寄せて)

目次

  • はじめに

  • フェルメールの変態ポイント1

  • フェルメールの変態ポイント2

  • フェルメールの変態ポイント3

  • 他に印象的だった絵

  • 結論

はじめに

ある国に住み始めると、最初の1-2年はいわゆる蜜月期で、何もかもが素晴らしく見える。街並みも、人々も、文化も、新しいものは全て面白いし素敵!となるのである。だが、その後はひたすらその国の悪いところばかりが目につく、倦怠期が来る。何をとってもダメ。ご飯はマズイし天気は悪い。道は臭いし電車は汚い。

私が初めてフェルメールの作品を鑑賞したのは、丁度オランダに来たばかりの頃だったと思う。アムステルダム国立美術館には年パスを作って通い、フェルメールの他にもレンブラントやゴッホ、オランダまわりの画家の作品を、文字通り館内の端から端まで有難がって観ていた。授業ではオランダ人の先生が誇らしげに、「絵画にはヒエラルキーがあり、歴史画や宗教画がトップなのに、黄金時代のオランダからはフェルメールの作品のように風俗画や、ヴァニタス(静物画)の名作が多く生まれました。」と言う。なるほど、17世紀のオランダといえば、他のヨーロッパの国々が豪華な宮廷文化を発展させている中、裕福な「市民」が芸術を支えていた。なので、宮廷向けの物々しい作品ではなく、当時の人々の暮らしに寄り添うような、親近感のある絵が流行ったのである。

最初の頃は、「オランダのそういうところが素敵!市民いけいけ!」と思っていた私だが、数年経つと「でも結局、神話のシーンや歴史的イベントを描いた絵には勝てないんだよね。インパクトが無い。絵のサイズもやたら小さい。庶民クサくてつまらない。」と心の中で文句を付けるようになった。フェルメールだってそうだ。17世紀に生きていた、どこの誰かも分からない馬の骨の生活風景ばかり描いて、一体何が面白いのだろうか?

物でも人でも、何かを好きだということは、その良さがわかるということである。オランダ生活も9年目となり、倦怠期を乗り越えた今の私は、フェルメールが好きだ。それは、フェルメールの作品の良さが分かるようになったからである。食傷気味だった「真珠の耳飾りの少女」も、昨年マウリッツハイス美術館で実物を見たら「何これ、良いじゃん! 」となった。では、フェルメールの良さって何だろう?

言葉は万能では無いので、音楽にしろ絵画にしろ、芸術を言葉でどうにか説明することは、本来はとても困難なことである。そもそも芸術家の脳内にあった理想像が作品に反映され、それを鑑賞した私がアレコレ言葉にし、更にそれを読んだ皆さんが理解しようとするのだから、芸術家から読者の皆さんまでの間に何枚ものフィルターがかかってしまう。芸術鑑賞とは、伝言ゲームのようである。

その上、中途半端に「フェルメールという人はどうやらスゴイ画家らしい。かの国オランダでは、かつてない規模のフェルメール展とやらが開催され、全37作品のうち少なくとも27作品を一気に見れるからと、世界中のファンがアムステルダムに巡礼しに来る程だとか。きっと大した天才なのだろう。」などという「よくわかんないけど凄い人」フィルターがかかるともっと良くない。なので、フェルメールがどういう人生を送ってきて、何を描いて、教科書的な意味でなぜ凄い画家で…などという基本情報みたいなことを、今回私はここに書かないつもりである。究極的には、そういう情報が無くても良いものは良いし、悪いものは悪いと、私たちは自分で判断できるようにならなければいけない。

今から私が書くことは、そこまで詳しくこの画家のことを知らない私が「流行っているし、真珠の耳飾りの絵は好きだったし、よし見に行こう」くらいの気持ちでチケットを取り(その割には人気過ぎてチケット入手が困難でした)、2023年5月21日にアムステルダム国立美術館でフェルメールを見て思ったことを、読み物として面白くなるようにまとめたものである。あくまで私の感想、私の作品の見方であり、決して美術を勉強した人による解説文ではないので悪しからず。まだフェルメールをよく知らない方は、どうか私の偏った意見に左右されず、いつか彼の作品を見る時は真っ新な気持ちで臨んで欲しい。

さて、世界中から集められたフェルメールの作品を一通り見た私は、フェルメールのことを変態だと思った。以下、変態ポイントを細かくみていこう。

フェルメールの変態ポイント1

彼の絵で頻繁に扱われるテーマ、それは女性が手紙を読んでいるところである。2021年に壁の部分が修復され、今まで隠れていたキューピッドが発見されたことで世間を騒がせたこの絵が、私がアムステルダムのフェルメール展で鑑賞した中で一番好きな作品だった。

窓辺で手紙を読む女 (1659)

壁に掛かる大きなキューピッドの絵は、彼女の読んでいるのが恋文であることを示唆しているようだ。傾いた皿からは果物がこぼれているが、彼女は気に留める様子がない。手紙を受け取り、読みやすいように日の光が差す窓際に急いで来たのだろうか。いつの世も、想い人からの便りを直ぐに読みたくなるのは変わらないということか。そう思うと、360年近く前の女性に急に親近感が湧いてくる。彼女はもう、手紙の最後の方まで読んでいるようだが、何が書いてあったのだろうか。表情からは、良い便りなのか、悪い便りなのかはわからない。カーテンが絵の右側を少し隠しているせいで、彼女の大切な瞬間を―楽しみにしていた手紙をやっと受け取り、慌てて、でも呼吸を整え心を落ち着かせて読んでいるであろう瞬間を―覗き見してしまった気持ちになる。そう、フェルメールの絵は、鑑賞者を覗き見している気持ちにさせるのである。

手紙を読む、という行為は本来とてもパーソナルなものであるはずだ。現代人だって、一緒に居る友人のスマホにLINEの通知が入ったら、詮索せずにそっとするだろう。「誰から?」「何が書いてあるの?」なんて聞かないし、例えその場で「急ぎの要件だから」と言われてスマホを開けられても、それをわざわざじろじろと観察したりしない。ああそうなのね、とこっちもスマホを開けて、少し時間を潰すまでである。

だが、フェルメールはこの「本来なら詮索すべきでない、他人の日常のワンシーン」をやたらと興味深く描くのである。それも、一枚だけ描くならまだしも、何枚も何枚も執拗に同じテーマで描き続けるのである。手紙を書いているところ、読んでいるところ、受け取っているところ。恋文でも、そうでなくても、普通に生きている人はそういうシーンをわざわざ「鑑賞」したいなんていうおかしな性癖は無いのでは?と私は思う。全く、彼はどういう趣味をしているんだろうか。

そして、一通り展示を見終えた後に、ふと「あれ?なんで私はこんなにたくさんの、他人のパーソナルな瞬間を覗き見しているんだ?」と我に返る。そこでやっと、作品の芸術性の高さが、彼の変態さを上手にカバーしていることに気が付くのである。

(↑ものによっては、いい具合にカーテンで画面を覆うことにより、さらに「覗き見」感を出している。覆われていると、更に見たくなってしまうのが人間の性である。)

補足を入れておきますと、17世紀のオランダでは「手紙」は割とポピュラーな絵画の題材ではあったようです。識字率の高さが垣間見えますね。ただ、私の中で「手紙」がモチーフの絵画はどうしてもフェルメールの作品の印象が強いです。実物も強烈な印象でした。

フェルメールの変態ポイント2

先にも少し触れたように、彼は同じことを何度も繰り返す。執拗に、何度も、だ。手紙と女性、というテーマもそうだし、代表作の「真珠の耳飾りの少女」を始め、やたらと真珠ばかり作品に登場させるのも同様だ。(以下の画像は、彼の作品全37点中、真珠が使われている絵18点を私が集めてコラージュしたものです。)

さらには、画中の人物の服までも毎回似ていて、服の色は黄色と青が圧倒的に多い。

明らかに服のデザインが全て同じものを集めてみました。

青一色か、青×白の服たち。似ているデザインを隣同士に置いてみました。

黄色×青が目立ちますね。こちらも似ているデザインを隣同士に置いてみました。

加えて、絵の構図もどれも似ている。窓は必ず左側で、窓の装飾や形が同じような絵がいくつもある。人物が1人の時は窓の方、つまり左向きに立っていることが多い。曇天の多いオランダで長く暮らしている私は、「折角日の光がある日なら、そりゃ窓の方を向きたくなるわ。」と画中の人物に同情しながら見てしまう。

家具も毎回似ている。同じ、又は似たような椅子や絨毯が頻繁に絵画に登場する。

窓が左側にある絵画たち①

窓が左側にある絵画たち②

さらに、女性の顔も毎回似ている。一つの空間にたくさんのフェルメールの作品が集まっていた今回の展示では、余計にそれが際立った。私の好きなダンテ・ガブリエル・ロセッティの描く女性も、どの絵を見ても同じような顔をしているので、こちらは単に同じモデルを使い回していたのかもしれないが…

絵のテーマ、服の色、家具、構図、人物、とここまで反復的だと、私は狂気すら感じてしまう。ベートーヴェンが楽譜上でpから間髪入れずにfにすることを繰り返し指示したり、ラヴェルのボレロでは執拗に同じリズムを叩き続けたり、ストラヴィンスキーの春の祭典ではあの衝撃的な和音が鳴り続けるように、天才は時に、何かを繰り返す。天才にも色んなタイプがいるとは思うが、このタイプの天才は私からすると変態的である。飽きずに同じことを何度もする、それも強迫観念ではなく、自分の意志でやっているのである。憑かれたかのように、気にいったことを繰り返す様が、もし変態でなければ一体何であろうか…あくまで私の主観だが。

また補足。ゴッホが似顔絵を描き続け、村上春樹や大江健三郎が自己模倣の作家と言われていることを思い出しました。でも、繰り返しって音楽では割と主要な技法だったりしますよね。そこらへんはまたいつか。

フェルメールの変態ポイント3

そもそも、私がオランダ倦怠期を乗り越えて、フェルメールの良さに気づいたのは「真珠の耳飾りの少女」を昨年見に行ったことがきっかけである。今回のフェルメール展を私が訪れた時には、既に彼女は家に帰ってしまっていた。とはいえ、私は彼女がいるマウリッツハイス美術館があるハーグ市に住んでいるので、見ようと思えばいつでも見に行くことができる。オランダのモナリザとも言える彼女だが、何がそんなに魅力的なのだろうか。眉毛が無いからミステリアスに見えるのか、はたまたエキゾチックな衣服・ターバンと、背景の深い闇のコントラストが謎を作っているのか?

真珠の耳飾りの少女 (1665)

私は初めて「真珠の耳飾りの少女」を見た時からずっと、この絵の魅力は少女の性的魅力が静かに誇張されているところだと感じていた。目は笑っておらず、濡れたような赤い唇は半開きで、反射した光が真珠の耳飾りと唇に映っている。頭が少し傾いているせいで、唇の艶と真珠の艶が一直線にならんでおり、鑑賞者の視線は否応なしに口元に向いてしまう。服の質感がマットなので、余計に艶が目立つ。静かな絵だが、一度唇の艶に気が付くと絵の見方が完全に変わってしまう。

よく見ると、結構ふっくらとして肉感的な唇である。「大人の女性になっていく少女の危うい瞬間を描いた絵」と評してしまえば話は簡単だが、この絵で本当の意味で変化しているのは私たちの心の方である。少女だと思って見ていた女性に色気を見出した時の危うい瞬間を、フェルメールは絵を通して私たちに思い起こさせているのだ。

「真珠の耳飾りの少女」の鑑賞者を吸い込むような眼と濡れた唇は、今回のアムステルダム国立美術館の展示に来ていた他のフェルメールの絵を思い起こさせる。「赤い帽子の少女」である。

赤い帽子の少女 (1669) 赤い帽子の女、又は赤い帽子の娘、とも。オランダ語のタイトルは  Meisje met de rode hoedで、Meisjeは少女という意味である。

こちらの絵でも、真珠の艶と唇の艶が一直線に並べられている。振り向いた瞬間を捉えた構図は「真珠の耳飾りの少女」と似ているが、絵自体はかなり小さめで、「真珠の耳飾りの少女」とは違った印象だった。(真珠の耳飾りの少女が46.5×40cm、赤い帽子は23.2×18.1cm)

些か細かい描写がぼんやりしているようにも見えた絵だが、実物の眼差しの吸引力には凄まじいものがあった。少し男性的にも見える顔と、上気した頬や半開きのぷっくりとした唇はどこかアンバランスだ。彼女は女にも、少女にも見え、誘っているのか、ただこちらを見ているだけなのか、どちらともつかない曖昧な表情をしている。整っていないことが鑑賞者を少し不安にさせる。どうも心の平静が乱される絵である。

フルートを持つ少女 (1670)

正直全く私の好みの顔立ちの女性では無いのだが(実のところ、フェルメールが描いた女性で、私が美人だと思う女性は本当に少ない…これは趣味嗜好の問題でしょうけれど。)実物の展示を見た時は、その黒い瞳がどこまでも追いかけてくるように感じた。この絵画で一番色の暗い部分である二つの瞳は、展示された絵の中で最も吸引力があったと感じた。

隣に飾られていた「フルートを持つ少女」の絵も、半開きの口、そして真珠の艶と唇の艶が目立つ作品である。しかし、私は「赤い帽子」の瞳にずっとこちらを見つめられ、思考を掻き乱されていたのでじっくりと鑑賞できなかった。

それにしても、この唇である。彼の他の絵画に出てくる女性の唇は、ここまで強調されていない。一枚も服を脱がさずに、これほどにまで危うい色気を少女に与えるフェルメール、やはり変態である。

 

上から、真珠の耳飾りの少女、赤い帽子の少女、フルートを持つ少女

彼の他の絵画の唇を度アップにしてみました。潤い×艶×色味×肉感共に、「真珠の耳飾りの少女」や「赤い帽子の少女」「フルートを持つ少女」には敵いませんね。

他に印象的だった絵

本物を見るのと、画面で鑑賞するのでは、絵画の印象は変ってきてしまう。どれだけスキャン技術が発達して、家にいながらスマホで世界中の傑作を鑑賞できる時代になったとしても、本物と高精度スキャンされた絵は全く違う。

今回フェルメール展に行くにあたり、アムステルダム国立美術館の公式HPでフェルメールの絵画をそれぞれじっくり見ていく動画を事前に鑑賞した。実際の展示では、絵はガラスで覆われ、周りには柵が付けられていたので、動画のようにかなりズームインして細かいところを見ることはできなかった。しかし、眺めていると、不思議な気分になってくるのである…あれ?この絵、動いている?

レースを編む女 (1670)

こうやって画面越しに絵を見ていると、全く「今にも動き出しそうな」感じには見えないので、説明が難しい。しかし、実際に鑑賞していると、実際に彼女が静かに動いているように見えたのである。巻き毛の毛先は少し揺れ、手は素早く、でも確実に作業をしており、眉がたまにキュッと締まる様子が残像として網膜に残っているのである。そのままじっと見ていると、邪魔をしてはいけないのでは?という気持ちになる。足音を立てないように、そろそろと次の絵に向かって歩きながら思った。「いやはや、かなり集中している様子だったし、そっとしておいてあげよう。」

そしてまた我に返る。相手は静止画の中にいる、どこの誰かも分からない17世紀の女性だ。「私は動画では無く、絵を見ていたはず…?」と狐につつまれたような気持ちになったことは言うまでもない。

この絵のタッチが現実的で躍動感溢れるものだったかというと、全くそんなことは無い。柵のせいでかなり近くでは見れなかったし、絵自体は小さめであった。「今にも動き出しそうな」リアリティ溢れる絵かというと、全くそのようでも無かったはずだ。ただ裁縫をしているだけの絵のはずなのに、静止画が動いているように見せてしまうフェルメールの圧倒的な技量、これは実物を見ないと伝わらないだろう。

私は今まで散々、ヨーロッパの名だたる美術館に足を運び、力強いバロック美術から写実主義的な絵画まで様々な絵を見て来たはずなのに、こんな体験はしたことが無かった。フェルメールの絵画は、まるで17世紀の生活を動画で見ながら、適当なところで停止ボタンを押し、その瞬間を額縁に入れたようである。絵の中には確実に、彼が生きて見た世界が今もまだ静かに続いているのである。

結論

最初の問いに戻ろう。フェルメールの良さとはなんだろうか。

私は、生演奏の魅力は「一瞬が永遠になる」ことにあると思う。奏者が出す音は一瞬で消えるが、その瞬間があまりに強烈だと―強烈というのは静かに強烈というのもあり得るし、エモーショナルに強烈ということもあり得ると補足しておく―聴き手の心に一生残ったりすることがある。その人が死ぬまでに何度もその瞬間を思い返し、浸れば、その人にとってその一瞬は永遠となっているのではないか。

フェルメールの絵画にも同じような魅力があると思う。日常のほんの一瞬が、彼の筆により永遠となる。何百年の時を経ても、現代にフェルメールを鑑賞する私は静かに時空を超えることができる。覗き見しているようだったり、反復的だったり、唇が妙に色っぽかったり…という彼の作品ににじみ出る変態さに惹かれているのもそうだが、彼の絵の中で「瞬間」がそれ以上のものになっているのを見るのが、私は好きなのかもしれない。


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絵画Satomi Chihara