自動車の世界三大レースの一つ、ルマン24時間でトヨタに初優勝をもたらすなど活躍した中嶋一貴(36)が、今季限りでルマンをハイライトとする世界耐久選手権(WEC)から勇退した。最後のレースとなった最終第6戦では通算17勝目を挙げ、有終の美を飾った。
今後は未定だが現役引退も視野に入れているという一貴。この報に、父親で日本人初のレギュラーF1ドライバー、悟氏(68)の現役引退時を感慨深く思い返した。
1991年の夏に引退を表明した悟氏。母国最後となった鈴鹿の日本GPは「ありがとう中嶋」と書かれた横断幕が張られ、「中嶋悟」の字と車番の「3」をあしらった日の丸があちこちで振られる大フィーバーに。だがレースはトラブルでリタイアに終わった。
次の最終戦・オーストラリアGPの決勝日は大雨。ラストランを取材するわれわれの期待は高まった。89年、悟氏は同じ雨中のアデレードで最速ラップをたたき出し、19台抜きを演じていた。体力で劣り晴れではマシンのパワーに苦戦したが、ぬれた路面では高い操作技術でピカイチの速さを発揮。「雨のナカジマ」として知られていた。
だが、この日の雨量は2年前の比ではなく、悟氏はクラッシュしてリタイアに終わる。「雨が降ってきたときは良い方に考えたんだけど、終わりがちょっとね…」。悔しさをかみ殺し、淡々と語る様子が胸にしみた。翌日付の弊紙には、現地で父を応援した6歳の一貴と傘をさして帰路に就く写真が掲載されている。
悟氏の功績を、いかに引き継ぐかが重要-。私はそんな記事を書いた。『親に連れられてレースを見に行った子供が成長し、その子をまたサーキットに連れて行く。「欧州では当たり前のそうした姿が日本で見られるようになって、初めて(モータースポーツが)定着したといえる」』。交流があったベテランカメラマン、間瀬明氏の言葉を引いて、そうつづった。
その後、小さかった一貴少年は成長し、3年間参戦したF1では結果を残せなかったものの、ルマンで3連覇。WECシリーズも制し、サーキットレースでは日本人で初めて国際自動車連盟(FIA)公認の世界王座に就いた。ほかにも世界三大レースの米・インディ500を佐藤琢磨が2度制するなど、後を継いだ者たちは実績を積み上げてきた。親子でサーキットを訪れるレースファンも珍しくなくなった。
中嶋悟が切り開いた道には素晴らしい花が咲いたんだなあ。改めて、そう思った。一貴のWEC勇退が発表された11月3日は、あの雨のラストランからちょうど30年目の日だった。(只木信昭)